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カタリバ原稿「死にたかったわたしのこと」

みなさんお元気ですか、坂本です。

先日3月19日、NPO法人カタリバさんが
熊本県立甲佐高校でカタリ場のプログラムを
行ってくださりました。

「カタリ場」とは、高校生の意欲を引き出すことを目指したキャリア学習プログラムで、“ナナメの関係”にあたる学生や社会人との対話を通して、高校生の心に火を灯す活動です。詳しくは公式サイトをご覧ください。

その際に、他スタッフの大学生と(そこまで)年が離れていないこと、
わたしが敷地内にある公営塾で働いていること、
担当の方とほんのちょっと前から知り合いだったこと、
などなど、ご縁があって、サンプリングという
生徒の前に立って、自分の人生の話を15分語る役割をいただきました。

普段、聴く役割のことが多く、
自分のことについては、聴かれれば何でも話すくらいで
特に言いたいこともなく。
(正確に言えば、あえて言いたいことを作らないようにしているのですが)

かつ、noteの更新頻度を見てもらえると分かるように(笑)、
遅筆でもあるので、
①言いたいことを決めること
②聴かれてもいないのに自分のことを文章にすること
というハードルがありつつも、サポートあって文章ができました。

当日は、時間の関係上ほんのちょっと削っていますが、
記念に(なんの記念だろうか)(記念って便利な言葉だな)
原稿をここに残して置こうと思います。

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 皆さんこんにちは坂本紫織です。あゆみ学舎ではしおりんと呼ばれています。先週授業をさせてもらいました(※カタリバが行われた前週に生徒全員に授業を行いました)が、私のことを詳しく知らない人も多いと思うので少しだけまずは自己紹介をします。私は大分県で生まれ、小学校から高校の卒業までを福岡で過ごしました。大学は大阪に行ってその後2年間東京で働きました。そして今この熊本県甲佐町にやってきてあゆみ学舎のスタッフとして働いています。

 私は毎日眠る前に今日も良い一日だったなぁと思うことができています。苦しいことや辛いことももちろんあります。悔しいことももちろんあります。それでも、それを含めて幸せだなぁと日々思って過ごしています。では、皆さんと同じ高校生の時の私もそう思っていたか、と言うとまったくそんなことはありません。むしろ毎日、高校が爆発したら行かなくていいのになあとか、地球がなくなったらもう何も考えなくていいなあとかそんなふうに思っていました。毎日学校も家もしんどくて苦しいし、全部が無くなったらいいのになと思っていました。早く人生終わった方がすごい楽そうだなあとも思っていました。
 今日は、高校生の時から今の間までどんなことがあったのかということを今日は話せればいいなと思っています。

 高校生の頃の私は、自分に自信もないし価値もないと思っていたし本当に信頼できる人がいるとも思っていませんでした。それを形作ってきたのは、家族との関係が一番大きいと思っています。私の一番小さい頃の記憶は、家で両親の喧嘩を眺めながら「何で早く離婚しないのかな」と思っていた3歳の頃の記憶です。
 私の家族はそんなに仲が良くありません。特に私が小さい頃両親はよく口論になっていました。どんなことで喧嘩をしていたのか覚えてはいませんが、末っ子の私は歳の離れた姉に喧嘩が起こる度に、「ほら言って止めてきて」と言われて両親の喧嘩に割って入って「何しよーと?」などと声をかけていました。部屋で遊んでいる時間もいつ喧嘩が始まるんだろう、 いつ私は止めに行かなきゃいけないんだろうととてもそわそわしながら家にいたことを覚えています。そのうちなぜだか喧嘩が始まることも私のせいのような気がしてきていて、両親の顔を色をうかがってはもうすぐ口論になりそうな時にニコニコしながら話をそらしたり、ニコニコしながらどうでもいい話をしてみたりしていました。幼稚園や学校が楽しく息抜きの場所で、家ではとっても気を張って過ごしていました。でも、両親の顔色を伺うことが癖になっていたように、外でも友人や先生の顔色はよく見ていて、怒られたくないとか嫌われたくないとか、そういうことをずっと考えながら過ごしていたように思います。

 そのうち自分の思っていることも言えなくなって、でもみんなにいい子だねと言われて、誰も私の事分かってくれないんだろうなとか、何のために生まれてきたんだろうっていう悲しい気持ちがたくさん沸くようになっていました。
 そうこうするうちに中学生になり、私は吹奏楽部に入りました。中学生になってからも学校が息抜きで、家が苦しいということは変わりませんでしたが、部活という新しく熱中できるものを見つけてなんとか楽しく過ごしてはいたと思います。

