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なぜ私は社長になったか、あるいはなぜ浜田省吾に共鳴するのか

たまには自分を見つめ直すのもよかろうと思い、私の人生の2/3を支えてくれた浜田省吾さん(以下浜省)を出発点に考えてみたいと思います。ライトにはしていますが、あまり表では話してこなかった重い話にも少し触れます。

浜省の布教活動=仲間づくりも兼ねているので、公式動画や音源がある曲は容赦なく挿入しますのでそのつもりで。あと、8,500字を超えています。

改めまして。東証一部上場の株式会社メンバーズにて、メンバーズデータアドベンチャーというカンパニーの社長をしているえりりんこと白井恵里と申します。現カンパニーは、2018年11月にメンバーズグループの子会社という形で立ち上げたものです。子会社社長には立候補してなりました。なぜ立候補したのかとよく聞かれるのですが、その度にそれなりの理由を答えつつ、本当に答えるべきことを答えきれてないようなもやもやを感じていたので、この機に半生を振り返って考えてみます。

Money , money makes me crazy ! という救い

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2003年、中学1年のときのこと。父親が運転する車で、浜省のベスト盤が流れていました。助手席には母親。後部座席には兄と私。確か、連休恒例の家族旅行にいく途中だったと思います。いつものように父と母は道を間違えたとかで口論をしていて、私は持参した文庫本を読んでいました。兄は何をしていたのだったか。無心に文字を追う私の耳に、母の甲高い声をすり抜けて入ってきたのが、浜省の「MONEY」

俺は何も信じない 俺は誰も許さない 俺は何も夢見ない  何もかもみんな爆破したい
(中略)
欲しいものは全て ブラウン管のなか まるで悪夢のように
Money , money makes me crazy. Money , money changes everything !

(「Money」)

この閉塞感、破壊衝動、まるでそのとき読んでいた馳星周の小説のような世界観でした。私はふと「お金がほしい、お金にこの現実を変える力があるなら」と思いました。私が漠然といい大学を目指そうと思ったのもこの時だったような気がします。もともと親から望まれていた道でしたが。

当時変えたかった現実は、親と兄から殴られ人格を否定される日々と、小中と断続的に続いた同級生からのいじめや無視、いじめが母にバレたときに言われた「あんたに友達なんかできるわけないじゃん」という母の言葉と笑い声、人に好かれたいのにどうしてもある瞬間に空気を凍らせてしまって、その理由が分からない自分への苛立ち、人に気持ち悪いと言われる自分の外見、50メートル走のタイムの遅さ、そんなようなものでした。お金で人の心が買えるなら狂ってもいい。むしろ虚しさに気づかないように狂ってしまいたい。当時そこまで言語化はできていませんでしたが、そんな気持ちでした。

でも同じアルバムに入っていた「星の指輪」が詞も曲も声もすごく優しくて、なぜだか涙が出そうになって、同乗の家族に気づかれないようにぐっと堪えたのを覚えています。

髪をとかし化粧して 一番好きな服を着て
子供たちお袋に預けて出かけよう今夜

(中略)
ほら誰もが振り返るよ君のことを 今も変わらず俺 君に恋してる
ねえ 一番 きれいな君 知ってるから

(中略)
君がいなきゃたとえ全て手にしても うつろで孤独な日々が続くだけさ
ねえ 一番 大事なものに 気づいたから

(「星の指輪」)

▼「星の指輪」視聴URL
https://www.sonymusic.co.jp/player/83081475_SECL-175_01SFL

今は人に愛されることなど遠い夢のような自分でも、いつかそんな地点までたどり着くことができるだろうか。何かのビジョンが浮かぶと同時に、「Money makes me crazy」と歌う人が同じ口でこんな歌を歌っていることに驚きました。「何もかもみんな爆破したい」と叫んだ人が、「一番大事なもの」を手に入れるまでの物語に興味を持ち、救いを見ました。これが私と浜田省吾との出会いでした。

