私が公務員を辞めた理由—三次市役所職員の松岡泰久と秋山智紀による犯罪を告訴・告発する  「凶悪」 ある死刑囚の告発(「新潮45」編集部編/新潮文庫)に対する書評を導入として

 かなり古い本ではありますが、自分にとって得るものが多く、自分自身の過去と向き合うきっかけをつくってくれた本でもありますので、ここで取り上げてみようと思います。文庫版の解説で元外務省主任分析官の佐藤優氏が「少なくとも過去十年に私が読んだ殺人事件を扱ったノンフィクションのなかで最大の衝撃を受けた作品である。」と書いてあるのも納得できる内容でした。

扱っている内容は、死刑判決を高裁で下されたある収監中の殺人犯(後藤良次)が、その時点では表面化していなかった複数の別件の殺人事件について、みずからの関与を雑誌記者に明言する、というところから始まります。そして後藤が関与したと主張するそれらの殺人事件には、驚くべきことに共犯(三上静男、文庫版書下ろし以前に執筆された箇所については、最高裁判所での確定判決が出される以前に執筆されたので、プライバシー権との関係から「A」とされています。)がおり、その時点では娑婆を平然と闊歩していたということです。著者はこれら別件の事件について、三上が計画し、後藤が主に実行したという線で裏づけをとる綿密な取材を開始し告発するにいたる、というスリリングな内容でした。事件の異様さと取材の緻密さが際立つすばらしい作品だったと思います。そして私が被害者である、過去の市職員の犯罪を告訴・告発する勇気を与えてくれた秀作であると考えております。

さて、ここで申し上げておくべきことは、この記事の投稿は三次市職員の松岡泰久および秋山智紀の犯罪を告訴・告発することが主たる目的であり、「凶悪 ある死刑囚の告発」 の書評は主たる目的を達成するための導入部分にすぎないということです。そのため、書評としてご覧くださる場合、その目的は十分達成できないであろうと思われます。以下、公務員を辞職する1年以上前まで遡り、そこから辞職するまでの経過を詳述していこうと思います(辞職後の苦難については後日、別の機会に記事化したいと思います。)が、かなり難解で、かつ長文になると思われます。あしからずご了承ください。

まず、公務員を辞職する1年以上前まで遡って話を進めようと思うのですが、その前に公務員を辞職するまでの私の経歴について少し触れさせていただきます。私は20103月に京都大学の法学部を卒業すると同時に20104月に広島県の三次市役所に入庁しました。なぜ三次市役所を就職先に選んだかと申しますと、主な理由は4つあります。
①母方の祖父の地元が三次市であり、祖母が亡くなって有料老人ホームに一人で入居している祖父を毎週末にでも訪問して談笑できれば、癌を患ってそう長くは生きられないはずの祖父も喜んでくれるだろうし、私自身も楽しいだろうと考えたから ②阪神淡路大震災で被災した際に、祖父母宅の校区内にある君田村立君田小学校(現三次市立君田小学校)で1ヶ月近くお世話になり、当時お世話になったご恩返しができればよいと考えたから ③君田小学校在籍時の同級生の保護者に課外スポーツでお世話になり、その方が君田村役場(現三次市役所君田支所)に勤めていて突出した仕事をされていたので、自分自身その方の薫陶を受けられたらいいなと考えたから(この目論見に関しては入庁時点ですでに不可能であったことが後に判明します。) ④単純に、自分の地元である神戸市役所の一次試験で失敗した(京大生にありがちなのですが、準備をまったくせずに就職活動に突っ込んで爆死するというご多分に漏れないパターンにはまった)から 以上の4つが三次市役所を就職先に選んだ理由です。
入庁後2年目(20123月)までは総合窓口センター市民生活課戸籍住民係という、いわゆる住民票を発行したり、戸籍の届出を受けたりする部署に在籍し、3年目(20124月)に異動となり、福祉保健部高齢者福祉課高齢者福祉係という高齢者関連の職務にきっかり1年間従事したのち20133月末日に退職、というのが簡単な経歴です。(別の記事として投稿している敬老行事に関する行財政改革案はこの3年目に作成したものです。)
話は、市民生活課に在籍時の2年目、すなわち高齢者福祉課に異動する前年の、あるトラブルから進めていこうと思います。(かなり専門的な内容を含みますので、時間がない方や興味のない方は「あぁトラブルが原因で異動になったんやね」と思っていただき、高齢者福祉課に異動した後の話に飛んでいただいて差支えありません。

そのトラブルは、土日窓口の勤務中にかかってきた1本の電話から始まりました。今もあるかもしれませんが、当時は市役所のサービスを充実させるため、土曜・日曜も住民票の発行や戸籍・パスポートの届出受理等が窓口でできるようになっていました。その日は私と係長の2人で勤務しており、電話に出たのはたまたまですが私でした。電話の主はある市議会議員。地元の市民が亡くなっているかどうか知りたいので死亡届が出ているか否か確認してほしい、というのが問合せの内容でした。市議会議員の立場からすると、地元の支援者が亡くなった場合、弔電を打つ必要が生じるので、死亡届が出ているか否かはぜひとも知りたい情報ということになります。そして当時の私の問合せへの回答は「お答えできない」というものでした。実際にはこの時点で議員が知りたい方の死亡届は出ていましたし、私もそれを把握していました。では、なぜ私は死亡届が出ていたにもかかわらず、「お答えできない」と回答したのかというと、死亡届に付随して提出される書類の中に「議員からの弔電を希望するか」否かを確認する項目があり、その項目には「希望しない」のボックスに明確にチェックが入れられていたからです。すなわち、この亡くなった方のご遺族は「議員からの弔電を希望しない」という意思を明確に表明していたということになります。

ここで私の対応に疑問を持つ方がいらっしゃるかもしれません。「弔電を希望しなくても、死亡届が出ているか否かについては回答できたのではないか?」と。この疑問に対しては、死亡届の死亡年月日は戸籍に記載されるような個人情報であるので、みだりに開示できない、仮に開示して何かの手違いで議員が弔電を送ってしまった場合、遺族、特にそれが密葬等、特別の事情がある場合の遺族からすれば、「役所がなに勝手に情報漏らしとんなら!」ということになり、行政の責任が追及される可能性がある、との理由から否定することができます。

