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千と千尋の神隠しから生きることを学んだ件について

どうも。pomsyと申します。

突然ですが質問です。
「あなたが一番好きな映画は何ですか?」

こういう質問をされることはもしかすると初めてじゃないかもしれないですね。
ではこれはどうでしょう?

「あなたの人生において一番印象に残っている映画は何ですか?」

もしかすると、すぐに答えられる人もいるかもしれないですね。
ですが、「そんな角度で映画について考えたことないよ!」という人もいらっしゃるのではないでしょうか。
「印象に残る」という観点からすぐに思い浮かべるのは、少し難しいですよね。
印象に残る、ということにはどんな意味があるのか、ちょっと調べてみました。

「印象に残る」とは?
魂を奪われるような感動や、はっとして言葉を失うような衝撃などが、後々まで忘れられない、いつまでも頭から離れないという意味
参考:コトバの意味辞典

私が感じたキーワードは「後々まで忘れられない」というところです。
そしてその観点で考えると、私にとって印象に残っている作品は『千と千尋の神隠し』というジブリ映画です。

ご存知の方も多いのではないでしょうか?
宮崎駿監督が手掛けた、スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画です。

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知らない方も、何となくしか覚えてない方もいらっしゃるかもしれないですね。
そんな方のために、簡単に概要をご紹介します。

千尋という名の10歳の少女が、引っ越し先へ向かう途中に立ち入ったトンネルから、神々の世界へ迷い込んでしまう物語。千尋の両親は掟を破ったことで魔女の湯婆婆によって豚に変えられてしまう。千尋は、湯婆婆の経営する銭湯で働きながら、両親とともに人間の世界へ帰るために奮闘する。
参考:wikipedia

私がこの映画を初めて観た場所は、映画館でした。
つまり公開された年(2001)になるので、年齢から逆算すると私がまだ5歳のころです。
もう20年近く前のことになるのですが、この映画のことはもちろん、初めてみたときに思ったことを私は未だに覚えています。

「私がもし千尋だったら、人間の世界に帰れてたのかな」

一番に思ったのはこれ。
もちろん物心ついてから何度も見返してはいますが、そこそこ年齢を重ねた学生時代でもこの感想は変わってなかったです。
おそらくですが、幼い私は心のどこかで千尋のことを「特別な子」だと思っていたんだと思います。
ですが20年経った今、それは大きな勘違いだと気づいたんですね。

年齢をさらに重ねていろんな時代の私が何度も見返す中で、私が千尋に抱く印象は「どこにでもいる少女」に変わっていったのです。

そして、そんな中で最近の私が感じるのは
千と千尋の神隠しという映画は、社会や自分と向き合うための「生きる」教科書だということです。
ここで私が選んだ「生きる」という言葉には、2つの意味があります。

・人が「生きる」ための教科書
・今もなお、すべての人の心の中で「生きる」教科書

前置きが長くなりましたが、今回はこの2つの意味について解説していきます。

人が「生きる」ための教科書

この映画の中で一番力を持っているのは何だと思いますか?

魔法でしょうか?
仕事があることでしょうか?
大切な人が傍にいることでしょうか?

ここではあくまで私の解釈でお話しますが、私は「言葉」だと思っています。
(この問いに正解はないです。その人自身が感じたことがそれぞれの正解だと思っています。)

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千尋は、湯婆婆から名前を奪われ支配されそうになりますよね。
千尋を助けてくれたメインキャラクターのひとりであるハクも、名前を奪われ湯婆婆に支配されていた一人でした。
他にも、千尋は「言葉」によって神々の世界で消滅してしまうのを逃れています。
「ここで働かせて下さい」と鎌爺や湯婆婆に頼み込んだのもまさにそうですよね。
本編で湯婆婆自身が言ったセリフにもあるように、湯婆婆は「働きたい者には仕事をやる」という誓いをこの世界で立てています。だからこそ、千尋をすぐに追い出すことが出来なかったんですね。
そして、そんな湯婆婆が千尋を支配するために書かせた契約書もまた、言葉ですよね。
そうやってみてみると、湯婆婆も言葉により支配されている一人であることが分かります。

言葉には力がある、それは映画の中だけではないはずです。
言葉とは、この世に生きる誰しもに与えられた共通の力であり、武器です。
口から出る言葉も、握ったペンから書き出された言葉も、人の中から紡がれたものであるなら如何なる言葉であっても力を持っています。
その力により人を救うことができる。しかし反対に、傷つけることもできてしまうのです。

先ほども言ったように、言葉には力があります。
しかし、「人を救うための言葉」「人を傷つける言葉」の力はけして平等ではありません。
人を傷つけるための言葉は簡単に力を発揮します。簡単に人に刺さり、人の心を蝕みます。悪意があっても、なくてもです。
反対に、人を救うための言葉の力は「正直さ」のあるものに限られます。
そしてその言葉は、人を傷つける言葉よりも大きな力があると私は思っています。

では、正直さとはなんでしょう?
私が教わった正直さとは、「心と言葉が一致している」という状態です。
偽りの言葉には何の意味も力もありません。この映画の中で千尋が変わるきっかけとなった言葉はすべて偽りがなく、正直さに溢れています。
そこに気づき、自分と見つめあうことがまさに「生きる」ということであり、同時にこの映画の素晴らしさだと、私は思うのです。

