見出し画像

YA【ノスタルジア】(8月号)


2016/8


p1

 菊地家では毎年、八月のお盆には父の故郷の京都に里帰りする。
 今年は十三日から十七日までと、いつもより一日長い四泊五日だ。
 運よく、父が会社の休みが取れたのだ。母は前々から、大文字の送り火を最後まで見たいと言っていた。
 京都の大文字の送り火は、十六日の夜だ。
 父の仕事が十七日からだと、十六日の送り火を途中まで見て切り上げて、夜の高速で帰路についた。慌ただしい最終日は、弘美も少し残念に思っていた。
「なぁ、弘美、本当に京都に行かないのか?」
 お父さんがそうめんをすする。
 弘美は黙ってうなずく。
 今日は十三日。簡単な昼食をとってから、両親と弟の充は京都へ出発する。弘美は近所の母方の祖母の家に泊まる。
「姉ちゃん、去年も行かなかったじゃん」
 三歳年下の充は、残り少ないそうめんに箸をのばした。
「去年は仕方がないじゃないの。ソフトボールの大会で、勝ち進んだんだから。由紀ちゃんと最優秀バッテリーに選ばれたんだし」
 お母さんは弘美に笑いかける。
 弘美はやっぱり黙ってうなずく。
 本当は京都へ行きたい。
 おじいちゃんとおばあちゃんにも会いたいし、大文字の送り火も見たい。
 今年は、エースの由紀の怪我のせいもあって、ソフトボール大会は一回戦で負けてしまった。そして、三年生は引退した。
 だから、家族で里帰りしない理由は部活ではない。受験勉強が遅れているせいだ。
 とりわけ弘美は英語が苦手だ。次に国語。その次に数学。あーあ、挙げたらキリがない。弘美はでかいため息をついた。お母さんがちらりと弘美の様子を伺う。

 最近、弘美の大好きな食事の時間も、食卓がぴりぴりしている。先月、部活動が終わった途端、急に受験生になったみたいだ。学校はもちろん、家のどこにいても、心が落ち着かない。そわそわする。そして、そわそわは、イライラに変わる。
「おっと、箸がすべった」
 お父さんがそうめんをつまみ損ねた。
「んんっ」
 お母さんが咳払いをする。すべるは禁句。
「うわっ、箸を落とした」
 弟が箸を転がした。
「んんんっ」
 お母さんが大きな咳払いをする。落ちるも禁句。
 食卓にオカシナ緊張感が流れる。
 弘美はそれほどナーバスになっていないのに、お母さんは弘美にとても気を使う。その度に弘美は思い知らされる。あたしは受験生なんだ。そうめんなんて、のんきにすすっている場合ではない。
「ごちそうさま」
 弘美は叩きつけるように箸を置いた。
 やっぱり五日間も京都へ行けない。
 五日間もあれば苦手な英単語を五十個覚えられるかもしれない。なんとしても、公立の高校へ進学しなければ。菊地家の経済状況に余裕がないことくらい、弘美はわかっている。


p2

 両親と弟は三時頃に京都へ出発した。
 エンジンがかかり青い車が遠ざかるのを、弘美は自分の部屋の窓からじっと眺めていた。
 去年とはまるで違う。
 去年は、玄関先で、お父さんと充を、弘美は一緒に家に残ってくれたお母さんと盛大に見送った。

 今年は、弘美が勉強に集中できるようにと、お母さんも京都へ行く。
 もしかしたら、あたしの為と言いながら、本当は大文字の送り火を最後まで見られるからかな。
 なんて、疑い深い自分が顔を出す。イヤだイヤだ。
「ちぃばぁの店には七時頃に行くから、あと四時間、勉強できるか……」
 弘美は独り言をつぶやいた。
 ちぃばぁとは母方の祖母で、家から徒歩十分の所に住んでいる。一人っ子のお母さんはちぃばあに女手ひとつで育てられた。
 ちぃばあは【ちえこ】という小さな飲み屋を営んでいる。
 弘美がもっと幼かった頃は、小腹がすくと、ちぃばあの店にかけこんだ。
「ちぃばぁ、おなかすいた!」
 弘美がそう言うと、ちぃばあは必ず食べ物をくれた。枝豆、串カツ、コロッケ。おやつと呼ぶより、おかずと言った方がぴったりくる物たち。
 それが店の商品だと知るようになってからは、軽い気持ちでは店に顔を出せなくなった。

 ちぃばあの家は裕福ではない。小学生の中学年にもなると、反対に、お母さんに頼まれて、ちぃばあの家におかずを届けに行くようになった。
 それでも、ソフトボールを始めて部活動に打ち込むようになると、自然と足は遠のいた。
「そう言えば、前に、ちぃばあの家に泊まったのはいつだったかな……」
 弘美は勉強机について英語の単語集を開いたものの、ちっとも集中できないでいる。
「暑い」
 エアコンのスイッチを探して、温度を下げる。二つ、三つ、単語をノートに書きつけると、弘美は立ち上がった。喉が渇いた。一階の台所へ行って冷蔵庫の中からウーロン茶を取り出す。コップに注いで飲み干して、ふと思った。
「お茶、持って行った方がいいのかな」
 ちぃばあの小料理屋では、ウーロン茶も商品だ。お母さんはちぃばあに話をしておいたからと言ったけれど、ご飯はどこで食べたらいいのかな。幼い頃は、カウンター席によじ登って、お客さんと一緒にご飯を食べるのが楽しかった。
 あの頃と、今は全然違う。
 店のシンボルの赤い提灯が灯ってもわくわくしない。遠くにある京都の祖父母の家へは遠足気分で行けるのに、近くにあるちぃばあの店に入るのになぜだか躊躇われる。