では「死亡届が出ているか否かについては回答できないとして、弔電を希望するか否か、には回答できるのではないか?」と疑問を持たれるかもしれません。しかしこれについても「お答えできない」としか言えないことになります。なぜなら「弔電を希望していない」と回答した場合、死亡届が出ていることも必然的に判明してしまうからです。Aという情報があるか否かについて開示した結果、Bという情報があることが判明してしまうので、それを避けるために「Aという情報があるかどうかについても回答できない。」と回答しなければなりません。(これは行政法学的には「グローマー拒否」という概念に近いのですが、ここではこれ以上立ち入りません。理解するのが難しい、あるいは面白そうだと思われた方はインターネットで「グローマー拒否」を検索していただければ、いろいろ面白い事例が出てくるので、そちらをご覧ください。)

この件については後日、その市議会議員と私の上司の間で、私のその対応について少しもめたらしく、当時の上司に対しては今でも感謝しているのですが、2016年に富山市議会議員が市の議会事務局に対して、情報公開請求をした人間の個人情報を違法に開示させたとして大問題になったことからも、私の対応には瑕疵がないばかりか、逆に適切であったと思われます。もっとも、相手方の市議会議員に対しても「グローマー拒否まで知っておけ」というのは少し酷なので、やむをえなかったと考えております。結論的には両者の言い分はもっともであるとして処理すればすむ話であったと思われます。ただし、これがきっかけかは判然としないのですが、翌年、私は市役所で誰も行きたがらない部署の3本指には必ず入ってくる高齢者福祉課の高齢者福祉係へと異動になりました。当時は左遷と密かに言われていたのを今でも覚えています。私自身は「高齢者福祉課がもっとも忙しい部署だから左遷部署と言われるのだろう。」と考えていたので、公益に資する仕事をしたいと考えていた当時の私としては、逆に燃えたのですが、誰も行きたがらなかったのはそれ以上の理由があったということに公務員を辞職する直前に気づき、その考えは現在、強まることこそあれ、弱まることはありません。私の前任者にいたっては、高齢者福祉課から医事課に異動する際に「二度とこんな所には来たくないです。」と言って出て行ったらしいですから、私の考えも特異なものではないと思われます。

なお、この2年目に気になることが1つありました。当時、私が配属されていた市民生活課は市役所の本庁にあり、昼食時にはミーティングルームで食事をする職員が多かったのですが、そこである職員から何やら紙の資料らしきものがこそこそ回覧され、それを目にした人からは「おぉ!」というような声が漏れることがありました。その時の私にはそれが何か判然としなかったのですが、これについては後日、しかも公務員退職後に判明することとなります。時系列を追って話をしたいので、この点については後ほど再度言及したいと思います。

こうして入庁して3年目、私は高齢者福祉課へと異動となり、公務員辞職後の人生が暗転する下地が整ったことになります。

※なお、上記の市議会議員は現在の市長である福岡誠志氏ですが、彼とは後に個人的に話をする機会があり、現在ではわだかまりがないことはここに明記しておきます。

さて、こうして私は高齢者福祉課の高齢者福祉係に異動となったわけですが、仕事は思った以上にハードなものでした。激務の部署の一つであるにもかかわらず、職員は異動2年目の係長、5年目とはいえ体調に不安を抱える先輩職員、異動1年目の私と、同じく異動1年目で私のお目付け役(お守り役)の先輩職員(以下、お目付け役先輩職員と略記)に臨時職員1名で構成されていました。6月の下旬に体調に不安を抱えていた先輩職員が、その職員の業務がもっとも忙しくなる時期に離脱、当初は1ヶ月の予定でしたが、後日9月末まで延長となる病気休暇に入りました。異動1年目でそこそこ自己の業務も大変だったのですが、そこに病気休暇の先輩職員の業務の一部が上乗せされたため、その年の79月に関しては残業が各月100時間を優に超えていました。(もっとも財政難の自治体でしたので、残業代はほとんど請求しませんでしたし、低賃金で圧倒的な仕事をするのが全体の奉仕者たる公務員の本分だと当時は考えておりましたので、今でも当時の仕事については誇りに思うことこそあれ、後悔することはまったくありません。)ここで、「長時間労働に耐えきれなくなって公務員を辞めたのか、よくある話だね」となるかもしれないのですが、残念ながら私はそれほど繊細ではありませんし、正直、学生時代のほうがはるかに忙しく(学生時代は試験1か月前から図書館で授業の合間に朝の9時から夜の9時くらいまで勉強し、試験期間は試験の合間を縫って朝の9時から図書館が閉館する夜の10時まで勉強し、下宿に帰ってからも100均で買った菓子をほおばりながら、夜の2時くらいまでは勉強し、朝の6時・7時には起床する、というような生活をしていました。当時の京都大学の法学部ではそれでも平均的あるいは平均以下の学習量であったと思われますが、それでも4年で卒業できる確率が5割前後、私の学年で330人中、ストレートで卒業したのが180人程度、私の2学年上にいたっては学年360人中、ストレートで卒業したのが2桁人数しかいませんでした。ある教授が1回目の授業で「去年は試験で1/3くらいしか合格させなかったら不評だったので、今年は2/3くらいは合格させようと思います。安心してください。」などと涼しい顔で言ってのけるような大学・学部です。個人的には大学入試の1.5倍くらい勉強しないと卒業できなかったという印象があります。)、精神的にも追い詰められていました(同級生に過剰につきまとわれたために大学に行くのが苦痛だったこともあります。)から、残業が月100時間程度なら疲れはたまるものの、個人的には耐えられないレベルではありませんでした。先輩職員が病気休暇に入る際、当時の係長から「とりあえず1ヶ月程度は耐えてください。」と言われていましたが、私自身は心の中で、「1ヶ月で復帰できるとか認識甘すぎるやろ。」と失礼ながら思っていました。勝手に長期戦のつもりで仕事に取り組むようにしていたので、後日その係長から「病気休暇が3か月に伸びました。私の認識が甘かったです。」と申し訳なさそうに言われた時も屁の河童でした。とりあえず朝8時過ぎには登庁し、建物が閉館する午後10時までは仕事をする。それでも間に合わなければ、朝、福祉保健センターが開館する午前7時半に登庁し、午後10時までひたすら仕事をして退庁する。土曜日は一応朝から夕方まで仕事をし、日曜日は朝一番にランニングをして、帰宅後1週間分の家事、昼から祖父の入居する有料老人ホームを訪問し、睡眠不足解消のために祖父のベッドの横で昼寝に集中した後、祖父からせしめた3時のおやつをほおばり、登庁する気が失せた時はそのまま祖父の夕食が始まる前までまた寝落ちしたりぐだぐだしたりして帰宅する、お菓子パワーで元気が出た時には登庁して夜まで仕事をする。そして翌日からまた1週間が始まる、という流れでひたすら日々を送っていました。祖父はこの時期から半年少々で亡くなるのですが、訪問してきてすぐに「時に起こしてね」と言いながら自分のベッドの横で眠りに落ち、起こした後はお菓子を食べて帰っていくという変な孫を見てどう思っていたのかと考えると、今でも少しやるせない気持ちになります。もし当時に戻って何か一つ変えられるなら、自己満足にすぎませんが、昼寝を我慢して祖父とつまらない話でもいいのでしたいと思います。