あなたは、正直な言葉で自分と向き合ってるでしょうか。
そして、その言葉の力を使って誰かと向き合えてるでしょうか。
なんだか尋問みたいになってしまいそうですが…笑
なりたい自分として人生を歩むには、正直さを持って自分と向き合わなければいけません。
そして、その正直さを力に変えるには「言葉」が必要なのです。

人は一人では生きていけない。だからこそ、「言葉」を使って支えあいます。そうして生まれるのが、私たちが生きている社会なのです。

今もなお、すべての人の心の中で「生きる」教科書

ここからは、もうひとつの意味についてお話します。
前置きでも話しましたが、主人公である千尋は「どこにでもいる少女」です。
この映画は、「どこにでもいる少女だった千尋が成長する物語」ではありますが、どこにでもいる少女は千尋だけではないですよね。
つまりこの映画は、「私たちのようなどこにでもいる人間が成長するための物語」ともいえると思います。

どこにでもいる、というのは嫌な意味ではなく「何も持たない」という意味に捉えてもらうといいです。
簡単なのは、生まれたばかりの赤ん坊をイメージすることです。
赤ん坊は、お金も権力も持ちませんよね。そして同時に、生きるための最低限度の欲以外には、大きな欲望を持ちません。
そして何より、正直さに溢れています。
ですが、大人になるにつれて様々な力も欲望も持ち始めました。言葉の力を発揮するための正直さも、持ちづらくなります。
それが悪いとは言いません。ただ、そのことを理解することが大事なのです。

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このシーンが一番想像しやすいのではないでしょうか。
八百万の神に捧げるための食べ物を千尋の両親は勝手に食べてしまうことで、豚にされてしまいます。

この時、けして食べようとしなかった千尋と両親の差は何でしょうか。
それこそが、先ほどいった「何も持たない」が故の純粋さなんだと思います。
これは、千尋が特別なのではなく、両親もかつては千尋と同じ純粋さを持っていたはずです。
ですが、年齢を重ね、様々な経験をしていく中で、純粋さを失ってしまったのでしょう。それはなぜか。

一番の理由は、この社会にあります。
社会の中で純粋さを持ったまま生きるのは非常に難しいことです。
なぜなら「どこにでもいる」というのは無個性だと思われ、何も持たない人間は社会の中で特別必要とされないからです。
さらに、欲を満たすことで生きがいを感じたりもします。
だからこそ、純粋さを持ち続けるのは困難なことなんです。その先にある自分らしさに気づけないし、気づきづらい仕組みになっているんですね。
欲しいものがあったらお金が欲しいし、美味しそうな食べ物があったら好きなだけ食べられるようになりたい。それが、人が生きる上でのモチベーションにもなります。
千尋の両親は、そんな社会で生きてきたからこそあの料理を食べてしまった。私はそう考えています。

誰もがかつては何も持たない、どこにでもいる子供だったはずです。
それがいつから変わってしまったのでしょうか。
人は、思い込みや固定観念により、自分を守ろうとする力を身につけます。怒られた記憶から、怒られないような言い訳を探します。嫌われたくないから、好かれやすい方法を探します。欲しいものが買えなかった悔しさから、欲を満たす方法を探します。
こうした経験による自己防衛が、どこかで純粋さを思い出せないでいるのです。

ポイントは、「思い出せないでいるだけ」ということです。
銭婆の言葉で、この作品のテーマにもなっているだろうセリフがあります。

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『一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。』

ラストシーンで千尋が両親と再会し、元いた世界に帰るシーンがありますが、すでに千尋は神々の世界での出来事を忘れてしまっているような描写があります。
しかし、トンネルを抜けて振り返った後の千尋は、銭婆にもらった髪留めをつけたままになっているのです。つまり、失われてはいないということ。

ここから先、千尋がその髪留めがきっかけであの出来事を思い出すのかは分かりません。もう二度と思い出せないかもしれない。
ただ分かるのは、千尋は間違いなく映画の中で描かれていることを経験しており、その経験は決して失われないということ。
忘れているわけではなく、思い出せないだけだということです。

これは、千尋の両親も含め、大人になった私たちにも言えることです。
かつてあったはずの純粋さは失っているわけではない。思い出せないだけなのだと。
大切なのは、思い出せないでいる自分を認識することです。
あの頃に100%戻る必要はないのです。ただ、あの頃の自分だからこそ成し遂げられることがある。持っているはずの力がある。そしてそれは、今も自分が持っているものだということを理解することです。
経験は財産です。大切にしていきたいですね。

いかがだったでしょうか。
ジブリ作品は深い意味を持つ作品が多いので、他の作品も見返してみたいですね。

余談ですが、Creepy Nutsというアーティストが出している「かつて天才だった俺たちへ」という曲があります。
このタイトルにある「天才」というのは、子供の頃の自分を指しています。
何にでもなれる才能がある、何も持たないかつての自分。そして大人になり、いろんな可能性を手放してしまった今でも、持っていたはずの才能と理想をまだ諦めていない。
そんな思いが歌詞に込められています。すごく好きな曲です。ぜひ気になった方は聴いてみてください。

さて、今回の記事はこれでおしまいです。それではまた。

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