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0から1じゃなくても良い

私はずっと昔から創作で世界をほんの少しでも変えることができたら良いなと思っていた。自分の言葉や曲や絵で誰かの心を動かしたり、考えに影響を与えたり、そういった仕事に強い憧れを感じていた。

それと同時に、たくさんの音楽や文章に触れてきた。たくさんの音楽や文章に触れてきたからこそ、思うのだ。私にはそれが無理だ、と。

༝ ༝

何故なら、創作にはほぼ絶対的に才能が伴う。この才能というのは先天的な場合もあれば、後天的な場合もある。後者の場合、それは経験によって生まれる。心を動かされる経験、逆に心に埋まらない傷を負った経験、そういったものがその人自身を作り変え、創作へのエネルギーになるのだと思う。たくさんの創作者を見てきて、そう感じる。何か根底に強い意志や思考がある場合か、生まれつき親しんできたかのどちらかだ。

私には、それがない。悔しい。負の感情も決して無駄にならない創作の場においては、私の平凡な人生は仇になる。平凡は創作にとっては毒だ。何も生み出せやしない。小さい頃は強い意志があった。自分1人で世界を変えられるのではないかと馬鹿げた思想をもっていたこともあった。だがそれも失ってしまった。"普通"になろうとしたからだ。

ある時から"普通"という言葉は呪いのように私の周りをついてまわった。私は"異常"なのだと、"変わっている"とある時気づいた。普通になろうと努力を重ねた。あれほど嫌だった恋愛も経験してみたし、あれほど嫌だったメイクやスカートにも挑戦した。正義を振り翳すことをやめ、周りに合わせた。世間がいいと言う経歴を手に入れるべく、受験勉強に励んだ。 

༝ ༝

やれることをやっていった数年後、私には"普通"の感覚が芽生えた。"普通"を手に入れた私は自分に自信がもてたし、自分から人と関係を築くこともできた。強くなったつもりでいた。

だけど、本当は失っていたのだ。"個性"は失ってからでは思い出せない。本当の私は何を思っていたのだろうか。本当の自分を押し殺した先には、心の安寧が待っていたけれど、それは本当に正しかったのだろうか。

もちろん"普通"が正義とされている世の中では、生きやすくなることには違いない。だけど今でも私は大切な何かを失ってしまった気がしてならないのだ。大人になるということは、こんなにも喪失感が伴うものなのだろうか。

༝ ༝

大人になってしまった私には、創作で世界を変えるなんて大それた気持ちをもつことはできない。だからせめて、0から1じゃなくても、1を10にする力が欲しいと思った。埋もれてしまっている宝石の原石を表舞台に立たせる。私は、たくさんの創作者をみてきた。才能があるのに諦めていった人もたくさんいた。せめて、その人たちを掬い上げて、世の中をほんの少し良くする仕事をしたいと思うのだ。

"普通"や"平凡"を望んでいる人がたくさんいることも知っている。普通を嘆くのはあまりに贅沢な悩みなのかもしれない。でも、人生に苦しみ、もがきながらも創作を続ける人たちが、私にとっては人類の中で最も美しく崇高で素敵なものに見える。この世界に適合できなかったとしても、それを表現として世の中に訴えかけることは、絶対に無駄ではない。見つけ出して、掬い上げて、あわよくば救うことができる力が欲しい。

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