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YA【夜風の中から】(10月号)


2015/10


p1

 学校から真っ直ぐ家に帰ると、美佐代は鞄を足元に置いて、自宅のインターフォンを押した。岩井家の表札の下の赤い電源が入る。カメラとマイクに少し顔を近づけて、ただいまとつぶやく。
 次の瞬間、
「おーかーえーりーなさーい!」
 美佐代の声の十倍以上の音量で、母親が歌いながら返事をした。
 美佐代は、深いため息をつく。
 美佐代は、母親が無理して明るく振る舞っているのがわかる。
 小学生の時、美佐代の運動靴が消えた事件があった。結局、犯人はわからず、消えた靴は、美佐代が紛失したということで片づけられた。
 美佐代は犯人を知っていた。しかし、証拠を示すことは難しかったし、その子は美佐代が親友だと思っていた子だった。先生に名前を言える訳がない。そして、母にも。
 あの事件以来、美佐代は暗くなった。
 笑うことも口数も減った。
「ご飯まで時間があるから、おやつ、食べるでしょう? 今日はね、マフィンを焼いたのよ。はいはい、手を洗ってらっしゃい」
 母親はピンクと白のエプロン姿で、美佐代を迎えた。おやつの時間が出来たのは、靴がなくなってからだ。
 お菓子を食べる美佐代に、母はやんわりと、今日一日の学校での出来事を聞く。母が自分に気を使っているのが伝わる。
 美佐代は、母の作る菓子は好きだけど、おやつの時間が好きじゃない。おかっぱ頭に手をやる。
 そう言えば、今朝、串を通すのを忘れた。靴を脱いで、二階の自分の部屋へ向かう。まずは制服を脱いでしまいたい。
「飲み物はアールグレイでいいよね?」
 一階から声が追いかけてくる。
 美佐代の返事を待つまでもなく、紅茶の歌を、母は歌いはじめた。紅茶がおいしいだの、喫茶店だの、母は大きな声で歌っている。聞いたことのない詩だ。どうせ、昭和に流行ったのだろう。
 美佐代は数学が好きだ。答えが決まっている所がいい。数式と向き合っていると、無心になれる。
 反対に国語が嫌いだ。感想文や詩を書くだなんて。
 今日の鞄の中には、とんでもない課題が入っているせいで気が重い。


p2

 犬のジョイは、美佐代の唯一の友だちと言ってもいい。そして、たった一人の気を許せる家族だ。
 夕食後、居間で、父は母のおしゃべりに捕まっている。美佐代はそっと家を抜け出して、裏庭の犬小屋の前までやって来た。
「ねぇ、ジョイ、文化祭に展示する詩を書かないといけないの」
 ジョイは母親が拾ってきたミックス犬だ。
 朝夕の散歩と母親が大好なジョイは、今ではすっかり歳をとってあまり動かない。
 美佐代が頭をなでると、きゅーんと、ジョイは顔を上げた。あの事件の犯人も、ジョイだけは知っている。
「二組の教室を、春と修羅ふうにするんだって。あんた、宮沢賢治って知ってる? たくさん詩を書いたすごい人だよ」
 今日の文化祭の会議の内容を、美佐代はジョイに話す。
「二人一組になって一方が絵を描いて、一方がその絵に詩をつけるんだって。絵なんて絶対に描けないから詩に手を上げて……」
 美佐代は余り者同士で、鴨山さんと組むことになった。
 美術部の鴨山さんは少し変わっている。授業中は窓の外を見ていることが多い。どこか冷めた目で、美佐代を含め同級生を眺めている。
 クラスの中で二人組を作ると、女子ではいつも美佐代と鴨山さんが余る。遠足のバスの席も、体育の組体操も。だから、鴨山さんが詩に手を上げなかった時、美佐代は、今回のパートナーも鴨山さんだと少し安堵した。
 友だちでもなんでもない鴨山さん。心を通わせる必要がない。二人一組になって構想を練ってください、とホームルームで号令がかかっても、鴨山さんは席から動こうとすらしなかった。
 美佐代がノートを手に近づくと、
「なぜ、人は歌を歌うんだと思う?」
 珍しく、鴨山さんは真剣な表情で、美佐代に尋ねた。
「ただ、歌いたいからじゃないの」
 美佐代は答えた。
 二人の会話はいつも短い。
「それもそうよね。あたし、抽象画を描くから。なんでも、テキトーな詩をつけてくれて大丈夫。抽象画ってわかるよね?」
「ピカソ」
 二人の打ち合わせは、三分で終わった。