「泣いてもいい 恥じることなく」

2009年、私は東京大学に進学しました。上京して一人暮らし。物心ついてからずっと待ち望んでいたことです。合法的に、何の問題もない家庭で育った多くの子供がそうするように、大学進学を機に実家を出る。家出では駄目でした。家出をする、非行に走る、レールを外れるということは、私の家に問題があると、私は親に愛されていない子供なんだと認めることになります。それだけは避けたかった。その日までの辛抱だからと、夜中実家の台所に座り込み、包丁を握り締めて震える刃先を見つめながら自分に言い聞かせてここまできました。

三鷹台の1Kロフトつきのアパート。まだ少し肌寒い風と春の日射し。井の頭線で駒場にあるキャンパスに通いました。子供の頃からやっていたスキーサークルに入り、そこでもまた、集団に馴染めない自分を発見しました。

コンタクトを入れて、派手すぎない化粧をして、髪を巻いて、レストローズのワンピースを着て、それで何が足りないのか。当時の体重は中学の時から10キロ近く痩せて40キロちょっと。もう母も兄も私のことを豚と言って蹴ったりしません。周りの話題についていきたくて、テレビも見たし、BUMPやRADWIMPSも聴いたし、ファッション誌も読みました。でも多分、そういうことじゃなかった。私は相変わらず空気を読めなかったし、言ってはいけないことを素で言っていた。それに、キーワードとリズムの応酬のような会話は何も楽しくなく、飲み会から帰ると疲れ切って倒れるように眠りました。

部屋ではずっと浜省を聴いていました。

君は怒りのなかで子供のころを生きてきたね
でも時には誰かを許すことを覚えてほしい
泣いてもいい 恥じることなく 俺もひとり泣いたよ

(「悲しみは雪のように」)

それまで、泣くことは恥で、みっともないことで、もし泣いてることが誰かにバレたら馬鹿にされるという「常識」のなかで生きてきました。一人暮らしになってそのタガが外れて、例えばその日の夕飯の献立を考えているときなど、ふとした瞬間に涙がでました。そして、私は、涙を拭うと母に電話をして、肉じゃがの作り方を聞くのでした。あれほど恨んだ母の声を聞くと、なぜか安心してじゃがいもを買いに出かけることができました。

それまで私の生を支えていた怒りが、実家を出ることで落ち着き、何のために生きているのかがわからなくなっていました。母のように私の人格を否定したり私に暴力的な振る舞いをする人と付き合いもしましたが、やがて、私は部屋から出られなくなりました。

ガラス越しに世界を見つめる傍観者

君の夢 時の中で 壊れるまで抱きしめるがいい
(「悲しみは雪のように」)

抱きしめていた夢は壊れてしまいました。東大に入れば会話をする相手が見つかるのではないか、相手の言っていることが私に理解できて、私の言っていることを理解してくれるような仲間が見つかるのではないか。実家から離れれば、私の辛さは消えるのではないか。私がいい大学に入れば、母は私を褒めてくれて、ご褒美に愛をくれるのではないか。

いや、本当は、最初から腕のなかに夢などなかったのかもしれません。ただ親が望むようなプロフィールを作り上げるために足掻いていただけかもしれません。それが自分の意志かどうかなど問題じゃなかった。

水のペットボトルだけ枕元において、昼も夜もなくベッドマットに横たわって、涙も出ず、何も考えずにただ浜省を流していたとき、世界に触れられずに立ち尽くす傍観者のイメージが浮かびました。

まだ君は若く その頬の涙乾かせる誰かが
この街のどこかで君のことを待ち続けてる

(「もう一つの土曜日」)
抱き寄せたくて 抱きしめたくて でもこのままでいいのさ二人は
(中略)
このままそっと何も言わずに傍にいるから
このままずっと触れないままで傍にいるから

(「少年の心」)
悲しみ果てしなく 風は夜ごと冷たく 人は去り人は来る
でも気づけば道標のない道にひとり

(「家路」)

