自分を生きるということ

 どうして生きているんだろう。どうして今こんなことをしているんだろう。気づけば39歳の自分は、結婚もしていなくて、一人で精神科(女性カウンセリングに特化した)を開業したばかり。 

 小さな頃、40歳の人間とは本当に大人なんだと思っていた。でも私は今、全然大人じゃない。私の小さな頃の、40歳くらいの父と母を想像してみる。父も母も40歳の頃すでに偉大で何でもできてしっかりした大人だと思っていた。そうじゃなかったのかもしれない。必死で生きていたんだ。子供のままの自分なのに、大人としてふるまうことを社会から期待され、大人であろうとして、きちんと子育てをしようとしていたんだ。お金を稼いでくれて、食事を作ってくれて。世の中が決して安心できない不確かなものだと思ったから、過保護、過干渉になって半ば強制的になってでも私をなんとしてでも医師にして、こんな不確かな世の中でも生き残れるようにと願っていたんだ。不器用だったんだ。皆が、その時精一杯の判断で、1つ1つを選んで行動し、生きていた。いがみ合ったり、重たいほどの愛情を受け取って嬉しかったりつらくなったり、この家には何も問題なんてないかのようにふるまったり。それ以外の選択肢なんてきっとなかった。仕方なかったし、がんばったんだ、家族みんな。それが本当の意味で分かるまで、とても長い年月を費やした。本などを読んで知識として頭で分かるのと、本当に分かるのは違う。

 開業してみて分かったことがある。何かを背負うということは、こういうことなんだと。一人でお金を稼がなくてはいけない、お金を生み出さなくては生活ができない、という焦り、不安。ただ毎日真面目に出勤するだけでは何にもならないこと。当院の特徴、自分の強みを世の中に広くアピールしなければならない。心を最大限に開いていかなければならない。開業支援会社、HP制作の人、広告業者などの人々に対して、自分の活動を理解してもらわなくてはならない。全て一人で行うこと、セルフプロデュースというのは、自由で楽しいと同時に、険しい挑戦。勤務医の時も、患者さんに対して全責任を負っている、という気持ちはあったけれど、今はその重みが比べ物にならないくらいに違う。この緊張感、生きているという実感をここまで味わったことがなかった。漫然と生きているより数段、いい。健全な人々は、昔からこうやってのびのびと自分を生きていたのかもしれない。自分がなかった私は、今やっと自分軸がくっきりしてきた。社会に一人ぽつんと放り出された感じ。解放感と不安。 

 男性は、世の中からの漠然としたこういう期待を背負って生きているのかなあ。女性は、従属させられつらい思いしていると同時に、そういうものからは守られて生きてきたのかなあ。私はフェミニストとか、そういうわけではない。色々な立場の人になったつもりで、物事を多面的に深く考えていきたいだけ。 

 自由と責任はいつもセットなんだなあ。自分の人生を自分が決めていくことは、楽しいと同時に大変なことなんだ。今まで重要なことを自分で決めてこなかったから、今の状況は、本当にいい局面なんだ、私にとっての大事な課題なんだろう。やっぱり神様というか、抗えない大きな流れ・大きな力はあって、そういうもののおかげで、私は今こういう活動しているんだろうな。自分の意思1つだけでは絶対にこんな今を選んでいなかったと思うから。 

 自分らしくいるために、味方になってくれる人を少しずつ慎重に増やしてく。遠ざけるべき人は遠ざける。誰かに嫌われてもいい。全員に肯定してもらえなくていい。等身大の自分でいられる場所、私の言葉が通じる人を探してく。 

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