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死にかけの蝶をみた話

今日の午後、先月より随分と強くなった日差しを傘でよけながらふらふらと出先から帰路に着いていた時の話。気温はもうすっかり夏といった感じで、本当にまだ5月なのかと思う反面、5月だからとどこかで納得する。
ぼんやりしながら「お腹すいたな」とか考えながら歩いてて、眩しさから目をそらすように地面をみた。青い蝶が一頭、死にかけていた。たぶん、その辺でよく見るやつ。
翅はもうぼろぼろで、ところどころ千切れていた。足だけが辛うじて動いていたけど、苦しそうにしていた。
これがこの子の最期なんだあと思って、暫く眺めることにした。
死にかけの蝶は太陽に向かってもがいていた。私は「暑いよね、アスファルトの上だしさ」と思っていた。私と蝶がいたのは歩道だけど、すぐ側の車道は車通りが多いので、風が吹き抜けていく度に蝶は転がった。自然の風も吹いていた。
そうこうしているうちに蝶は動かなくなってあっさり死んでしまった。
私は少しの間それを見ていたけれど、立ち上がって再び歩きだした。
蝶の最期を看取った後、なんとなく頭の中で最近見た映画とか、好きな本の題材とか、剥製や標本、動物実験や衣料品に使われる毛皮について考えた。
直近で見た「自殺サークル」という少し古い映画。続篇にあたる「紀子の食卓」
大好きな伊藤計劃の「ハーモニー」
この3作品は内容としては全く違うけれど、人との繋がりや意識や精神的な話が少しだけ似ている。そこから枝を伸ばして、剥製とか、蝶の標本、冬物のラビットファーや、たまに目にする動物実験反対のポスター。私は動物が好きだからちょっと考えるのだけど、それでも私たちはファッションだとか自己満足を除いても、医療という面で動物に助けられている。何がよくて何が悪いのか、その境界が曖昧だと思った。私たちだって世界平和を口にしながら、遠い国の出来事や治安を身近に感じることなんてほとんどないのに、対象が人間に切り替わると更に思想が過激になる気がした。
さっき死んだ蝶を可哀想だと思うなら、標本の蝶を美しいと思うのは間違いなのだろうか。
ペットを家族だというのなら、ドブネズミが死ぬこともないだろう。
私たちだって進化の過程で意識を得ただけで、発達さえしなければ無知だが幸福なまま絶滅していたはずだ。
何が正解で、何が間違いなのだろう。
私が愛する人の妻でなくなって、いい思い出のない実父や実母の子供でもなくなって、今の勤め先とも友達とも社会とも繋がりがなくなった瞬間、私という存在はどこにいるのだろう。
そもそも、個の存在を証明する全ての境界はどこにあるのだろう。

そう考えた瞬間、誰も、確かなものなんて何もない気がした。


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