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映像業界で走り切った10年。そして迎えた11年目と人生最大の挑戦。

わたしは、とにかく「飽き性」だ。

物事が続かないことを「3日坊主」なんて言ったりするけれど、
わたしは日記だって3日も続いたことがないし
ダイエットも成功した試しがない。

でも、この10年、唯一続いていることがある。

それが、24歳の時に未経験で飛び込んだ、この「映像」というお仕事だ。


人生白紙の20代前半


映像の話に入る前に、なぜ新卒ではなく「24歳」という中途半端な年齢だったのか。わたしの20代前半の話を少ししたい。

わたしは大学でアメリカ留学し 舞台芸術の勉強をするも、親との約束で卒業後は日本で就活をすることになった。

しかし、この「舞台」という業界、日本とアメリカではあまりにもシステムが違いすぎる故、当時インターン生として師事していた先生に

「デザイナーになりたければ、3年は無償でコミットしなさい」

そう言い放たれ、絶望。
(いま思い返すと、ブラック中のブラック発言すぎて笑けてくる)

大学留学で既に莫大なお金がかかっているので、自分の中でそれはあり得ない選択。

その時点で、自分の中で人生のプランが一度白紙になった。


クリエイティブ職を諦め、英会話講師に


それでも、生きていくにはお金が必要だ。

その時 唯一持ち合わせていたスキルは「英語」。
安直にも程があるが、そこで大手英会話スクールに契約社員として就職し、下は1歳から上は70代まで、約1年半ほど都内で英語を教えていた。

英会話スクールの講師時代

英会話の先生としての自分も嫌いではなかったが、やはりクリエイティブの世界には憧れと興味があった。

そんな時期に、毎週欠かさず楽しみに見ていた番組がある。芸能人・文化人が海外にある第二の故郷を訪ねる番組『アナザースカイ』だ。

この番組だったら、
英語も使える!海外にも行ける!クリエイティブな仕事ができる!

突然の閃きに、深夜、一人暮らしの小さなアパートで静かに興奮した。

そして、気がついたら制作会社に履歴書を送り、
気がついたら面接を受け、
気がついたら採用されていた。

図らずとも、一夜の興奮に身を任せ、テレビ業界に足を踏み入れることになった。


天職かもしれない


突然ですが、みなさんはテレビ番組のADってどんなイメージを持っていますか?
※AD = アシスタント・ディレクター

忙しそう
寝てなさそう
厳しそう

そんな想像をしてくれた方。
全部大正解。

今は労働環境がかなり改善しているみたいだけど、

当時はとにかく家に帰れない。
(2-3日の話ではなく、1週間とか帰れない)

基本コンビニ飯。
(通いすぎて先輩同僚が買うもの全て予測できるレベル)

すっぴんボサボサあたりまえ。
(収録とロケの日だけちゃんと身なり整える)

そんな生活だった。

これを書いてるわたし自身も「ウワァ…」ってなるほどの生活っぷりだったけど、

なぜか毎日が楽しくて仕方がなかった。

こんな荒んだ日常なのに、ガハガハ笑って仕事に没頭していた。

それはおそらく、

  • ユーモア溢れる同僚たちに恵まれたこと

  • ディレクターたちは鬼のように怖かったけど圧倒的に素晴らしい作品を生み出す人たちだったこと

  • 毎日が非日常の連続だったこと

この3点が大きかったと思う。

毎回、被写体もロケ地もストーリーも違う。だから、1本1本の番組を完成させるために、毎日脳みそを超高速でフル稼働させて準備し、成立させる。

これが、飽き性のわたしには良かった。

毎日違うタスクがてんこ盛りだから、飽きることがない。むしろ、新しい知識が雪崩のように押し寄せてくる。

たぶん天職かもしれない。

映像業界1年目、そんな確信に近い何かを感じて、走り出した。


10年の軌跡


そんな始まりから、映像業界に入って10年。

わたしは今も、走っている。

右も左も 業界のお作法もわからない、でも元気だけはあるアシスタント(24歳)から、映像について考えない日はない!と言っても過言ではないくらいの映像ゴリマッチョ(34歳)に無事進化を遂げた。