話がそれたので元に戻します。こうして周囲の助けを借りながら、なんとか10月初めに先輩職員の復帰まで漕ぎ着け、事なきをえたのですが、この時期にもやはり2つほど気になる出来事がありました。

1つは、7月〜9月のうちのいずれの日であったか記憶が定かではないのですが、全庁のパソコンが丸一日使えなくなるということがありました。たとえば、ワードやエクセルで文字を打ち込むと、510秒くらいして、レモン汁と火を使ったあぶりだしのように文字がぼんやりと浮かび上がってくる、やたらとパソコンの動作が鈍い、といった状態に丸一日なり、全庁的に業務が停滞した、ということがありました。私自身はここぞとばかりに申請書等、紙の資料の整理に時間を費やしたので、タスク処理におけるダメージはほとんどなかったのですが、これについても後の事件の伏線となりますので、心の中に留めておいてください。

もう一つは、ここで初めて記事の中に登場するのですが、朝、同じフロアにあり、高齢者福祉課の隣の部署である社会福祉課社会福祉係から秋山智紀(以下、秋山と略記)が近づいてきて「塩ちゃん(←私のことです)、おはよう、ごめんなぁ。」と言った上で「塩ちゃんは優しいなぁ」と妙な猫なで声で言って自分の席に戻っていった、ということがありました。私自身はこの時、何があったかは分からなかったのですが、私の右隣の席だった係長は顔がひきつってピリピリしていましたし、私の正面の席に位置するお目付け役先輩職員は明らかに不快そうな表情を浮かべて、秋山が背中を向けて自席に戻っていくとき、その背中に一瞥をくれていたのが今でも印象に残っています。そして自席に戻っていった秋山に対して、これも初登場ですが、松岡泰久(以下、松岡と略記)が憤怒の表情で近づいていき、「どうしてくれるんじゃ!」とでも言わんばかりの距離まで秋山に詰め寄っていました。それに対して、秋山は「まぁまぁ」といった表情でとりなしていたのも印象に残っております。これについても、やはり後ほど言及したいと思います。

そして問題は、病気休暇を取得した先輩職員が職場復帰した後、年が明けてから顕在化します。

10月からは職場復帰した先輩職員に、その方の分の業務はお返しし、やや逼迫しつつあった自己の担当業務に集中した結果、ほぼ年内の12月には遅れを取り戻し、年明けからは時間が余るようになりました。そこで自分が抱える課題に取り組む時間ができたと考えるにいたり、①私自身が高齢者福祉課に異動後に取り組んだ業務の明文化(業務マニュアルの作成)と②業務の改善案を作成することにしました。①については、異動で私の前任者が本庁にある秘書広報課と中央病院にある医事課にそれぞれ異動し、福祉保健センターにある高齢者福祉課とは離れた場所での勤務となったのですが、秘書広報課へ異動した方が作成してくださった業務の年間スケジュールで概要は把握できるものの、細かい実務になると、前年度の申請書や起案を見ただけでは前任者の仕事の内容を容易に把握することができず、引継ぎにお互いに四苦八苦した、また、私自身、高齢者福祉課に異動後、市民生活課の後任者への業務の引継ぎが十分にできなかったことから、業務の流れを明文化して、それを読みさえすればたとえ業務の引継ぎが不十分であったとしても後任者は時間のロスを可及的に減らすことができ、残業時間の削減に繋がる、と考えたことから取り組むようになりました。(実際、1年で高齢者福祉課から他の部署に異動する可能性もないわけではなかったので、年度内に一通り仕上げるつもりで取り組みました。結局その年度末に辞職することとなるのですが、最終的には331日の日曜日には55,000字程度の業務マニュアルが完成しました。)②については、私がnoteに投稿した別の記事で、三次市の敬老行事における業務改善案について言及した記事がありますので、そちらをご覧いただければお分かりいただけるのですが、私が高齢者福祉課で担当していた業務内容が予算ばらまき型の事業であったため、何とかその事業から生じる経済波及効果を維持しつつ、予算削減と事務量削減を実現したかった、ということから取り組むようになりました。

①②について取り組み始めて間もない1月の中旬だったと思います。朝、登庁すると職場が妙に殺気立っていました。気持ち悪いなと思いつつ、その日の勤務時間が終了したので、「さて、業務マニュアルの作成に取りかかろう。」と考えていたところ(当時の私は、職場に私のことが嫌いな人間が確実に存在していると認識していたので、ちょうどFacebookが日本でも急速に普及していた時期であり、ソーシャルメディア上で、「あいつは勤務時間内に誰が読むかも分からない自己満足の業務マニュアルを作成している。」などと言われるのを避けるために、残業代を請求しない、すなわちサービス残業である勤務時間外に業務マニュアルを作成していました。)、高齢者福祉課高齢者福祉係の隣の社会福祉課社会福祉係から秋山が今にも殴りかからんばかりの表情で近づいてきて、「おぉ、職場の雰囲気悪くするのやめてくれるかな」などと言ってきたのです。そして「のぉ、返事は?分かったら返事せぇや」と繰り返し私の席の横から言ってきたのですが、私もその時点では秋山がFakebook等のソーシャルメディアで私のフェイク情報を流すのに失敗したか、私に関する情報を仕入れて嫉妬心を刺激されたか、もしくはその両方かと思ったので、低次元な情報に左右されるような馬鹿を相手にはできないと考え、秋山の顔を見るのをやめて、自席のパソコンのほうに向き直ってやり過ごしました。秋山はその後も「そんな態度でええ思いよるんかぁ」などと散々すごんできたものの、さすがに私がまったく相手にする気がないと分かったのか、肩を怒らせながら自席に戻っていきました。その後、秋山は周囲に「みんな、無視しようぜ。」とこちらにも聞こえるくらいの声の大きさで言っていたのを覚えています。(後でその時の状況を思い出して気づいたのですが、私が因縁をつけられていた時、秋山の上司である社会福祉課長と私のお目付役先輩職員がその場におらず、また私の上司の係長はその場にいたものの、物静かな女性で力戦型のトラブルに対処するのは苦手であったことから、秋山はその時間を狙って私を挑発してきたのだと思います。)
三次市役所では、年に1回、週末に泊りがけで部や課をあげて旅行に出かける(土日窓口がある市民生活課だけは祝日に日帰り旅行)ことになっており、ちょうどその出来事があった週末に福祉保健部でその旅行に行くことになっていたのですが、少々身の危険を感じたのと、一度冷却期間を設けたかったこと、たしか旅行の日程は阪神淡路大震災があった日前後で、その時期は毎年静かにすごしたいと考えていたこと、ちょうど体調が優れなくなったことから部の旅行に行くのはキャンセルしました。(阪神淡路大震災のあった日(1/17)前後は静かに過ごしたいと考えていたことから推察すると、おそらくこの出来事は1995年の18年後の2013/1/15前後のことでしょう。)