愛が欲しいのに、愛したいのに、世界と、人と関わりたいのに、動けずにただ見送ってしまって、いつも最後はひとり取り残される。あと一歩手を伸ばせば欲しいものが手に入るかもしれないのに、いつも彼は失うものの方を数えて手を伸ばさない。まるで彼と世界との間には透明な厚いガラスがあるみたい。この頃特に好きだった曲はそんな内容が多かったように思います。そして私は、生まれてから19年、磨りガラスの向こう側で動いている自分の体をただ眺めていたような気がします。ガラスのこちら側には他の生き物の体温はなかった。

浜省の表現の根底には、世界との繋がれなさがあるように思います。だから、繋がるために、繋がれなさを歌うのだと思いました。その痛さが三鷹台のロフトに閉じこもっていた私に届いて、私は少し泣きました。

これは下田逸郎という別のアーティストを例に出してるけど、多分構造は一緒。孤独だから表現をする。表現によって世界と繋がって救われる。この体感覚は、言葉じゃ多分、伝わらない。

言葉はもう何も伝えない 寒いほどの寂しさも虚しさも
(「ラスト・ダンス」)

ずっと、言葉という他者を憎んでいました。私は多分言語優位の脳を持っていて、一人で考えるときも言葉にしなければ思考を積み重ねることができません。でも、生の体感覚は言葉にした瞬間に加工された二次情報になってしまう。表現しきれない大事なものが抜け落ち、新しいニュアンスが勝手に呼び込まれる。自分のなかでさえ言葉との葛藤が起きるのに、まして他人と言葉によって意思疎通するなんて。同じ言葉でもそこから再生される意味や感触は人によって違うし、その違いを私たちが知る術はない。感覚を言葉で表現しようものなら、その瞬間に感覚は固定されて、それ以上のものではなくなって、豊かな痛みは二度と戻ってこない。まるで自分と他人の間で死体を投げ合っているみたいだと思っていました。

そんなふうに言葉を持て余していた私は、この歌を聴いて胸の中に再生される痛みを何度も何度も反芻しました。それで何かが慰められたような気がしました。分かり合えたような気がした。私の勝手な幻想だけど、浜省は私に誰かと繋がっている夢を見せてくれた。しばらくして、私は夜眠れるようになり、部屋から出られるようになりました。

「描いた夢と叶った夢がまるで違うのにやり直せもしない」

紆余曲折もありつつ、就活失敗したり大学留年したり大学院を中退したりした私は、2016年に株式会社メンバースに入社しました。当時メンバーズは名証セントレックス上場。一流企業に入るか、一流企業に入る男性を捕まえて結婚することを期待していた親は落胆していました。それでも仕事では徐々にできることが増えていって、それなりに評価されることも増えていきました。

今の夫との付き合いも始まりました。2年ほど経った頃「えりさんが生きていてくれて、ここにいてくれて嬉しい」と言われ、それを疑わずに信じることができるくらい私のコンディションはよくなっていました。

ただ何かが足りないというもやもやは感じていて、それもあってか、子会社社長のグループ内公募が出たとき、直感的に応募した方がいいと感じました。深く考えると応募できなくなるのでノープランで応募ボタンを押し、夫には事後報告しました。まさか選ばれることはあるまいと思っていたのも事実ですが、果たして、2度に渡る事業計画のプレゼンを経て私が選ばれてしまいました。だから冒頭の「なぜ子会社社長になったのか」という問いの答えは「何となく勢いで」というのが一義的な答えになります。

さて子会社社長になってからの生活はどうだったか。仕事は忙しく、苦しいときも胃が痛いときもあったけど、立ち上げから一年で黒字化するなど概ね順調でした。遅くまで夢中になって仕事をして、帰宅すると夫が料理を作って待っていてくれる。これ以上望むべきものなどないような日々です。でも、何かが足りない。満たされない。息が苦しい。

