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自分だってナナメ読みしてるくせに

この間、お仕事関係の人から、参考用としてとあるインタビュー記事のリンクが送られてきた。

何かコメントしなければと思った私は、ひとまず記事全体に目を通して、すごく生意気な感想を言った記憶がある。

写真がキレイじゃないとか、見出しが刺さらないとかそんな感じのこと。何様だよおい爆発しろ。

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夜になって仕事が一息つき、バスに乗っている間に、同じ記事をもう一度読み直してみた。

そしたらなんと、すごく読みやすくて、心にじーんとくる記事で。昼間の私は何を思ってあんなテキトーな感想を言ってしまったんだろう。

要するに、日中で仕事に追われていた私は恐ろしいほどにその記事をナナメ読みしていたというわけ。

ひどい話だ。自分が書き手だったらめちゃめちゃかなしいよ。

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だけど、文章なんてきっとそんなものなのかもしれない。

睡眠時間を削って、四苦八苦しながらできたぞー!!って満を持してリリースした記事だって、読み手の心境や時間帯で価値も評価も変わっちゃうんだよなぁ。

ウェブメディアだけじゃない。雑誌でも書籍でもおんなじだと思う。

職業柄、文章を読むことにそれほど抵抗のない自分だって、こんな調子で日常的にナナメ読みしてるんだもん。自分の書いた記事が多くの人に正しく伝わっているかなんて、怪しいことこの上ない。

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ナナメ読みじゃなく、ゆっくり噛みしめるように読みたいと思ってもらえるためには、多分道は2つしかない。

ひとつ、「そういう自分」になること。
この人の書いてる文章はいつも面白い。って思ってもらえたら、日中に見かけた記事でもひとまず保存しておいて、落ち着いた時間帯に読み返してもらえるはず。

ふたつ、そんなメディアで書かせてもらうこと。
ここの記事は面白い。と思ってもらえたら、書き手が無名でもじっくりと読む時間を割いてもらえるはず。それから、自分が運営者の一員となって、そんなメディアを育てるのもきっと素敵。

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でもさ、そもそも「日常的に記事を読む人」自体が、たくさんいるわけじゃない。

だからせめても、と思うのは。

記事を作る中で関わった人たち(取材対象者やクライアントやスタッフ陣)や、自分の身近な人たち(家族や恋人や同僚)がじっくり読んでくれて、何かしら心が動いてくれたらいいな。

近くにいる人を大事にできない人は世界中の誰にも大事にしてもらえないように、回りにいる人に「良いライターだな」と思ってもらえないと、大多数の人たちにも評価してもらえるわけない。

これは「内輪ネタ」ばんざいってことでは決してない。
大多数に発信する記事でも、ターゲットに最も似ている身近な知人に向けて書くといいなんて話は、メディアの世界ではよく聞くこと。

特定の誰かを思って書くことは、「誰に向けて書いてるのか」を明確化するためのひとつの手段でもあると思う。

まあでも、ナナメ読みして面白さが伝わる文章が書けたらいいんだろうなぁ。



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