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コロナが教えてくれた愛される喜び

世界が壊れていく。あり続けると思っていた企業が倒産し、働き続けると思った警察官や医療従事者が何百人も自宅待機となり、道端をにぎわせ続けると思っていた飲食店が次々と閉店し、ボロボロ、ボロボロとペンキが剥げていくように壊れていく。これまで見ていた世界のほうがまるでファンタジーのようだ。まるでカラフルな玉ねぎが一個あったとして、その皮が一皮、また一皮と剥がされていく。そんな世界だ。

その玉ねぎの中心には何が存在しているのか、そろそろ露呈してきている。
月並みだが、それは人間関係だと思う。その中でも本当に本当に重要で密接な人間関係。そんなものしか最終的には残らないんじゃないだろうか。
そういう人間関係をこれまで作ってこなかった人にとって、コロナはとても辛いと思う。コロナの大きな特徴のひとつが、人間関係の遮断だ。会えない、会わない、電話、オンライン。プライオリティは「会わない」というところに持っていかれる。そもそも友達いなくて全然OKというタフな人はいいけれど、親密な人間関係を作りたくてでも作れなかった、と寸でのところで這いつくばってきた人にはなかなか厳しい現実だ。そこも否応なくコロナは遮断する。まるでトカゲのしっぽ切りのように、関係性という人間社会の大団円の中からシャットアウトされてしまう。
となるともう待っているのは完成した孤独だろう。孤独に毒されると人は簡単に死んでしまう。

なぜ自分がここ数年の間に色んなシーンで人間関係を広げてきたのかわかってきた気がする。コロナを予測する能力なんて私にはないけれど、社会人サークル、文通、家族、教会、専門学校などといった新たなコミュニティをこの数年で開いていなければ私はもっともっと孤独だっただろう。家族がいても孤独だっただろう。太い関係性をここ数年で1人でも2人でも多く持っていたからこそ、私はその友達や先輩後輩たちと慰め合って生きているのかもしれない。そうでなかったら立ちいかなくなった世界にとっとと絶望するのは案外早かったかもしれない。手を取り合っていく仲間がいてくれて、笑顔でいられる空間があって、そういうなかで自分が生かされている。となるとコロナなんてもう関係のないことのように思える。どのように周りの環境が変化しようとも、そういった人たちと1日1時間でも笑って過ごせたらその日は楽しい。その連続で人生はどっかのタイミングでぷつっと終わる。そこにあるのは私の自己肯定であろうか。

私は人を愛するのは案外得意なのだが、愛されるということが苦手だと最近理解した。なんというか、拒絶反応が出てしまう(ということにすら気づいていないのだけど)。でもその人の前では笑っているから、愛されると思っている相手とも、外面上は仲はいいし親しい。だけど、最近、コロナ禍でどんどん人間関係が狭まり集中的になる中で、どうも私はその人たちの愛情をそのまま受け取るという行為に、ものすごく臆する感情があるということを認めざるを得なくなった。
自分が愛されるに値しないとかそういうことではなくて、なんというか、面映ゆいというか、ご遠慮します、というか、愛されないほうが都合がいいというほうを選択している。愛されると気づくことは喜びを享受することだ。だから、私はその喜びに歓喜し浮かれ舞い踊る、といったことがとても苦手なんだと思う。愛されたらうれしくなってしまう。だから気づかないままにしておいて、感情を節約するように生きていた。エネルギー源となるはずの喜びをそのように素直に受け取らず生きることは、命の出し惜しみとも言っていい。出し惜しみの安定感に浸って、愛し合うというカタルシスにいけない自分がいた。
そうだ、私が恐れていたのは、愛されるよりも『愛し合う』という行為だったのかもしれない。
愛し合ったら私は無難に生きる路線をもっともっと捨てるはずだ。その自分の自由さこそ私が最も恐れていたものだろう。

コロナは人生の短さと人との距離感を否が応でも教えてくれた。私はその中で自分に対する自分からの深い赦しを見た気がする。私が私でよいということを、他者の愛がとうとうコロナの中でこじあけて教えてくれた。愛される立場でいることに、ようやく目が開かれた。愛されるって気持ちいい。愛されるって幸せだ。

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