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【SS】やりたいことノート(1829文字)

「ピキッ」という音が聞こえた気がした。

目の前にいる部長の顔が真っ赤に染まっている。
怒りのせいか、今にも血管が浮き出しそうだ。
「お前、明日も席があると思うなよ」
こんな漫画みたいな台詞を吐かれる日がこようとは。
やってしまった。言ってしまった。
せっかく今まで我慢してきたのに。

ここ数年の不景気で社員25名の小企業であるわが社は火の車らしく、ワンマン社長はリストラで経営改善を図ろうとしていると聞いた。
「俺の席、本当になくなるかもなあ」
夜道をとぼとぼと歩く。独身生活が長く寂しいと思っていたが、今となっては養う家族がいなくてよかった。

今後のことを考えてもう少し家賃の安い部屋に引っ越すべきかもしれない。
そう思い、帰宅後おもむろに部屋の掃除を始めた。

数か月前実家から送られてきて、開けもせず部屋の隅に置いていた段ボールが目に入る。
「生ものとか入ってたらやっべーな……」
おそるおそる開けてみる。

段ボールいっぱいに詰められた食品。
カップラーメン、レトルトご飯、フリーズドライの味噌汁……
息子がすぐに段ボールを開けないことも、お見通しのようだ。
(そういえばお礼のLINEも入れてねーや)

食品をすべて取り出すと、底に一冊のノートが入っていた。
汚い字で「やりたいことのおと」と書いてある。

やりたいことノート。
遠い昔の自分が書き記したもの。
あまりの懐かしさに笑みがこぼれた。

『拾っても絶対読んじゃだめ!』と書かれた注意書きを無視して表紙を捲る。本人だから別にいいだろう?


『すしとやきにくをたべまくる』

――欲望の塊だな。

『カブトムシをそだてる』

――そういえば昆虫が大好きだったっけ。

『あやちゃんとデートする』 

――このマセガキめ。


掃除を進めねばと思いつつもページをめくる手が止まらない。やりたいことに対してひたすらに真っ直ぐな過去の自分が微笑ましく、少しだけ妬ましい。

読み進めていると、どこからか馴染みのない音楽が聞こえてきた。
それはThe Beatlesのlet it Beのようにすべて包み込む旋律にも、Bon JoviのIt's My Lifeのように激しく自分を鼓舞する旋律にも思われる。

こんなにも穏やかな気持ちで周りの音に耳を傾けられたのは、いつぶりだろう。

今朝の自分の姿を思い浮かべる。
脳内に反響する部長の怒鳴り声をかき消すために、会社に着くその瞬間までイヤホンが手放せない自分。耳を流れる曲が止まれば、自分の足も止まってしまってもう動けない。いつからかそんな強迫観念に囚われるようになった。それを異常だとも思わなくなっていた。

明日、部長に退職の意を伝えよう。
「このクソ忙しい時期に退職? 常識ってもんはねえのか?」
「世の中そんなに甘くねえぞ」
「お前みたいなやつはどこへ行っても駄目だ」
こういった台詞を吐かれることが容易に想像がつく。

胸がキリキリと痛み始めるが、先ほどの旋律を聴いていると気持ちが落ち着いてきた。「ふう」と深呼吸をひとつ。

嫌味を言われたからって、それがなんだ。
自分が本当にやりたいことの、音。
それを聴いて回る旅に出てもいいじゃないか。

「やりたいことのおと」を開いて、一番下に「好きな音を集める」と書き加える。我ながら、語彙の貧しさに可笑しくなる。

スマホを手に取り、数か月ぶりに実家の電話番号を押した。
「……もしもし」
「もしもし、隆志? 久しぶりねえ」
「母さん、俺会社辞めようと思う」
「……あんたって子は、いっつも突然なんだから。部屋は空いてるから一旦帰ってきなさいよ。その代わりすぐにでも畑に出てもらうからね。今は収穫の時期で忙しいんだよ」

呆れながらも声に微かな嬉しさを滲ませる母の声が耳元から聞こえる。
ああ――俺はずっとこの音が聞きたかったんだな。

「好きな音を集める」の横に正の字の一画目を書く。あとで父さんにも電話しよう。

窓の外からはつんざくような蝉の鳴き声が聞こえる。いつもは煩わしいだけのその音が、7日間を懸命に生きる彼らの魂の叫びに思われて胸が熱くなった。俺も、負けていられない。

「好きな音を集める」の横に正の字の二画目を書く。自分の心持ちひとつで、世界の聴こえ方はこんなにも変わるのか。

しばらくは使わないであろうイヤホンを段ボールの底に詰めながら、無意識に鼻歌を口ずさんでいたことに気がつく。
いい歳して恥ずかしい。だが、今日くらいいいだろう。

明日はどんな音が聴けるだろう。

そう考えると、少年時代のあの日のように胸が高鳴って仕方がないのだから。

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