p3

 明かりの点いた赤い提灯を前にして、弘美は思い出した。
 いつだったか、まだ帰らないとだだをこねる弘美に、お母さんが言った。
「この赤い提灯は大人の世界の入り口。子どもは帰る時間なの」
 今では、その意味がわかる気がする。
 もう子どもじゃない。
 店の出入口に指をかける。でも、まだ大人でもない。高校生は中学生よりも、うんと、大人に近い気がする。
 来年の春、その高校生になるのだ。高校生になる自分を想像すると、すんと足がすくむ。
 と、突然、立ち尽くす弘美の脇に、黒毛の塊が現れた。
 ちぃばあの飼っている黒猫のクロだ。クロは何の迷いもなく、爪を立てて、ガラガラっと引き戸を開けた。
「えっ、クロ? なんか大きくない?」
 弘美が思わずもらすと、クロは弘美をちらっと睨んだ。

 約三年前、弘美が中学校へ入学する時、クロはちぃばあに拾われた。生まれてまもないクロは、ちぃばあの前掛けのポケットの中に入って眠っていた。それが今では、小型犬サイズだ。
「よく来たね。なんだクロも一緒かい」
 白い割烹着姿のちぃばあが出てきて、弘美の大きなスポーツバックを、ひょいと持ち上げた。
 クロはすたすたと店の中へ入って行く。
「ささ、こんなところに突っ立っていないで中にお入り。おなかが減ってるやろ。弘美ちゃんの好物をたくさん作っておいたで」
 久しぶりに会ったちぃばあは、弘美のことをヒロミと呼び捨てではなく、ちゃん付けで呼んだ。ちょっと、こそばゆい。暖簾をくぐると、カウンター席には見知らぬおじさんが二人、話をしながらお酒を飲んでいた。
 弘美はL字のカウンターの隅っこに座った。
 ちぃばあは手際よくナポリタンを作ってくれた。濃いケチャップ味のスパゲッティーにはピーマンが入っていない。ちぃばあは、まだ、あたしがピーマンを食べられないと思ってるんだな。
 その晩、小さなお風呂につかり、二階の六畳の畳の部屋で、弘美はちぃばあと並んで眠った。エアコンのない部屋に、扇風機のカタカタという音がしていた。
 弘美はなかなか寝付けなかった。ちぃばあは寝ているのか起きているのかわからなかった。
 クロだけが、弘美とちぃばあの間で、くぅくぅといびきをかいで爆睡していた。


p4

 十四、十五、十六日と、午前中は開店前の店のカウンターの隅っこで、午後からは図書館へ通って弘美は勉強した。
 夕方に店に戻る時には、まだ明るい空の中、赤い提灯は点いていた。
 夕焼け雲と同じ色。
 ちぃばあの家に泊まるのは、今日で最後だ。
 弘美は赤い提灯を揺らしてみた。
 と、そこに、
「この風景、ノスタルジックだよね」
 男の人の声がした。
 振り向くと、中年のおじさんが立っていた。
「オジサン、赤い提灯を見ると、ふらふらーって引き寄せられてしまうんだよ。特に、ちぃばあの店はサイコーだね。あたたかいし、我が家に帰ってきたみたいなんだ」
 おじさんはそう言うと、タダイマと店のドアを開けた。
 ノスタルジック。
 意味がわからずに、弘美は赤い提灯の下にしゃがみこんで、鞄から英語の辞書を取り出した。
 Nで始める英単語、ノスタルジア、郷愁、故郷を想うしみじみとした気持ち。ノスタルジックは、ノスタルジアの形をかえた単語。
「なんだ、高校生で習う単語か……」
 弘美はパタンと辞書を閉じた。それから、もう一度、夕日を背景にちぃばあの店を眺めた。
 今ここにしかない中学三年生の夏の風景。そう思うと、確かに懐かしい気持ちになった。
 しんみりしていると、
「にゃおーん!」
 クロが帰ってきた。夕日には目もくれず、真っ直ぐに店内に入って行く。これから常連さんに刺身をもらうのだ。
「ったく、食い気、まるだしなのね」
 そうは言っても、弘美もお腹が空いた。今日もよく勉強した。甘い物が食べたいな。
 店に入ると、カウンターの隅に、大判焼きとお茶が置いてあった。
「そろそろ、帰ってくると思ってね」
 ちぃばあはにこっと笑った。安心する笑顔。忘れない。その晩、弘美はちぃばあとクロとテレビのニュースで大文字の送り火を見た。

#YA #小説 #短編小説 #言霊さん #言霊屋

〜創作日記〜
最初のクールの連載では、テーマは中学生の悩みと決まっていましたが、それ以外は自由でした。なので、昔の自分の思い出をベースにフィクションを書かせて頂きましたね。子どもの頃の思い出を思い出す作業は、とても懐かしく幸せな時間でした。担当さん、ありがとうございました。感謝。

©️白川美古都

新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。