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つぶ貝とキメラ

 その日は暑さでぐったりしてしまって、家に着いたらもう夕ご飯なんて作りたくない気分だった。夫も飲みに行きたい気分だったらしく、二人で近所の中華料理屋へ。安くて美味しくて、安定のお店。ところが、この日はまさかの定休日。肩を落として私たちは引き返した。

「おなか空いたー。◯◯は空いてないかな?」
「ちょっと遠いよ〜。通り沿いに何かあるんじゃない?」
「あてもなく・・・ま、たまにはいいか」
「そうだよ、こんなときに、ぽんっといい店との出会いがあったりして」

そんな会話をしながら、ずんずん歩く。
夜の住宅街。すれ違う人も車もない。古びたアパートには明かりが灯らず、その窓の向こうに何か見えたらどうしよう、なんて思って目をそらす。

通りに出た。
「スーパーの向かいにお店なかった?」
「ああ、コタロウとかコジロウとか、そんな名前のね」
「でもやってない気がするな・・」
「ネガティブだなぁ、もっと前向きにいこうよ」
「ポジティブになりたーい!」
「今日から、ポジポジって呼んであげるよ。ポジティブになれるように」

ポジポジと命名されたわたしの予言通り、コタロウ(仮)もまた、定休日だったのか明かりがなかった。
再び肩を落とすわたしたち。
ふと振り返ると、少し先にお酒の名前を次々に映し出す電光掲示板を取り付けた店が見えた。一見、民家のような佇まい。
グーグルマップで検索すると、すぐに店の名前を知ることができた。
ちょこっとお高めだけど、粋な魚料理を味わえる居酒屋のようだ。

少し敷居が高く見えたけど、空腹と「これ以上歩きたくない」気持ちに背中を押されて、わたしたちは暖簾をくぐった。

かくして、先の夫の予言も当たることになる。
このお店がとってもよかったのだ。

お通しは、ほろほろに煮込まれた手羽先と筍の煮物。
よく冷えたビールを飲みつつ、一枚がみにまとめられた本日のおすすめから選ぶ。

おまかせ刺身盛り、カナガシラの磯辺揚げ、稚鮎の天ぷら、塩きゅうり。

大将がガラスケースから稚鮎を取り出すのが見える。目の前のカウンター席に座るお客さんがそれを見て
「鮎はいいよねぇ、稚鮎とは言え鮎だもんねぇ」
などと嬉しそうに話している。

まもなく揚げたての天ぷらがやってきた。
うまい。
揚げたてアツアツの天ぷらって、初めて食べたかもしれない。
すこしほろ苦くて、やわらかい鮎の身が、薄めの衣を品良くまとっている。
思わずふたりでニコニコしてしまう美味しさだった。

カナガシラは頭がぼこっとしていてちょっとブサイクだけど、きれいな緋色をした魚だった。カウンターのお客さんたちに見せているのを遠目に見ていたら、大将がこちらを見て
「これを天ぷらにしますからね。お待ちくださいね」
とさりげなく言ってくれて、わたしはどぎまぎしてしまった。

夫は2杯目のビールを飲みながら、わたしは1杯目のビールをちまちま飲みながら待つ。

ほどなくして、カナガシラは先ほどとはうって変わって、繊細な見た目の磯辺揚げになってやってきた。ポン酢にゆっくり浸して食べる。
ああ、幸せ。
身はふっくらとして柔らかく、大胆に巻きつけられた海苔の風味とよく合う。
「おいしいねぇ、これはおいしいよ」
わたしと夫は感心して、何度も同じ感想を言い合った。

磯辺揚げを平らげて、わたしが1杯目ビールを飲み干し、夫は一服しに外へ出たころ、お刺身の盛り合わせがやってきた。

「グラスワインを1杯いただけますか?白で」
「ワインっぽい日本酒があるけどどうですか。お客さんが日本酒飲めればですけど」
「へぇ、そんなのがあるんですね!じゃあそれをいただきます」

ワインっぽい日本酒は一合徳利に注がれ、よく冷えたワイングラス2つとともにやってきた。大将がボトルも持ってきてくれる。
ボルドーのラベルに、ゴールドでワインの名称と不思議な生き物が描かれている。ボトルまで「まるでワイン」みたいなこだわり。ちなみに、名前は「キメラ」。

わくわくしながらグラスに注いで、ちょこっと飲んでみる。
日本酒らしい風味と、白ワインっぽいすっきりした甘さがあって、するりと喉を通ってしまう。
そして一緒に食べる刺身の美味しいこと。
分厚く切られた身はぷりぷりして臭みがなく、脂の甘さが舌に広がる。特につぶ貝がとても美味しくて、もう一皿頼んでしまった。そして「ワインっぽい日本酒」ももう1合。

酔いが回ってきて、わたしたちは上機嫌に話をした。

「ねぇ、わたしがもし浮気をしたらどうする」
「うーん、とりあえず話し合うかな。俺の性格上、それですぐ別れるとかはないと思う」
「わたしは無理だなぁ。意外と潔癖なのよ、わたし」
「まぁ俺、モテないから大丈夫だよ」
「モテるとかは関係ないよ、君を好きになる人がいるかどうかの話。いないとは言えないでしょう?」
「そんなもんかねぇ」

「いい店と出会っちゃったね〜」
「最近、◯◯が店を畳んじゃってショックだったんだよね」
「そうだね、でもまた出会いがあるもんだね」
「このお店、大将さんまだ若そうだし、ずっと通えそう!」
「え、そんなことまで考えてたの?」
「そりゃそうだよ!おいしいものずっと食べたいもん」
「長いお付き合いかぁ」

おかわりのつぶ貝と日本酒をきっちり平らげて、わたしたちはお勘定をして帰った。夫はうれしそうに「また来ます、ごちそうさまでした」と大将に挨拶していた。

この日のつぶ貝と「キメラ」の味は、ずっと忘れない気がなんとなくしている。


2020.7.3  shiori🍶

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