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秋山智紀(本人Facebookより引用)

その後、職場はあくまでも表面的にではありますが、平穏な雰囲気を取り戻し、私も自己の業務に集中できる環境を(あくまで表面的にではありますが)取り戻したことから、前述の業務改善案の作成に傾注しました。おそらく暫定的な業務改善案が完成したのは、前述のトラブルの後であったので、1月下旬もしくは2月上旬であったものと思われます。前述のトラブル以降、おそらくFacebook等のソーシャルメディアで私の情報でも収集していたのでしょう、職場での私への風当たりもなぜか強くなっていました。私も馬鹿なので、公務への自分の貢献度が足りないから不興を買っているのではないかと考えてしまい、前述②の業務改善案を作成し、今後修正する部分も多い、本来指示されている業務とは関係のない自主的な行政行為である、といった理由から、正規の決済ルートである電子システムには載せずに、メールで係長に送信しました。係長にメールを送信したのが、たしか夕方だったと思います。私としてはそのまま直系の課長にメールが転送されて課長から何がしかの話があるのではないかと推測していたのですが、翌日に私の正面の席のお目付け役先輩職員から「よくやった!」とほめていただいたことから、業務改善案が係長から直系の上司だけでなく、他の職員にも転送されていたことが分かりました。

これで、私は「なぜだか不興を買っていた塩田君(=私)が名誉を挽回すべく(挽回しなければならないようなレベルの低い仕事はこの時点でもしていないのですが)、頑張って業務改善案を作成し、市職員の一員として認められましたとさ、めでたしめでたし」となるはず、と踏んで一安心していました。しかしながら、現実はそうはなりませんでした。むしろ事態は逆に転がっていったように思われます。お目付け役先輩職員が私を褒めてくださった翌日、秋山が、これまたものすごい形相でその先輩職員の席に近づいてきたかと思うと、その先輩職員のオフィスチェアの脚にサッカーの元ブラジル代表のロベルトカルロスばりの蹴りを入れたのです。先輩職員もさすがに動揺していましたが、これはおそらくその前日、その先輩職員が私を褒めてくださると同時に、私がそのような仕事をしたことを報告あるいは拡散してくださり、それが秋山には気に入らなかった、そこでその翌日、先輩職員の席に近づき、ロベルトカルロスと化してシュートを放った、と考えるのが妥当なところだと思われます。なぜ秋山が私の業務改善案を気に入らなかった可能性があるかというと、当時、行財政改革を検討する「若手主体のワーキンググループ(以下、WG)(若手主体のワーキングチーム、という名称だったかもしれませんが、話の本筋には関係がないので、ここではワーキンググループ(WG)として話を進めます。)というものが組織されており、各部署から40歳以下の若手職員が選抜されて話し合う、といったことが行われていました。私も、このWGに参加するようにお声がけいただいていたのですが、①そのお声がけいただいたのがちょうど私の残業時間が月100時間を超えていた時期であった、②WGの中で私自身が十分な役割を果たせないことが、その組織形態を提示された瞬間に自分の中では明白だった(この点については民間企業に再就職後に読んだ本ではありますが、釘原直樹著「人はなぜ集団になると怠けるのか」(中公新書)が面白かったです。)、③自己の担当業務に関する業務改善案のアイディアが、この時点でぼんやりとではあるがイメージできたため、WGに参加してアイディアを出すより自己の担当業務についてアイディアを出すほうが効率的である、という3つの理由から、休日に私が残業しているところにわざわざ人事課長が参加するように説得に来てくださったりしたのですが、②③の理由については言明せず、①の理由のみで押し通してWGへの参加を辞退しました。(当時は人事課長に対して、「人事異動でこんなクソ忙しい部署に放り込んでおいて、WGにまで参加しろとか、何言うてんねん。」と思っていたのですが、人事課長に実際の人事裁量がほとんどなかったことを考えると、私が行政の主流から完全に外れてしまわないように必死に考えてくださっていたのだと今となっては思われますので、当時の自分の考えについては反省せざるをえません。)おそらく、WGに積極的に参加していた秋山からすると、私がWGに参加せずに単独で業務改善案を作成したこと自体が許せなかったのかもしれませんが、私個人としては、民間企業ではなく公務員として税金で働いている以上、原則として協働するのはあくまで個人で成果を出すのが難しい場合、あるいは協働したほうが個人でするより成果を残せる場合(分からない仕事を教えてもらう等)等に限られると考えていますので、協働するのが非効率である場合にまで、協働ありきでものを考えるのは少々違うのではないかと思います。

そして、ここでもう一人のキーパーソン松岡がようやく本性を現し始めました。秋山がロベルトカルロスになったのとほぼ同時期に、この松岡は「三次をまもらにゃぁいけんけぇえええ!!!!!!!」と私からかなり離れた自席で絶叫し始めました。それまでも松岡には遠くで大きな声で独り言を言う傾向があったのですが、この時は異常なくらい張りのある声をしていました(彼が独り言を言うのは、彼の犯している犯罪と関係があり、それについては後述するので、少しご留意ください。)

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松岡泰久(後列向かって右端)   参議院議員岸まきこ twitter より引用(三次市職労訪問時)

そして、その日だったか、次の日だったかは定かでないのですが、私のパソコンの一部が使えなくなりました。パソコンの一部とはどこかと申しますと、当時業務改善案を作成していたエクセルです。業務改善案を作成していたエクセルがどう使えなくなったかというと、エクセルで文字を打ち込むと5秒〜10秒くらいして、文字がレモン汁と火を使ったあぶりだしのようにぼんやり浮かび上がってくる、といった状態になったのです。どこかで聞いた気がしないでしょうか。そうです、「7月〜9月のうちのいずれの日であったか記憶が定かではないのですが、全庁のパソコンが丸一日使えなくなるということがありました。」との記述があったのを覚えておいででしょうか。

