船長、壁画、海坊主 〜叙事詩『月の鯨』第一の手紙(2)〜
不思議なことがある
オレはこの船に乗り込んでから
船長の姿を見ていない
義足でオレを突き飛ばした船長
あの侮辱は忘れられない
いつかやり返してやりたいと思っていた
その船長が一向に姿を現さない
何人かの船員に聞いてみた
いつも要領を得ない答え
船長代理とかいう奴が船の指揮をしている
噂によると船長は日本人だそうだ
名はエイハ・マイ
マイは日本語でダンスを意味するそうだ
オレはその話を聞いて 笑いころげた
あのイカツイ船長がダンス
想像するだけで気が変になる
奴は船が怖くて逃げたに違いない
船よりもダンスがお似合い
妄想で頭が膨らんでいた
その矢先
ある情報を得た
船長の部屋は船倉の奥にあるという
そこで大方の船員が寝静まったある晩
オレは探検に出た
マイの正体を突き止めてやる
ひと泡吹かしてやる
船倉の暗がりの中を手探りで進んでいくと
扉を見つけた
開けると
その向こうにさらなる空間が拡がる
ほのかな明かり
蝋燭が一本灯っている
目が慣れてくると
そこには驚くべき光景が展開していた
悠々と大海を泳ぐ鯨
天に届くような潮を吹く鯨
群れをなし約束の場所を目指す鯨
人間どもと闘う雄々しい鯨
銛を突き立てられ断末魔の鯨
人間を飲みこもうとする凶暴な鯨
ひときわ目立ったのは
巨大な月から降臨する真っ白な鯨
威厳に満ちた神々しい鯨
ついぞ見たことのない迫真の壁画だった
オレは圧倒された
放心状態でいた
そのとき
後ろから肩に手をかける者があった
(おい)
振り向くと海坊主がいた
頭が禿げあがり
全身からネットリとした水を滴らしている
(光栄に思わにゃならん)
海坊主の姿は滑稽だったが
眼は爛々としてオソロシゲだった
(船長の義足は鯨の膏でできているのだ)
海坊主は生臭いにおいを発しながら
カラダを擦り寄せてきて
オレの背中に張りつくとこういった
(オマエの顔に刻まれた傷は聖痕じゃ)
ギャッーと叫びそうになったとき
オレはベッドの上にいた
妙な夢を見たものだ
海坊主の体温が背中に残っている
空気を吸うために甲板に上がった
生ぬるい風
岸辺なく 港なく
広大無辺な海
雲がギラギラしている
そのとき
オレは戦慄した
後尾甲板に船長が立っている
顔は髭にまみれ
義足は衣服に隠れていたが
紛れもなく船長
その酷薄で冷酷な佇まい
(光栄に思わにゃならん)
オレは動けなかった
恐怖で
眼を背けた
(それがおまえに刻まれた聖痕だ)
船長の周囲だけ空気の色が違う
岸辺なく 港なく
陰惨な海と空
人間を正常でいられなくする気配
オレのノーテンキな気分は吹き飛んでいった
左眼の傷が針で刺されるように痛んだ