p3

 その晩、美佐代は夜の十時を回っても、机に向かっていた。春、修羅、宮沢賢治、抽象画、ピカソ……。四〇〇字詰め原稿用紙一枚の詩が浮かばない。何とかして、大まかな原案くらい書いてしまいたい。
「数学の宿題ならよかったのにな……」
 思わず原稿用紙に突っ伏す。
 と、二階への階段を昇る足音が近づいて来た。部屋がノックされて、美佐代が答える先にドアが開いた。
「ミサちゃん、まだ起きて勉強するの? 頑張るわね、お夜食はいる?」
「いらない」
 母はすでにミニおにぎりが乗ったお盆を持っている。おにぎりころりんの歌を歌いながら、お盆を机に置いてくれる。
 母はちらっと、美佐代のノートを覗き見た。
「春?」
「ありがとう、食べるから出ていって」
 美佐代は立ち上がって、母の背中を押した。
 母は気にする様子もなく、春なのにお別れですか、と歌いはじめた。
「おかしな歌、春だからお別れなんだよ」
 美佐代が口を尖らせると、そうよねと、母は大袈裟に感心した。
 それから、春だからお別れですか、と歌詞を変えて歌いはじめた。
 母なら原稿用紙一枚の詩くらい、ささっと書いてしまうんだろうなと、美佐代は思った。


p4

 美佐代はヨダレの冷たさで、目が覚めた。
 夜食を食べて、そのまま勉強机で寝てしまった。
 時計の針は、真夜中の十二時だ。さむっ。美佐代は身震いすると一階へ降りた。トイレから出た時だ。何やら、ささやく声が聞こえた。
 洗濯機置き場のある家の裏口からだ。
 扉の隙間から、冷たい夜風が吹き込んでくる。やさしい声、お母さん? こんな時間に、何をしているのだろう。夜風の中から聞こえてきたのは、母の歌声だった。
「ジョイ、ジョイ、エンジョイのジョイ」
 美佐代は扉に耳を近づけた。
「今日も楽しいことはあった? 明日も楽しいことがあるといいね。ジョイ、ジョイ、エンジョイのジョイ。今日はもうおやすみなさい」
 母の自作の歌だろう。
 くーんと、ジョイの甘える声が混じる。なぜか、美佐代は懐かしい気持ちになった。
 歌には二番があった。
「ジョイ、ジョイ、エンジョイのジョイ。今世で楽しいことはあった? 来世も楽しいことがあるといいね。ジョイ、さよならを怖がらないで。お空でちょっと一休み」
 母の歌声は涙声だ。
 えっ? さよならって、一休みって。ジョイが死んじゃうってこと? 驚いて、扉を開けていた。
 ジョイと母もびっくりして、美佐代を振り返った。
「ジョイ、どこか悪いの? 具合が悪いの? 病院に連れて行く?」
 美佐代は早口で尋ねた。
「ミサちゃん、まだ起きていたの? ジョイはもう歳だから、いつ何が起こってもおかしくないでしょう」
 母はジョイに視線を戻すと、目元を指先で拭った。
 夜な夜な、母はジョイの為に歌を歌っていたみたいだ。甘えん坊のジョイは、きっと母の歌を聞いてから、安心して眠りにつくのだろう。

 ふいに、美佐代は思い出した。
 そう言えば、幼い頃、母は美佐代の枕元でも歌ってくれた。たくさんおしゃべりもした。一日の出来事を、怒ったり、笑ったりして、母に話していると、いつの間にか寝ていた。
 あの事件の犯人を、母に話していたら、歌にして空に飛ばしてくれたかな。そうすればこんなにも、ずるずると、心の中で引きずることはなかったのかな。
 本当はわかっている。
 人が歌を歌うのは、ただ歌いたいからじゃない。そこに、いろいろな思いが込められていることを。
「ジョイはまだ死なないよ」
 美佐代は声を絞り出すと、母とジョイに背中を向けた。涙がこぼれそうで、ぎゅっと唇をかみしめた。
 階段を昇りながら、何度も口の中で繰り返した。ジョイはまだ死なないもん。絶対に死なないもん。
 二階のドアを閉めると、思いが言葉となり溢れ出た。
 ジョイは黄土色のふさふさの毛のミックス犬、河川敷に捨てられて、後ろ足を怪我していて、母が抱きかかえて来た。
 男の子だとわかったけれど、年齢はわからない。ちょっと老けて見えるけれど、本当はとても若いかもしれない。
 そうだ、ジョイへの思いを詩に残そう。
 そして、明日、学校に行ったら、ジョイのことを少しだけ鴨山さんに話してみよう。

〜創作日記〜
イジメは学校でも社会に出ても無くならない。人が感情を持つ生き物である以上、無くならない。イジメを無くす運動よりもイジメとの付き合い方を身につけていった方が、大人になった時、社会に適応できる、なんて本音は書けないので、このような短編になりました(笑

©️白川美古都

新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。