「これについても後の事件の伏線となりますので、心の中に留めておいてください。」とも書いておいたので、記憶力のよい方は覚えていてくださったかもしれません。
結論から申し上げますと、「三次をまもらにゃぁいけんけぇえええ!!!!!!!」と絶叫していた「三次の守護神・松岡」が、夏に、自己顕示欲か欲求不満を爆発させて全庁のシステムをハッキングしてパソコンの動作が鈍くなるように細工をし、年が明けて、業務改善案を作成した私の存在が不愉快で、私の公用パソコンのみをハッキングして、私が業務改善案を作成するのに使っていたエクセルの動作が鈍くなるように細工した、ということです。夏に全庁的にパソコンが使えなくなった際、普段はラジオのパーソナリティーやDJ顔負けのレベルで勤務中にもしゃべり続けていた松岡と秋山が、逆に落ち着いていて無言であったことが、後で思い返すと異様であったと思うにいたりました(「今日は気持ち悪いくらい仕事がはかどるなぁ。」と思っていたら、松岡と秋山が外勤で職場が静かだったから、ということが時々ありました。)。普通、自分のパソコンが使えなくなれば、他の職員と状況確認をする等、どちらかと言えば騒々しくなるはずであるにもかかわらず、特に、他人の批判を声を大にしてするような彼ら(彼らの性格からすると「情報政策課は何しとるんね⁉」等言うことが十分考えられる。)が、逆に異様な静けさを保っていたことに、強烈な違和感を覚えていたことが、すぐ頭の中に浮かび上がってきました。

もっとも、私は年明けに自分の業務改善案のエクセルがおちた時点では松岡によるハッキングであるとは気づかず、「ロベルトカルロスみたいにシュートを放っている奴もいるし、フーリガン並みに絶叫している奴もいるし、自分の業務改善案を作成しようとしていたエクセルは、レモン汁をかけたわけでも、火で炙ったわけでもないのに、あぶりだしみたいになるし。」と鬱々とした気分になっていたので、「これでまた、みんなで書類整理か。」と思いながら、隣の席の係長に「あのぉ、またパソコンが動かないんですけど。」と話しかけると、「え、そうなんですか?私のは普通に動いていますよ。」というニュアンスの返事が返ってきました。ここで初めてパソコンであぶりだしをしているのは自分だけであるということに気づき、松岡にやられたのではないかと思い始めるようになったのです。当時、松岡の上司はおそらく事情を知っていたのでしょう。「やめんさい。」といったことを松岡に小声で言っていたのですが、それに対して松岡は「これも仕事のうちじゃけぇぇええええ!!!!!」とか「これはわしらの権利じゃけぇぇええええ!!!!!」と叫んでいました。私もさすがに、この頃にはメンタルを病みそうになっていました。私の前任者のうちの一人が、高齢者福祉課から医事課に異動する際に「二度とこんな所には来たくないです。」と言って出て行った理由が、ここでようやく理解できた気になりました。しばらく業務改善案を記載している動きの悪いエクセルと悪戦苦闘していたのですが、松岡が自席で得意そうな顔をしてパソコンを見ていたかと思うと突然立ち上がって、「わしの方が仕事ができるんじゃけぇ!!!!!」と、これまた叫びながら部屋から出ていきました。今思うと、松岡は自分の席で、私が作成した業務改善案をハッキングで開き(この時点で開くことができないはずの他課のフォルダを開いているので、職務倫理規程等に反するはずです。)、私が四苦八苦しているのを確認して勝ち誇っていたのでしょう。

※当初、業務改善案をエクセルで作成しており、一度目の提出後に、さらなる改善案の作成を実行に移そうと考えた矢先に、その業務改善案があぶり出し化してしまい、進退窮まったかと思われたのですが、元々エクセルに入力していた業務改善案を、すべてワードにコピペしたところ、ワード上ではスムーズに入力ができ、簡単に業務改善案をバージョンアップすることができたので、思わず笑ってしまった、という余談があります。

あまりに低次元なトラブルが連続していたために、「この程度の業務改善案を作成しただけでここまで職場が荒れるのなら、今後、どの部署に行って業務改善案を作成しても今回と同じような低次元の嵐に巻き込まれてしまうのだろう。」と思うと、モチベーションが低下してしまったので、私はこの時点で公務員を辞めることを決意しました。入庁当初は、少なくとも祖父が亡くなるまでは退職せずに頑張ろうと考えていたのですが、祖父もこの頃には認知症が進み、有料老人ホームを訪問しても私を自分の孫だと認識できなくなっていたことから、退職の予定を年度末の3月末日に定めました。なぜ3月末日に狙いを定めたかと申しますと、それ以外の中途半端な時期に辞職すると、不祥事で辞めさせられた等、根も葉もない噂をたてられる恐れがあったためです。前半で三次市役所を就職先に選んだ理由として少し言及したのですが、私があわよくば薫陶を受けたいと考えていた同級生の保護者は、私が入庁した時点ですでに公務員を辞めていらっしゃったのです。この方は、竹下内閣で実施されたふるさと創生事業の1億円を使って温泉を掘り当てて、当時は反対の声が多かった中で自らが役場を辞めるという形で退路を断ち、完成した君田温泉の支配人に就任し、来場者数が年20万人という、ふるさと創生事業を全国的にも珍しい成功に導いたという方なのですが、私の先輩から、この方が、セクハラの加害者であるとのデマを流されて君田温泉の支配人を辞めさせられた、と聞いたことがあったので、私も上記のような荒んだ職場の状況に鑑みて、下手な時期には辞められないと考えて、きっかり年度終わりの3月末日での辞職を検討するようになりました。そして、本来なら辞職する1ヶ月以上前にはその旨を上司に申し伝えなければならないことになっていたのですが、辞職・退職を含めた異動の情報が公示前に漏れていた(前述のとおり、市役所のシステムは松岡にハッキングされており(実は私の私用パソコンもハッキングされていたことについては後述します。)、異動の内示情報も事前に筒抜けだった)からです。この記事の前半で、ミーティングルームで昼食をとっているときに、紙の資料らしきものが回覧されていた、と書いていたのを覚えていらっしゃるかもしれませんが、それが異動の内示情報だったのです。なぜ、その紙資料が異動の内示情報だと気づいたのかというと、その紙の資料を回覧していたのが、総務部危機管理課の高木某だったからです。私が辞職後に市役所の後輩と話している中で、私が紙の資料が回覧されているのを確認したちょうど1年後の同時期に、その後輩が高木某から「ええもんを見せちゃろぅ」と言って見せられたのが、公示前の異動の内示情報だったからです。おそらく窃盗犯が好意を持った女性の気を引くためにその女性に盗品をプレゼントするのと同様、高木某はその後輩の気を引くために、松岡がハッキングして入手した異動の内示情報を横流ししてもらっていた、というのが真実でしょう。実際、松岡と高木は仲がよかったですし、この情報を教えてくれた後輩は秋山や松岡と違って、いたってまともな公務員ですので、情報も間違いのない確かなものです。)ということから、あまり早めに私の退職の内示が出ていることに気づかれると、また松岡や秋山に騒がれて面倒なことになると考えて、辞職する旨を上司に申し伝えるのは、3月末日の2週間前ということにしました。2週間程度なら、前述した業務マニュアルもほぼ完成しており、その後にパソコンがハッキングされて機能不全に陥っても引継ぎにはさほど支障がないであろう、また、仮にロベルトカルロスと化した秋山に自分のデスクチェアを蹴り続けられても耐えられるだろうと考えた上で、この決断をしました。今思い返すと、当時は年次有給休暇が前年繰越分も含めて35日分残っており、ロベルトカルロスがシュートを打ってきたら即座にピッチを去る(=残りの有休を行使して職場からおさらばする)という手法を取ることも可能だったのですが、当時の私は全体の奉仕者としての公務員をクソ真面目にこなしていたことから、結局、年次有給休暇を使わずに退職することとなりました。(35日分の有給が残っていたということから、5日分は有給を使ったという計算になりますが、これは労働組合の活動に参加するために使ったものです。後述しますが、三次市職員労働組合は私の権利を侵害し続けていたので、そのような組織のために貴重な有給を使ってしまったと思うと、この文章を書いている今も少々不愉快です。)

