楽になりたくて瞑想するとき、それは鎮痛剤を打っているだけになっていないか
瞑想を始めるとき「苦しみ」という言葉が本当のところ何をさしているのかはよく整理しておく必要があると思う。
私たちの日々の生活には、不安があったり、イライラがあったり、恐怖があったり、腹が立つことがあるる。
そういった不快感を感じなくなりたい。できればさけて通りたい。
瞑想にはその力があるのではないか?
だから瞑想を始めたという人も多いと思う。
しかし実際にマインドフルネス瞑想を練習すると、このイライラや不安が自分に起こっているということを瞑想中に自覚することになる。
こんなはずではない!
楽になりたくて瞑想をはじめたのに!
ちっとも楽にならないじゃないか!
瞑想で「痛みや不快感がなくなる」と理解していると瞑想は期待外れなものになるのかもしれない。
痛みや不快感を感じている、これが実は重要なポイントで
実はこれが苦しみを取り除く際に必要な素材となったりする。
【9月のワークショプのお知らせ】
「マインドフルネスの6つの障害と8つの対処法」
瞑想で起こる問題は実は大きな問題ではなく、対応が可能なものです。
問題を認識することは、むしろ向き合うべき素材を発見できたという「チャンス」でもあります。その素材をよくみてみましょう。
ブッダが言っているのは、「苦しみと苦しみの終わり方」を示したものだ。
ブッダは苦しみと苦しみの終わり方を伝えた人だが、
ブッダは苦しみをあらわすのに「ドゥッカ」という言葉を使った。
ここでいう「ドゥッカ」とは「痛みや不快感」とは意味が違う。
例えばお腹が痛いとき、病院に行ったとしよう。
そこで私たちがやることは、医師にどのような症状なのかを伝えることだ。
どんな痛みなのか、いつ、どのように、いつから起こっているのか。詳細に不快感について自らしらべ、その症状を訴える。
問診をよく聞き、その上で医師は詳細な検査を開始するはずだ。
そして原因を特定して治療を開始する。
原因は昨日食べた3日前のお弁当が原因なのか、
ストレスで胃酸が出すぎているのか、腫瘍があるのか。
痛みの原因がわかれば対処の方法も変わるはずだし、これによって初めて原因に対して対応することができる。
瞑想では「痛みがなくなりますよ」ということは言っていない。
むしろ痛みは人生で避けられないものだ。
喜びもまた人生につきものであり、痛みも必ず人生に起こるものなのだ。
どんなに瞑想に熟練しても、年をとれば膝がいたくなることもあるし、大切な人がいなくなれば悲しみも経験する。
痛みは瞑想を続けても必ず起こってくる。
これが無くなるわけではない。
これが苦しみの終わり方の方のアプローチだ。
つまり痛みは苦しみを取り除くのに必要不可欠な素材でもある。
なので残念なことに、瞑想をいくら練習してもその時々の気分は発生する。
大事な人がいなくなったとしても悲しまなくなる、何も感じなくなるということにはならない。
大切なポイントはそこに過度に引きずられる必要があるか?ということだ。
雨の日もあれば、晴れの日もある。
問題はその激しいエネルギーとどう付き合うかということ。
まずはこの痛みや不快感、不満足な心がどうなっているのかよく見てみてる必要がある。
私たちは、いつもいい気分でいるために瞑想するのではないし、
とはいえ、悪い気分になるために瞑想するわけでもない。
マインドフルネス瞑想はここを知覚するようになるための練習方法なのだ。
さあ今日も練習あるのみ。
練習を通して身につけていく感覚です。
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瞑想で起こる問題は実は大きな問題ではなく、対応が可能なものです。問題を認識することは、むしろ向き合うべき素材を発見できたという「チャンス」でもあります。その素材をよくみてみましょう。
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