ここで、この10年をダイジェスト的に振り返ってみよう。

| 1年目(2013)

  • 制作会社に入社して9か月後、念願の『アナザースカイ』に配属。

  • はじめての担当回は俳優の夏帆さん。12月、真冬のクロアチアへ。

アナザースカイのスタジオにて

| 2年目(2014)

  • 月1回、世界中を飛び回る生活。アルゼンチンの農場からジャカルタのJKT48の劇場まで。文字通り世界中、大きな機材バッグを担いで駆け回った。

  • アナザースカイに着任して1年経った頃、尊敬するディレクター(当時わたしが所属していた会社とは別の会社を経営)から、チームでやらないかと誘いを受ける。

  • 更なる成長を求め、大好きな番組を離れることを決意。転職。

  • 新しい会社でデザインとモーショングラフィックスも扱うようになる。

| 3年目(2015)

  • ドキュメンタリー・バラエティ番組に多く携わる。

  • 特に楽しかったのは、ポール・スミスさんの特別番組で、ロンドン・パリ・東京の3都市で密着取材。

  • ここまで「アシスタント」「制作進行」という肩書きでやっていたが、自分の作品をつくってみたいと思い、休日に自主制作を始める。

| 4年目(2016)

  • このくらいからプライベートの時間も人並みに取れるようになり、週末の時間を使って、「自由大学」という大人の学舎にて『映像学』なるクラスを開催。一般の方に動画制作を教える。

  • 大学時代から付き合っていたアメリカ人の夫との結婚が決まり、渡米。

  • 寿退社。そしてフリーランスに転身。

  • 渡米直前、ライフワークとして、ものづくりに情熱を傾ける人々を描いた短編ドキュメンタリー『手と手』を制作し、上映会を行う。「一生これを続けられたらいいのに」と思うほど素晴らしい体験となる。

| 5年目(2017)

  • 春。日本での結婚式、『手と手』の続編制作、ギャラリーでの展示を平行で行い、ハゲそうになる。(ハゲはしなかったが、極度の緊張状態が続いたせいで鼻血が出まくる)

  • そんな苦労が身を結び(?)、この年の夏、『手と手』をみてくれたプロデューサーからテレビCMの監督のオファーがある。

  • 二つ返事で快諾。自分のクリエイター人生の中で大きなマイルストーンに。

| 6年目(2018)

  • 新婚生活を送っていたペンシルバニア州から、ニューヨークに移住。念願のグリーンカード(と、それに付随して労働権)を得る。

  • ニューヨークにある日系放送局に売り込み、報道取材のリサーチ・アテンド・カメラマンとしてお仕事をするようになる。

  • ディレクターとして活動したいが、まだ難しい。

| 7年目(2019)

  • この頃から映像コンペに挑戦するようになる。

  • 引き続きライスワークとしての報道のお仕事をしつつ、ライフワークとして『手と手』の続編をアメリカで制作するも、なぜか「これじゃない」感がある。好きな映像をつくって それで食べていきたい。が、そこへのルートが見出せずにいる。

  • はじめてアシスタントと学生インターンを雇用する。

| 8年目(2020)

  • ここで世界がコロナ禍に突入。

  • 撮影の仕事がなくなるも、リモート編集の需要が一気に高まる。

  • 演出家・宮本亞門さんが指揮を取った『上を向いて歩こう』のミュージックビデオを編集。リモート作品の先駆けとして注目を集め、数多くのメディアで取り上げられる。

  • 生き方・働き方がリセットされたことで、これまでとは違う映像との関わり方を本気で考える。その中で、「この人だ!!!」と思うプロデューサーのメンターに出逢う。北極星を見失いつつある時期だったので、一筋の光を見つけた気持ち。

| 9年目(2021)