描いた夢と 叶った夢がまるで違うのに やり直せもしない
もう帰ろう みんな 投げ捨ててでもどこへ一体どこへ

(中略)
何を失くし何を手にしたかわからない もうわからない
Midnight Blue Train 連れ去ってどこへでも行く
思いのまま走り続けることだけが生きることだと迷わずに答えて

(「Midnight Blue Train」)

▼「Midnight Blue Train」視聴URL
https://www.sonymusic.co.jp/player/83081475_CSCL-1168_11SFL

ここじゃないどこかを夢に描いて 君はスポーツバッグに着替えを詰めて
あの冬の朝早く電車に乗って生まれ育った街 車窓から見てた
きっと何も見つからないって分かってた でも一人で旅をはじめた

(「誰かどこかで」)

▼「誰かどこかで」視聴URL
https://www.sonymusic.co.jp/player/83081475_SECL-208_06SFL

You're a pretender 望みはすべて
Never surrender 手に入れても
Don't you remember 寂しいのは何故

(「A RICH MAN'S GARL」)

▼「A RICH MAN'S GARL」視聴URL
https://www.sonymusic.co.jp/player/83081475_SRCL-4605_08SFL

私を愛してくれる夫との生活や、社会的な評価は、私の胸に空いている穴を一部埋めはしました。でもそれだけじゃピースがまだ足りない。「女性のキャリア形成」「若手のチャレンジ」「多様な人材の活躍」ーー私を取り巻く私とは何の関係もないキーワード。私をこの上なく大事にしてくれるけど、私が望む深さでの理解はしていない夫。夫を大事にしたいのに、大事にしきれない私。

私が欲しかったものは何だったのだろうか。

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優しくなれるだけの力が欲しい、そして世界と繋がりたい

結局のところ、私は世界と繋がりたかった。世界とは何か。その範囲はまだ確定できていないけど、複数の人だったり、自然だったり、歴史が残した何かだったりするのだと思います。

磨りガラスを拭いて垣間見えた世界では優しさのループが回っていました。

人に優しくなれれば、自分にも優しくなれて、自分に優しいとさらに人に優しくできる。ただ、そのためには自分が優しくされた経験が必要なようでした。子供の頃に無条件で優しくされる経験を得ていなかった私は、後からループに参入するチャンスをどのように得ればよいのか分かりませんでした。

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優しさを受け取れずに大きくなった私は、優しさが不要な「強い人」のように振る舞うことで自分を守っていました。奪うか奪われるかのゼロサムゲームのなかで生きてきました。でも多分、それこそが息苦しさの根っこだったように思います。

私は誰かに、何かに優しくしたい。自分が救われるために。そして誰かに理解されたい。理解したい。だけどいきなり人に優しくするのは怖い。なぜなら、基本的に人は私を疎ましく思っていて、私が何かをすることは相手にとって迷惑になるという感覚がまだ抜け切れていないからです。だから私は倫理的に生産された商品だったり、真っ当に価値を提供しているサービスに正しく課金をします。そうやって社会によいことをしている自分を感じて人に優しくするための練習をしながら、自分に優しくするための功徳を積んでいるのだと思います。

力が欲しい。優しくしたい対象に優しくできるだけの力が。そう思いました。だから多分、私は社長公募に立候補したのだと思います。世界と関わるには空身の私では頼りなさすぎたのでしょう。

これに気づいたのはごく最近のことです。2020年に入ってからでした。人を理解するには当然相手が必要で、そういう仲間が欲しかった。所詮他人は他人だから考えていることも見ている世界も違うけど、違う価値観、違う感性の仲間と、同じ夢を見ているという幻想を信じられたらどんなにいいか。社長公募に立候補したとき、そこまで感じ取っていたかは分からないですが、結果としてこの構造は私にとってものすごく救いになりました。

