見出し画像

How to know you truly like it

それ、ホントに好きですか?

 私はTwitterのプロフィールで「下手の横好き数学マン」と書いているのですが、よく考えると本当に好きなのか非常に謎深いのです。なんでそんなことを考え始めたのか。それはよくある一般論である「仕事を遊びの延長にする」あるいは「仕事に遊びを取り込む」という考えがよく叫ばれるようになった昨今、その論の内において「好き(故に継続可能)なことを仕事にしよう」という一節が展開されることがよくあるからです。
 この論の逆「継続可能なことは好きなものだ」は明らかに一般に不成立です。昔は確かに楽しく数学をしていたのですが、現在も続けているそれが好きなのかと聞かれると全く即答できません。私生活の時間の半分を圧迫している事実があり、作曲もしたければピアノもしたい、特にDTM・基礎練・バッハのインベンションの練習は強烈な時間消費を抱えるというのですから明らかに負担になっています。
 一方で、数学をやめることも無理な話で、私が追い求めているものの中でも書いたように、根本的に自分の世界観や価値観を形成しているため切り離しが困難で、これを切り離せば数学をおいそれと人生のサンクコストにしてしまうことになるわけです。自分の価値観の一部に関する行為を放棄すれば、同じく自分の価値観で構成される作曲においても影響が及ぶわけなので、これもまた深刻な問題です。

 加えて、「好き(故に継続可能)なことを仕事にしよう」という論理で仕事にする場合、その継続可能性を見誤るとその分だけコストがかさみます。特に精神的に不安定であったり、思考が不十分であるほど、たとえそれが好きでなくても好きだと思い込みたくなり、その感情を自身の原体験だと錯覚するリスクが上昇します。こうなると、錯覚する→行動する→継続できない→失敗する→コストが発生する→精神的な負担が増える→錯覚する→…という無限ループにまっしぐらです。もちろん途中で偶然錯覚を回避できる可能性は十分にあり得ますが。こういうわけで、実際に好きかどうかを見極めることは重大な役割を果たします。

好きか執着か

 さて、先ほどサンクコストという言葉が出てきました。サンクコストとは、事業を起こしたものの、それがスベって投資を回収できなかった時のマイナス分のことですね。ウン十年続けたことを捨てる勇気はなかなか湧かないですねwww
 さて、サンクコスト的に捉えることができるから単にサンクコストと言ったわけではありません。サンクコストの厄介なところはたとえ理論上捨てるべき事業にも感情的に執着しがちなところです。また経済行動に関する心理学の実験では、同じモノでも自分の所有するモノの価値の方が高く見えるバイアスが存在するという結果があります。こうしたバイアスを排除した上で、自分の好きだったものに対して接する必要があります。これは私におけるバイアスであり、他の方の場合は別のバイアスがあると思います(サンクコストなどではなく先述の錯覚などもその一つです)。バイアスの除去方法に必要な観点それ自体の身につけ方は私の過去のnote:「不倫は汚い」と思っている人へ。を参照してください。それなり参考になるかと思います。

バイアスの除去と基準の決定

 ここで重要なポイントなのですが、全てのバイアスを除去してはいけません。どのような基準で物事を捉えても、ある基準を採用するとその瞬間にその基準によるバイアスの発生が確約されます。基準を採用するときに重要なのはその基準で測れるものを理解していると同時に、その基準によって生じるバイアスがどのようなものかも理解しておくことです。以下、独り言と主題が癒着したような内容です。考え方の参考になればと思います。

 私の場合、実際に数学が楽しいかどうか・今後楽しめるかどうか、ということが問題の中心に位置しています。ということは、単なる執着的なバイアスは排除しても、感情的な問題全体を基準から排除するということはできません(つまり認知できていない執着性が存在しうることを許容せざるを得ない)。一方で時間的コストもあるので釣り合いの問題もあります。それから、仮に楽しめたとしても精神的な負担はどうかということ、数学をやめるという選択肢がもたらす悪影響などを一通り列挙します。そもそも音楽を歴史的に見れば数学を切り離すとかできないのは一目瞭然なので、結局は呪縛的な状況から離脱できないんですが…(バッハのインベンションとかめちゃくちゃ幾何的と言われていますから、いま練習している最中で数学を放棄するとか精神性の放棄ですしね…)

 で、継続可能性に目が行ってたんですが、これらを踏まえて好きかどうかと言われますと、好きではなくなってる気がしますね。現状数学をやっている理由が「現行の数学が好きじゃないから、もっと主観的な数学を作りたい。」という、もはや数学なのかなんなのかよくわからないことをやるために現行の数学を勉強していますし、これは私にとっては割と負担が大きいです。たまに好奇心で問題を解くこともありますが、その頻度もかつてと比べれば極端に落ちています。(※この論理の中で、自分の感情以外に「実際の自分の行動やその動機」も本当に好きかどうかの評価基準として暗に採用しています。)
 先述の記事:私が追い求めているものの中でも述べていますが、「直感に反しない」数学を作ることが私の目的なので、これはつまり自分の中における経験的手法しか認めないということであり、それは即ち私の主観そのものです。それを構成し、誰かと共有するという行為は、言い換えれば私の原体験の共有という行為に相当するので、もう数学というより芸術という分野で語るべきことでありますので、私は数学をやっているとは言い難いです。やっぱり数学は好きじゃなくなってますね。これからも数学という世界の内側だけで楽しめる見込みは少ないかもしれません。
 もちろんそれには自分の数学に対する姿勢の悪さもあるかもしれませんし、やはり薄れてしまった興味は、何かしら努力をしてその結果を得るまでは再燃しないでしょう。(年齢を明かさずにこれを言うのはややはばかられますが…)この歳になりますと、興味というのは自然に湧き起こるというよりは、なんらかの努力の結果から得られるものだと思いますし。

 ところで、主観的な数学という得体の知れない記号列なんか作ったところで、それを見にくる人なんかいるんですかね。まあ、子供が秘密基地を作る営みに、観客なんていてもいなくてもいいですし、その豊饒さを否定してしまったら、それこそ「本当に好き」という理由での継続の道が絶たれてしまいますね。

 そういうわけで、見出しはCheyenne Mountain地下空軍基地北口なのでした。

 秘密基地は、かっこいいのだ。

いただきましたサポートは主に書籍・ソフトウェア・PC・実験器具・お薬の購入に使わせていただきます。