係長に辞職の旨申し伝えた後でも、その時点では松岡がハッキングをしている蓋然性が高い、というだけで、いまだその確証までは持てていませんでした。

私は、暇な時期の昼休みには英語のネット記事や英単語を特集したサイトを見ることが多かったのですが、そうすると松岡が「休み時間によぅやるわ」等、私が公用のパソコンで閲覧しているサイトと関連性の高い感想(独り言)を聞こえよがしに連発していた。

私は仙人でも聖人君子でもないので、休みの日に私用のパソコンでセクシーなワードで検索をかけることがなきにしもあらずだったのですが、大抵その翌日には松岡がふんぞり返って「塩田君、おはよう!」等、上機嫌で挨拶してくることが多かった。(後で考えると、鼻を明かしてやった、というような優越感漂う表情をしていたように思います。この相関関係に気づいた点については、自分を褒めてやってもいいのではないかと思っております。)

このようなことからも、自分のパソコンが公私とも松岡にハッキングされているのではないかと考えた私は、退職する10日ほど前、帰宅後に私用のパソコンに、あるトラップを仕掛けました。

トラップは検索バー(検索する際に入力する枠のことです)に、以下のキーワードを順次入力するという単純なものでした。この記事をご覧の方は、ご自身がハッカーになって私の検索履歴をチェックしているつもりになって、以下をご覧ください。

以下、順次「 」内に検索バーに入力したフレーズを時系列順に記載していきます。

①「踊る阿呆に見る阿呆」

②「踊らされる阿呆に見ずにはいられない阿呆」

③「バカの表情は読み取りやすい」

④「バカの表情ほど読み取りやすいものはない」

⑤「検索履歴チェック」

⑥「すべては天才の手の中にある」

翌日の朝、登庁して自席につき、仕事にとりかかろうとしたところ、向こうからギクシャクした動きで近づいてくる人がいます。松岡のようです。松岡は私の席の横で立ち止まり、私に向かってこう言いました。

「おはようございます。」

私は頭の中で反芻しました。

「おはようございます???」

「おはようございます??」

「おはようございます?」

「おはようございます!」

「おはようございます!!()

「おはようございます!!!!!!!(爆笑)

セクシーワードを検索した翌日にのみ、ふんぞり返って「塩田君、おはよう!」と挨拶してきていたあの松岡が、セクシーワードを検索した翌日でもないのに、わざわざ向こうから真面目くさった顔で近づいてきて、「おはようございます。」と言ってきたのです。

その瞬間、私は「この人は私が仕掛けたトラップにまんまと引っかかって、自分のことを踊らされる阿呆で、表情が読まれやすい馬鹿だから、天才の掌中で転がされている、とでも勘違いして、自分の犯罪がばれるとでも思ってあせってるんやろか?」と考えてしまい、心の中で爆笑した後、「なんでこの程度の次元の低いトラップにひっかかるアホにここまで煩わされてるんやろ?」と激しく落ち込んでしまい、秋山が突っかかってきた時と同様、スルーを決め込みました。(ここで簡単に解説しておくと、検索バーに打ち込んだキーワード(キーフレーズ)は、松岡と、松岡とともに検索履歴をチェックしていると思われるゴミのような輩に対するメッセージでした。すなわち、「踊らされる阿呆」=松岡 「見ずにはいられない阿呆」=松岡の取り巻き そいつらが「検索履歴チェック」しているのは「バカの表情ほど読み取りやすい」と考えている表情を読み取る「天才」である私からすると「手の中にある」ようなもので、お前らのしている違法行為はすべて把握しているから、あまり調子に乗るなよ、ということです。)
そうしたところ、松岡は私が本当に表情を読み取っていると勘違いしたのでしょう、その日は3月下旬であるにもかかわらず、1日中脂汗を浮かべていました。萎縮して普段より静かだったので、私も仕事がはかどって助かったのを覚えています。その日は社会福祉課長が定年の1年前で辞職するということで、その福祉保健部としての送別会を勤務時間の終了後にしたのですが、その会場で私が松岡に相対して立ちはだかった時に、松岡は表情を読み取られたら困ると考えたのか、カサカサと後ろを向いてしまったのです。それは、まるで私が尊敬している野茂英雄が、トルネード投法でバッターに向かって投げ込むために体をひねっているのを、バッターボックス側から見ているかのようでした。
民間企業に転職後に吉村昭が書いた「破船」(新潮文庫)を読んだのですが、その中に、難破船の追剝(おいはぎ)をする村人が出てきて、自分たちの悪事がばれた瞬間に必死で命乞いをし始める、というようなシーンが出てきます。「おはようございます。」と言ってきた時の松岡は、まさにそのような状態だったのでしょう。「破船」に出てくる村人と松岡に共通しているのは、「ばれなければ何をしてもいい。」「ばれなければ犯罪ではない。」といった考えなのでしょう。法学部出身の私などは「構成要件(法律の条文)に該当して、違法で、有責であれば、ばれようがばれなかろうが犯罪は成立する。」と考えているので、松岡とのギャップは、どんな努力をしても如何ともしがたいと今でも思っております。