もしかしたら何かを一緒に作り上げていくことで生きていることが共有されるような場が欲しかったのかも知れません。こんな感じ。

だから私は「データと意志と情熱で心豊かな社会をつくる / データをキーに人の心を揺り動かし持続可能社会への変革をリードする」というミッション/ビジョンを掲げました。他人に優しくしたり、社会に優しくしたり、未来を生きる人に優しくできるチャンスをできるだけ多く作って、優しさのループに参入できる人をできるだけ増やして、輪が大きくなっていくような、そんな社会を作りたい。

その簡単な一歩めが、たとえば資源を分け合うことや、未来に分け前を残しておくということ、すなわち持続可能な社会に向けて自他の行動を変えることなのかもしれないと思っています。それも、仲間と一緒にやってみたいのです。


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メンバーズデータアドベンチャーのロゴは舟を模しています。会社立ち上げ時に浜省の「SAVE OUR SHIP」というアルバムを聞きながらミッションを考えていたとデザイナーと話していて生まれたロゴですが、OUR SHIP=地球なので、自分で分かってなかったけど不思議と最初から繋がってたんだなと思います。

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タイトルにある「なぜ私は社長をしているのか」の答えはごくごく個人的なことです。でもそんな個人的なことと大きな世界との繋がりは、浜省がすでに示してくれています。

人は一瞬の刹那に生きる 子供は夢見ることを知らない
(中略)
昨日の絵具で破れたキャンパスに明日を描く愚かな人
売れるものならどんなものでも売る それを支える欲望

(中略)
君を守りたい ただひとりの君を守りたい この手で
(中略)
いつか子供たちにこの時代を伝えたい どんなふうに人が夢を継いできたか
君を守りたい ただひとつの君を守りたい この手で
愛を信じたい 人の心の愛を信じたい 今こそ

(「僕と彼女と週末に」)
※余談 この曲は櫻井和寿にカバーされたりもしているので、浜省の男くささに抵抗がある人はよかったら検索してそちらを聴いてみてください。浜省、櫻井和寿ともに公式動画が見つからなかったのでリンクは貼りません。

未来に手放しで希望を持てない時代の空気、絶望的な見通しを胸に抱きながら、そんな時だからこそ目の前にいる君を守りたい。実はこの唐突な転換は私にとって長らくよく分からないものでした。でも今、目の前の人を愛することは自分を愛することであり、自分と相手を愛することを通して世界を愛することなのだと、なんとなくだけど確信をもって思うのです。

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なぜ浜田省吾に共鳴するのか

私は孤独で、かつ、それを表現するだけの力を持っていないからです。浜省は絶望と希望の振り幅が広く、それがそのまま私の救いになったからです。初めて浜省を聴いたときに惹かれた、「何もかもみんな爆破したい」と叫んだ人が「一番大事なもの」を手に入れるまでの物語を、自分の経験が積み重なるごとに、何度も何度も違う色で違う深さで味わっています。

結局本当の意味で人とわかり合うことはできないけど、一緒に何かを作ることはできる。私は浜省の感性のデータベースと自分のデータベースを絶えず突き合わせて、その都度そのフェーズで私の網に引っかかるものを掬い上げてきました。それがたとえ浜省が歌ったものとは全然違うものであっても構わない。私は浜省と一緒に私の経験に意味づけをしてきたような気がします。それが私の言葉であり、歌でした。

結果として、今、私と対話をしてくれ、同じ夢を見ようとしてくれる社員と一緒に事業をやれているのは幸運であり、必然でもある気がします。

20年間ずっと、浜省は私にとって世界への窓であり明日へのドアでした。私がツイッターのプロフィールに書いている「No浜省、Noライフ」とはそういう意味です。

最後に、この歌詞を掲載して終わります。

今も君がこの世界に生きていることに Thank you ! 

友達はあんな女やめときなよって言うけど誰も本当の君を知らない
子供のころの話や俺たち二人だけのときの優しい笑顔やしぐさ
今も君がこの世界に生きていることに Thank you !  
君がこの世界に生きていることに Thank you ! 本当だぜ

(「Thank you」)

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そして、浜田省吾とその楽曲に深く感謝します。
あなたがこの世界に生まれてきてくれて本当によかった。

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