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自分の「好き」を信じて、足を止めないこと。

「noteのつづけ方」のタグを見た時、びっくりするほど何も思い浮かばなかった。

先月でnoteを始めてから1年が経ったけど、これまで定期的に記事を上げ続けられているのは、飽き性ですぐに心が折れる私にしたら奇跡みたいなものだ。

人に教えられるコツやテクニックなんて、私には何もない。

何もないからこそ、続けている。


noteを書いたら多くの人に読んでほしい。
読んでくれた人が思わずスクロールする手を止めてしまうような、読み終わった後にほんの少しでも「良かったな」と思ってもらえるような、そんな文章を書きたい。

だから、毎日ダッシュボードが気になる。
スキが少なければ「良くなかったかな」と悩む。
「私の文章ってもしかしたら他の人とずれているのかも」とか、「どうして〇〇さんみたくスマートに書けないんだろう」とか。

書きながら不安になって、書き終わって不安になって、公開してまた不安になって。

私の中に棲む天使と悪魔が、「好きなことなら続けなさいよ」「向いてないんだからやめちまえよ」と交互に囁いてくる。


私は自分の文章をしょっちゅう読み返すし、1ヶ月以上前に上げた文の一部分だけがふと気になって直すこともある。

誤字脱字はもちろん、「なんか語尾が揃ってない」とか「この言葉、当たり前のように使ってるけど本当の意味はこれで合ってたっけ?」とか、考え出すとキリがなくて、「直したい」というよりも「直さなければ気が済まない」箇所が無限に出てくる。

いくらでも突き詰められるのが文を創ることの面白いところでもあるけれど、時にそれがどうしようもなく辛く感じるのだ。
首を絞めているのは、他でもない自分だというのに。


最近、1年が経ったことをきっかけに、なんとなく最初の頃に書いた記事を読み返してみた。
自分で自分に突っ込みたくなるような、なんとも言えない小っ恥ずかしさが込み上げてくるのと同時に、はっと気付かされることもあった。

それは、もうちょっと肩の力を抜いていいのかもしれない、ということだ。

1年前の文章は、なんだか日本語がおかしくなっていたり、主語や述語が足りていなかったりして、我ながら読みづらい部分が多いなと思う。

でも、たしかにあの頃は、もっと気軽に書けていた。
余計なことを考えずに、文章を創ることを純粋に楽しめていた。

誰かに教わったことがあるわけでもなく、特別な知識もない私にとって、『文章の書き方』が載った本には学べることがたくさんある。
でも一方で、整理整頓された文章だけが必ずしも良い文章であるとは限らない。

私がいつも感情を揺さぶられるのは、小手先のテクニックでは収まりきらない書き手の心が乗った言葉たちだ。

人の数だけ表現の仕方がある。
正解なんてないのだから、きっと、もっと自由でいいのだ。


生まれ持った才能がなくたって、"好きなことを続ける"才能は自分次第で手に入れることができる。

行き先を見失っても、大切なのは歩き続けることだ。

足を止めさえしなければ、思いがけないところからその場所にたどり着けるかもしれない。そこに行くための地図が手に入るかもしれない。はたまた、道中で面白い人に出会えるかもしれない。

そして、迷った時は「迷った」と声に出してしまえばいい。

「私も迷いました」と共感してくれる人がいる。「そういうあなたも好きですよ」と肯定してくれる人がいる。たまたま見つけた誰かの言葉がヒントになって、救われたりすることもある。

noteはそういう場所だ。

ゆっくりでもいい。
続けていればきっと、可能性も広がり続ける。


私は書くことが好きだ。noteが好きだ。

だから、これからも自分の「好き」を信じて、足を止めないでいようと思う。

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