これで松岡が、私の公私両方のパソコンをハッキングしていたことの確証が得られました。そこで、問題は、どれほどの人間が松岡に便乗して私の検索履歴をチェックしていたのか、ということに移りました。ここでショックだったのは、自分が想定していた以上の範囲で松岡に便乗している人間が多かったということです。秋山は当然、目が合いそうになった瞬間に横を向くようになりました。松岡は労働組合シンパだったのですが、労働組合に近い人は概して、私がいることを認識するとやはり横を向くようになりました。思わず心の中で、「こいつら、労働組合じゃなくて犯罪組合やろ」と毒づいてしまったものです。私も労働組合には毎月一定額の組合活動費を収めていただけでなく、誰も行きたがらない東京への出張等にも、ただ一人の同期とともに嫌々ながらでも参加していたのですが、このような形での対価が返ってくるとは思ってもいませんでした。例えて言うなら、お金を払って雑役をこなしているにもかかわらず顔を殴られているようなものです。そういう趣味の方ももしかしたらいらっしゃるのかもしれませんが、残念ながら私はマゾヒストではないので、かなり不愉快でした。労働者の権利を擁護すべき労働組合が率先して労働者の権利を侵害していたわけですから。(当時から秋山や松岡が「仕事がしんどけりゃぁ、上司に言やぁええけぇ。(=上司に言って減らしてもらえばいい。)それがわしらの権利じゃけぇ。上司がやりゃぁえぇんじゃけぇ。」と言っていたのですが、私自身は大学でまがりなりにも高等教育を受けており、その教育を受けていた大学は東大に次いで日本で2番目に国立大学運営費交付金を投入されている大学であったことから、大学で習得した知識や培った能力を駆使して、投入された税金以上の仕事をするのが当然であると考えていたので、彼らの考えには当時から強烈な違和感を抱いていました。また、市民の立場からしても、税金で公務員を働かせている以上、たとえその与えられた業務が膨大であったにせよ、工夫して黙々とこなしていく向上心のある公務員と、努力することなく自己の権利ばかりを主張して自分の仕事を減らし、それにより空いた時間に人のパソコンをハッキングしているような公務員とどちらに行政を任せたいかは明々白々だと思います。最近、特に強く思うのですが、仕事が圧倒的にできる人間は、上司が仕事のやり方を尊重してくださいますし、定時に帰っても文句を言われることはないので、労働組合に加入する必要はないと思います。逆に組合活動に参加する時間と金があるのなら、その時間と金を自己研鑽に使った方が社会へ還元できるものが増えるのでいいのではないかとも思います。当時作成した業務改善案が、市職員の削減に対応するための、業務の効率化による事務量の削減についても大幅に踏み込んでいたことから、市職員の削減に反対の立場の労働組合のシンパからすると気に入らなかったのでしょうが、財政難の地方公共団体でそのような悠長なことは言っていられないはずですし、私が所属していた高齢者福祉課では次年度に組織再編が予定されており(この点については後述します。)、自己の業務量が増大する可能性も十分あったことから、業務改善案を作成しないという選択肢はなかったと考えております。)

検索履歴トラップを仕掛けた翌日、すなわち松岡が野茂英雄と化した日には、私が勤務している福祉保健センターから本庁に行く業務があったのですが、そこでもやはり表情を読み取られないように、「横向け横」「下向け下」をする人がかなりいました。辞職してから、「どうせなら本庁のすべての部署を回って表情チェックをしておけば面白かったのに」と思うようになりました。

それからしばらく、私は表情を読み取る天才のふりをしていたのですが、ある事件がきっかけでふりをしていることがばれてしまいます。

それは翌日に退庁式(退職者・辞職者が見送られる式典)を控えた3/28()のことでした。「私にとって公務員としての通常勤務の最終日(3/29)に、お世話になったお礼に菓子の詰合せを職場に渡そう」と思い、昼休みに近所のショッピングモールに菓子の詰合わせを買いに行きました。買い物が終わって職場である福祉保健センターに戻ってきた私は、翌日まで菓子折りをロッカールームの自分のロッカーに保管しておこうと思いました。ロッカールームには普段は鍵がかかっているので、受付で鍵を借りて入るのですが、その日はすでに鍵を借りている人がいたため、直接ロッカールームへと向かいました。ロッカールームへは、ホール応接室のような部屋ロッカールーム という順序で入るようになっていました。その応接室のような部屋を通り抜けて、ロッカールームの扉を開けた瞬間、ギャグマンガと見紛うような光景が目に飛び込んできたのです。そこには高齢者福祉課長と高齢者福祉課の、私とは別の係の女性職員がいて、接吻をしていたのです。私は驚きのあまり、逆にそのまま自分のロッカーへとまっすぐ向かい、菓子折りをロッカーに放り込みました。その隙に接吻組の二人は蜘蛛の子を散らすように散っていった(一方は私が入ってきた扉から、もう一方は裏口から出ていった)のですが、私はあまりの衝撃でその後の昼食がほとんど手につきませんでした。おそらく傍から見ても私の様子が変だったのでしょう。私の向かいの席のお目付け役先輩職員が「どうしたん、大丈夫か?」と声をかけてくるほど傍から見ても動揺していたようです。ちょうどその日は午後の2時か3時から地域のどぶ攫いにその先輩職員と行く予定があったので、目的地に向かう車中でそのことを話しました。先輩職員も一瞬、対向車線に入りかけるほどハンドルが乱れていたので、私が動揺するのも無理からぬことだったのだと思われます。元々私が所属していた高齢者福祉課には高齢者福祉係・介護保険係・地域包括支援係の3つの係があったのですが、すべて別々の建物にあり、きわめて不便でした(地域包括支援係にいたっては他の2係には車でないと行けない距離にありました。)ので、私が異動で配属になった年度から組織を再編して市民の利便性を向上させようという機運が高まっていました。しかし、なぜかその議論の過程で、一部の機能だけ統合されて他の機能はバラバラになってしまう、という風に議論が進行していました。その過程で強烈な違和感があったのですが、それもこれもあのバラバラの建物に隔離されていたバラバラの接吻組が、公私共に一つになるために利用されていたのだと気づき、その日のどぶ攫いの間はずっと、この1年間何をしてきたんだろう、とみじめさと悔しさで心が一杯になってしまいました。その課長はそれまで車の運転が不得手であった私が広島市内に車で出張しなければならなかった際には運転を代わってくださったり、私が、病気休暇に入る先輩職員から業務を引き継いだ翌日に、吉岡広小路元市長がその業務内容について窓口に直接質問にいらっしゃった際にも私に代わって対応してくださったり、面倒見の良い方だったので、ショックはより大きかったです。その日は日差しが強く、顔を伝うのが汗か涙か分からないくらい汗が噴き出していたのは、せめてもの救いだったように思われます。そんなこんなで他人の不倫も見抜けないということは、表情を読み取れるわけではないのだな、ということになり、私の表情を読み取る神通力はあえなく通用しなくなったのでした。松岡と秋山の勢いと言いますか、虚勢と言いますか、が盛り返してきたのは言うまでもありません。彼らを見ていると実らない稲穂は首を垂れないのだということが実感できました。ルース・ベネディクトが著書「菊と刀」の中で、日本人には恥の文化があると言っていましたが、彼らには恥の文化どころか恥という概念すらないのでしょう。