 ただ中学3年生のある日、私は職員室の前で目の前が真っ白になって倒れてしまいました。目が覚めると病院の上の真っ白い壁が見えて、右手には点滴の針が刺さっていました。状態が落ち着いてから病院の先生に言われました「胃に穴が開く寸前だったよ。ストレス性なんだけど何か思い当たることはあるの?困ったことがあった時は周りの人に相談していいんだよ。」
 確かに部長として顧問の先生と部員たちの意見の食い違いを取り持つという苦しい日々を過ごしていました。唯一相談できていた友達も転校してしまって、それからは一人で抱え込むようになっていました。迷惑をかけちゃいけないとか、部長である私がしっかりしなければ部活がだめになるかもしれない。そんなふうに思って誰にも相談できませんでした。

 そして、その病院の先生に周りの人に相談していいんだよと言われた時に初めて「そっか普通の人たちは、友人や家族に困ったことがあった時相談できるから、こんなふうに体がボロボロになったりしないんだ」と気づきました。そして私には、相談できる人が本当にいないことに気づいて、とても悲しくなりました。いつか思ったことと同じ「誰も私のことをわかってくれない」「助けてくれない」とか「何のために生まれてきたんだろう」という思いがまたそのあたりから強くなってきました。

 なんとか部活も続けて無事中学校を卒業し、高校に入学しました。また部活に入るとまた倒れてしまうんじゃないかと怖くて高校では部活に入りませんでした。ただそうすると家にいる時間が長くなってしまって、よりしんどい時間が少しずつ少しずつ増えていきました。学校は楽しいけれど、家がしんどい。家にいる時間が増えるとそのしんどい時間も増えます。でもどうにか高校の友人たちと日々くだらない話をして心のバランスを取るようにしてはいました。
 高校3年生になった時クラス替えで私は特進クラスに入りました。これまでは休み時間中にくだらない話をしたり、放課後遊びに行ったりしていましたが、特進クラスの人たちは、一人いじめの対象となっていた女の子や説明が分かりにくい先生の悪口、分からないことを質問し合うという関係で、今までのような居心地のいい学校ではなくなりました。この人たちは勉強はできても、悪口ばっかりで、こんな人間にはなりたくないなと思っていて、でもそんなことを思っている自分も嫌になっているうちに学校もだんだん居心地が悪くなって、1日の中に私がくつろげる時間というのはほとんどなくなっていきました。

 そんなある日、学校に通う途中自転車を漕いでいると急に目の前が真っ暗になりました。息が上がって自転車を漕げなくなったので、自転車を降りてしゃがみこんでいると、たまたま通りかかった別のクラスの友人が私を学校の保健室まで連れて行ってくれました。その日は体調が良い時間だけクラスに行って授業を受けてどうしようもない時は保健室で過ごす1日を過ごし、次の日私は心療内科という所に行きました。心の病気を扱う病院です。

 そこでお医者さんに受けた診断名はうつ病・パニック障害・自立神経失調症という病気でした。うつ病とは、病院の先生の説明を借りて言うならばいろんなストレスがかかった状態が続くと、本来出る身体の状態を整える物質が出なくなって、眠れなくなったり普段できるポジティブな思考、もしくはちゃんと目の前に起こっていることをただ捉える思考ということができなくなる病気です。当時の私で説明すると、向こうで友人が勉強について話していても私のことを悪く言ってるんじゃないだろうかと思っていたり、何も起きてない時にも死にたいなとか悲しいなとか私なんてこの世に必要ないんじゃないかというふうに思っていました。それ以外のことが考えられない、何も思いつかない状態でした。それから学校に行ったり行かなかったりという日々が始まりました。

 そしてある日、東日本大震災が起こりました。福岡県で過ごしている私にとっては正直関係のないことのように見えていたし、不謹慎だとは十分わかっていますが、当時の私は一緒に津波に飲み込まれたかったなと思ったこともありました。けれども、新聞やテレビの映像をたくさん見ているうちに強く感じたことが「人は簡単に死ぬことができる」ということでした。うつ病の間で一番状態が悪かった時にはカッターを握って死のうとしたこともありました。私はそのとき何もできなかったので今こうしてここで生きていますが、その時もこれを深く刺したら意外と簡単に死ぬんだっていうことに少しだけ驚きました。