  • 1月、「動画編集って女性に向いているキャリアだと思うんだよね」というツイートがプチバズる。その流れで、想いに賛同してくださった女性たちとオンラインコミュニティを試験的に開設。

  • そこからフレームワークをきちんと整え、5月、動画クリエイターを目指す女性限定のオンラインスクール『mimosa(ミモザ)』を立ち上げる。満席でスタート。

  • 夏、俳優の友人と、アジアンヘイト(アジア人差別、またそれに基づいた犯罪)へのアンサーソングとして『I Choose Joy』というミュージックビデオをニューヨークで制作。約20名のブロードウェイで活躍するミュージカル俳優を起用、タイムズ・スクエアを貸し切って撮影を行う。

  • この作品がNew York International Film Awardsで受賞、その他6つの映画祭でもノミネートされる。

  • 9月、スクールを一緒に立ち上げたメンバーと2人で『mimosa合同会社』を設立。これまでフリーランスとして受けてきた制作事業をチームで行うようになる。

  • 11月、SONYストア銀座でオンラインイベントに登壇させていただく。え??何事????

  • 12月、Adobe Creative Residencyのクリエイターに選出され、日本本社で撮影・内部用映像を制作する。何事????(2回目)

『I Choose Joy』のキャストと制作陣

| 10年目(2022)

  • 2月、三井不動産(日比谷ミッドタウン)主催・日比谷音楽フェスティバルのオンラインコンテンツである15本のミュージックビデオの制作を手がける。このプロダクションではオンラインスクール mimosa(ミモザ)の卒業生を現場アシスタントして起用。女性の業界進出と雇用に力を入れる。

  • 2月、カメラの祭典『CP+』のソニーブースにてオンラインワークショップに登壇。

  • 9月、尊敬するライターの知人に誘っていただき、人生初のインドへ。インドの教育に革命を起こしたエンジニア、ソナム・ワンチュクさんを取材。

  • 地方創生、そして地方でのクリエイター育成に興味を持ち、種まきを始める。

インドでの一枚

思ったより長いダイジェストになったけど…
みんなまだいる?
(ここまで来たら最後までお付き合いくださいませ!)


新しい10年の幕開け。ここからは世界戦。


こうして10年を振り返ってみると、なかなか道なき道を歩いてきた感がある。

スタンスとして、今も昔も変わらないなと思うのは
『やる or やる』
の精神で前だけを見て歩いてきたこと。

全ての分かれ道で『やる』を選ぶと、自分も全く予想していなかったボーナスステージが待っていたりする。

そのボーナスステージは、自分の力で出現したというより、必ず魔法使いみたいな人の存在がある。

「あ、こいつなんか頑張ってるみたいだから、ちょっとチャンスあげようかな」

そんな感じで、ヒョイっと新しいステージに引き上げてくれる。
わたしは、何人もの魔法使いたちの力を借りて、この10年を歩んできた。
本当に、感謝しかない。

そんなわたしの、映像人生11年目。
今年は、人生で一番の挑戦を控えている。

それは、アメリカでの挑戦。

単に(住所的な意味合いで)アメリカで映像制作をする、という話ではなく、映像業界における、世界の第一線に携わってみたい。

つまり、舞台はハリウッド。

実は現在、(まだ詳細は言えないけれど)2つのプロダクションに関わるチャンスをいただいており、夢の舞台が手に届くところまで来ている。

楽しみ。
怖い。
ワクワクする。
不安。

本音を言うと、全部の感情がせめぎ合っている。

でも、わたしのポリシーは、何が起きても『やる or やる』。

この10年という努力の時間をお守りに、
11年目、新しい人生のチャプターに突入する。

全力で向き合い、成長し、新しい世界を知りたい。
そして今度は、わたしが誰かにとっての魔法使いになれるように。

そんな気持ちで、新しい10年を走り出す。


映像作家 齋藤 汐里

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