私の所属する福祉保健部の部長が、本庁にいらっしゃる副市長から呼び出しを受けて私の辞職事由を問いただされたそうですので、おそらく本庁の上層部ではハッキング等の犯罪がなされていたことには気づいていなかった可能性が高いと思われます。また、私が辞職する年度の異動の公示があってから分かったのですが、松岡は財務部収納課に、秋山は建設部土木課にと、それぞれ福祉保健センターから離れた部署へ異動になったことからすると、人事部では私と松岡・秋山のトラブルを関知したうえで両者を物理的に隔離するという最低限の措置は取ってくださったのだろうと、今では思っています。

 少し前で言及した吉村昭「破船」(新潮文庫)の話には続きがあります。追剥たちが命乞いした相手は、自分たちは役人だと名乗り、追剝達に盗んだ積荷をすべて差し出すよう要求しました。追剥たちは恐れおののき、盗んだ積荷をすべて出したので、役人と名乗る彼らはそれらを持って去っていったのですが、実は彼らは役人をよそおった盗人であったのです。それに気づいた追剥たちは鉈や鉤竿を準備して、彼らが戻ってきた際には殺害しようとしたのでした。秋山や松岡は、私が表情を読み取れる天才ではないと気づいた後に何をしたのでしょうか。彼らは鉈や鉤竿を準備して私を殺す代わりに、私のフェイクポルノを拡散して私を社会的に抹殺しようとしたのです。前半で松岡が秋山になだめすかされていたというくだりがありますが、おそらく松岡が私のフェイクポルノでも作成して、仲間内で面白がっていたのを、秋山が私に成りすまして外部のSNS上に拡散した、とかそういうことでしょう。トラブルが表面化する前には秋山から執拗に実家の所在地を問いただされた上に、教えることを渋ると「えぇからはよぉ言えやぁ!」とせっつかれていましたし、秋山が「家でオンラインゲームをする際には女になりすまして課金制のアイテムを男に貢がせよるんよ。ワシの勤務中とか睡眠中にはバカな男に城()を守らせよるんじゃ!」と得意そうな顔で言っていました。これについては公務員辞職後に、街中でSNSのフェイクニュースやフェイクポルノを真に受ける馬鹿みたいな人間から「ヘンタイ」「見せたがり」「AV男優」等の言葉を投げかけられるようになったので、間違いないかと思います。もっとも公務員を辞職してすぐにそのようなことを言われるようになった訳ではなく、2017年の11月頃までは数年に1回、それっぽいことを臭わせる言動に遭遇しただけでした。そして2017年11月頃から爆発的に言われるようになったのですが、これはアメリカで初めてディープフェイクがSNSのレディットにアップロードされた年と同じであったということです。おそらく、「フィルター・バブル」や「エコー・チェンバー」といった言葉も知らず、ツイートやリツイートが刑事・民事ともに責任を問われうるということも分かっていない人々から誹謗中傷されるようになったのはこの時期からです。私は頭が悪いので、彼らと米議会を襲撃したトランプ元大統領の支持者の違いがまったく分かりません。分かる方がいらっしゃいましたら、その違いをぜひ教えていただきたいものです。私自身はパソコンにトロイの木馬のようなものが仕掛けられると非常に不愉快なので、買ってすぐにパソコンのカメラにはテープを貼るようにしていたのですが、フェイクポルノならば防ぎようがなく、また自分が心から軽蔑しているFacebooktwitter上で拡散された場合には、いかんともしがたいものがあると思います。

私は本記事投稿後、何らかの法的アクションを起こす予定です。取材等あれば、いつでも応じます。

私自身はこれほど生産性のない記事を書くのは生まれて初めてなので、反吐が出るほど不愉快です。今後はもう少し生産性の高い記事を書いていきたいと思います。
ではなぜ、これほど不愉快な記事を書こうと考えたかというと、日常生活に支障が出始めた中で冒頭の「凶悪」という本を読む機会があったからです。この本の中では保険金詐欺・殺人の共犯である三上静男が何食わぬ顔で娑婆で生きつつ、その間も多くの被害者が生み出され、闇に葬られていくのを、三上の共犯である後藤良次が告発する、という構図でストーリーが展開します。私も元々は、「黙して語らず」が美徳であると考えていました。自分の過去について語ると、当然、過去の実績について語ることも避けられなくなり、見苦しい、という形式面の理由からと、過去を振り返る時間と労力があるなら、その時間と労力を、過去の実績を超えた未来の実績を残すべく自己研鑽に投入したい、という実質面の理由からです。この考えは現在も変わるところがありませんが、SNSがここまで普及してバカの増長に歯止めがかからなくなっている現在の日本において、黙っていれば秋山や松岡が何食わぬ顔で生きる一方で、私のような人間が社会的に葬り去られる、ということに「凶悪」を読んで気づいたので、この記事を書く決意をしました。しかし、記事を書くにあたって、自分の中で封印していた過去を掘り起こして、それと向き合わざるをえなかったことは、非常な苦痛を伴いました。性的虐待を受けた人がその記憶を封印していたものの、ある日突然フラッシュバックが起こって精神に変調をきたす、という内容の本や新聞記事をよく目にすることがあります。私の体験はそこまで過酷なものではありませんが、今回、共感できる点が多かったように思います。トラウマがある人間にとって、時効制度はあまりにも過酷なものであるとも感じました。SNS規制と表現の自由に関する憲法学者の議論も、あまりに稚拙で見るに堪えないので、この点についても別の機会に記事にして投稿したいと考えております。

最近本で見かけた文言と新聞で見かけた文言で締めくくることで、この記事に関しては筆をおきたいと思います。

人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。 伊集院静「大人の流儀」(講談社)
黙っているとバカが強くなる。 海堂尊(毎日新聞 2022126日付夕刊「この国はどこへ コロナの時代に」)



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