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 それと同時にこんなに簡単に死ぬことができるなら、今日じゃなくて明日死んでもいいんだっていうことを思いました。これまでずっと気づけば苦しくて、誰からも愛されてないんじゃないかなっていうふうに思っていて、誰も私のことをわかっていないんじゃないかって思っていて、自分には価値がないんじゃないかと思っていて、そんな風にずっと思っていたけど、じゃあどんな風にこれから生きていきたいのか一番理想の状態をとことん追い求めてみて、それでも叶わなかった時に死んだらいいんじゃないかなと思いました。

 そして私は、私にとって何が幸せなんだろうとか、どんな大人になりたいのかとかどんな友人が欲しいのか、家族に対してどう思いたいのかとか、どんな仕事をしたいか、どんな風に生きていきたいのかということをひたすらノートに書いていきました。
 そのときのわたしの答えの一部を今日ここでシェアしたいと思います。ひとつめ、心の底から誰かを信頼し、そんな人たちとつながっていたい。ふたつめ、ご飯を日々美味しいと感じたい。みっつめ、誰かの役に立ちたいし、それは相手が本当に幸せだなと思えるような役の立ち方がしたい。よっつめ、自分のことをほんのちょっとだけでいいから好きになりたい。いつつめ、わたしのことをわかってくれるひとと出会いたい。

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 他にもいろんなことを書きましたが、それに沿って一度生きてみようというふうに決めました。そして人の役に立てる仕事がしたい、特に困っている人の役に立ちたいという思いを元に大学を調べて、準備を進めました。うつ病というのもあってあまり勉強は集中できませんでしたが、それでもこんな大人になりたいという目標や、大学を機に家を出て一人暮らしをするという目標が私を支えてくれたのかなと思っています。

 無事大学に入ってからはそこから急に人生が好転したように思います。それは本当に人のおかげで人との出会いが大きかったと思っています。
家族のことが嫌いだとか 本当に信頼できる人が欲しいとか 自分のことが嫌いだとか そういうことをひっくるめて話を聞いてくれて、それでもいいんだよと受け入れてくれる人たちにたくさん会いました。今でもその人たちとは仲が良く、旅行に行ったり、遊びに行ったり、この人たちが頑張っているから私もここで頑張ろうと思うことができている仲間です。また、やりたいことに背中を押してくれる人達にもたくさん出会いました。失敗してもチャレンジしたことが素晴らしいと言ってくれる人にたくさん会いました。そう言ってくれる人達のおかげで、私はヒッチハイクをしてみたり、起業の手伝いをしてみたり、よくわからないけど面白そうなことはたくさんできたなぁと思っています。東京で働いていた時も仕事も会社の人たちをみんな好きで幸せでした。今でも仲はいいし、私が熊本でこの仕事をしたいと言った時に行ってきなよと背中を強く押してくれました。

 わたしが日々幸せだと思えるきっかけは、人との出会いで偶然だったとは思います。だから、今度はわたしがそんなひとになりたいと思っていまここにいます。
 ただ、人との出会いで私の人生はよくなっていたと思いますが、どんな風に生きていきたいのかということや、嫌われたくない、ひとりになりたくない、このままではいやだという自分の気持ちと向き合い、自分なりの答えを出し、恥ずかしがらずに言えるようになったこともそう言った素敵な人たちとの出会いにつながったと思っています。
 私はいま自分のことがちょっとだけ好きです。いい人生を送っているなと自分で自分のことを認めることができていると思います。
 これは、きっといままで話したことを含めたいろんな出来事を通して、「お、わたし出来るやん」と上手く行ったことや自分の成長を感じられたり、「あれ、結構みんないいひとやなあ」と周りのひとを好きになったり感謝したりできるようになった、ということの積み重ねのおかげだと思います。

 もちろん今日時間の都合で話さなかった辛いこともたくさんありましたが、それも含めて、生まれ変わったときにまた坂本として生まれますけどいいですか?と言われたら、「まあ、ありやなあ」と思うくらいには、よかったなと思っています。
 でも、高校生のときと同じわたしだったら、絶対いやです。

 他のひとの評価を気にせず、わたしが何を大切にしたいかによって選択すること。周りのひとを信頼してみること。自分の出来たことを見つけて褒めてあげること。
 その先に、ちょっといいなと思える人生がある気がしています。

 それをする上で、たくさんハードルや難しいことがあるかもしれません。そのときは、わたしでよければ一緒に考えたいです。やりたいことが分からない、自分を好きになりたい、なんでもいいです。受け止めます。今日はみんな1人ひとりが主役です。ぜひ一緒に、楽しくて幸せな未来に向けて、作戦会議をしましょう!

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以上でした。長いのに読んでくださり感謝。

わたしが楽しく書いているだけ、と思っちゃうので、サポートしてくださって嬉しいです!!!うわーい!