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きのうの日記_2024年7月9日

この日記は、翌日振り返って昨日を書く、交じり行きかう日記


きょうは在宅勤務の日だった。この在宅も、現状週3だが、来週からは週2となってしまうのだ。9月には新しい環境にいたいという思いが強いのだが、動き出せていない。なんとかしないととは思っている。
休職をして4か月、復帰をして早3か月がたとうとしていることに、ああ経ったか、やっていけてるじゃん、なんとか生きてるわ、という安心感と、遣り切れなさが織り交ざった感覚になる。

目が覚めるといつも体が冷えているのだが、きょうに限ってはそうではない。どうしてかな、と起床直ぐの頭で考えた。多分、昨晩はきちんと自炊したご飯を食べたから。だから心も体も安心したんだ、と思った。

出社日と同じ時間(6時)に起きたので、朝から台所に立って、作ることにした。別荘、リゾート気分を味わいたかったから。そして出来ればそんな感じの人生分量を増やしたかったんだ、と今晩聞いた土門蘭さんの「書書云々ラジオ」で自身を再確認した。どんな人生を生きたいか、人の評価を省いた時出てくるものは、正直まだ分からないのだが、こんな感じで暮らしたいんだよな~だったらするする出てくる。それはもう人から見たら怠惰・贅沢そのものかもしれないのだが、私はそれが欲しいと思っている。それは嘘ではない。望みに対して、遅かろうがずっと、弛まずやっていければと思う。

自己流シュクシュカと付け合わせパン・牛乳🐄🥛セット~騒然とした机上を添えて~

そんなわけで、このところ嵌っている、自己流シュクシュカ風トマト煮込みと牛乳で朝を始めた。まるで気分は休日である。意地でもそうあろうとしている。贅沢は覚悟なのかもしれない。意地とでも言うか。わりと楽ではないのだとも思った。苦しいの方がわりと近い作業にもなる。これに関してふと思い出されたのは、安達麻莉子さんの「生活改善運動」中に出てくる、物選びに拘りまくる知人の話だ。

妥協しない、というのは苦しいこと。少しでもマシになればいいやと手の届く範囲で揃えてしまうこと。そのやり方が必要な場合も一部あるが、大多数は現状にてどうにか工夫すれば何とかなるものも多い。少しでもマシになれば、というのは、恐らくだいたいが見栄を気にしている。自分の満足は後回しにしている。それは分かる。

創造的に生きていくにはどうしたらいいか、悩んでいる。というより、思考も行動も停止している。
数週間前に、坂口恭平さんの「生き延びるための事務」と柿内尚文さんの「このプリン、いま食べるか?ガマンするか?」を購入し、たらたら読んでこの間どちらも読了した。前者はSNSで、後者は土門さんのラジオで知って、興味を持った。現職が実際事務職で、そしてそれに退屈さを感じはめて久しく、また新しい精神状況に入った気のしている我が身としては、無視できなかった。少しずつ考え方ややり方を取り入れているところだ。
この日記も、「生き延びる~」や土門さん等の影響が後押ししてくれているようだ。とにかく読者もいいねも無いかもしれないが、やる。楽しんでやれることをずっとやる。習慣化する。

SNSで発散してしまわないで、折角ならnoteで日記(みたいな試み)を書こうよ、と私が言うのでやってみた。ただここでもう一人、審査員の私が、「日記って創造的?まぁ、SNSで流しちゃうよりマシかもだけど…」と難癖をつけ始める。
押井学・最上和子両氏の対談「身体のリアル」で最上さんが、日記で発散してしまうと物語などの創作まで辿り着けない、というような話をしていたことを引用してくる。確かに、熟成をまたずそれを使って作ってしまえば、さもありなん。ただ、私は小さい時からそんな傾向があった。物語を作るのにあこがれるが、飽きて出来ないとかそもそも物語創作自体に興味が無いとか、能力的に出来ないとか色々ある。あっても随筆的になってしまうというか…そういう傾向の方が、写真とは相性がいいのかもしれない。

(平安女流文学者の比較で紫式部VS清少納言があるが、小学生ぐらいから後者にシンパシーを感じていたように思う。後更級日記が好きです。特性が、写真だな~と勝手に判断している。異論は認めます。私が写真をやめないために、写真と縁があると思いたい故のロジックなのです。)

ふと荒れ庭に目をやると、ツユクサらしき青い花の野草

物思いに何度かふけって、そのたびにハッと庭を見るようにしていると、一つ気づいた。

あの青い花、午前中は咲いているが、午後には姿を消している…?と。
気になって調べて見れば、どうやら「ツユクサ」、月草とも言うそれは、一日花といって、一日しか花が咲かない類らしい。そんなこととは露知らず、上記のように適当に遠目から撮った一枚しか残していなかった。なんてことだ。凄い生態があったものだ。どうも、ネットで調べた限り、この一日花であるツユクサ、花がしぼむ時に雌蕊と雄蕊が触れ合うことで自家受精して次世代に繋ぐらしい。はぁぁあ、と声が出た。
雑草取りを入居したてだからという理由でサボっている荒れ庭に、一昨日か昨日から、気づいたら楚々と登場しており、時折飛ぶ蝶と共に風情ある情景にしたててくれている。これは、もしかしたら、明日も違うつぼみから、もしくは苗から咲くのかもしれない。今日で終わりじゃないはずだ、だってもっと見たい。その時にはもう少しいい記録を取っておきたいと思った。

もっと野鳥や野草のことが知りたい。そうとしたら、そうだ、この街の図書館デビューもしたい。近所もまだ探索できていないで前から知ってるなじみの店しか行ったことが無い。やりたいことが出てくる。すると暗く蹲る時間は、やはりそうそう無いようだと、寝る前にいつも気づいてしまう。「このプリン~」に出てきた、特別な日でなくとも完璧な日にしよう、という言葉が今日の私にも響いている。私にとっての完璧、は探すのが苦しくも楽しい。

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