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短編小説/月子のファンタジー列車

月子のファンタジー列車

 月子は佐橋の背に手を回してしがみつき、人魚のことを考えている。むかし、まだ中学生だった頃に出会ったひとりの人魚。夜が去ったばかりのひやりと澄んだ潮風のなか、波打ち際に佇んでいた。「彼」を待っているのだと言って。

 月子の耳元で荒い息を吐く佐橋は、いわゆる送り狼というやつだった。サークルの飲み会の途中で月子の隣にやってきて、テーブルの下の見えないところで際どい場所に伸びてきた彼の指を、月子はそのままにした。浮わついた噂を聞いたこともなく、どちらかといえば純朴そうな雰囲気の佐橋だけれど、たぶんその時は相当酔っていたのだろう。

「月ちゃん」

 普段はサークルの他の人たちと同じように「ツッキー」とあだ名で呼んでいるのに、佐橋は言い馴れたようにちゃん付けにして、月子はそのことにふと興味を惹かれた。「家どこ?」と聞かれ、そのあと佐橋が月子を送るという話がつくまでのやりとりは、きっと必要なかった。すでに暗黙の了解だった一連の流れを儀礼的になぞっただけだ。

 呼吸のリズムと、ゆっくりと寄せては引く熱と汗の匂いに、月子はただただ身を任せていた。佐橋が深く、深く身を沈めるたび、月子の眉間に細い皺が針のような影をつくる。ぎゅっと閉じた目蓋からじわりと滲んだ涙が、こめかみを伝っていった。

 痛みが伴うのは、愛が本物か魔女が問うているから。尾ビレが裂かれてできた二本の足。それは陸の世界では不確かで、男は月子の足がまたひとつにくっついてしまわないよう自らの体で裂け目にネジを打ち込み、傷を塞ごうとする。男の愛が嘘ならば、月子は人間になれないまま海の藻屑となってしまう。

 おぼろげにしか憶えていない人魚姫の物語を月子は好き勝手に作り変えながら、痛みの緩んだ一瞬、そっと目を開けて佐橋の顔をうかがった。彼の額を伝った汗が、ぽたりと月子の唇に落ちる。汗と海の水とはどちらがしょっぱいだろう。

 佐橋は無我夢中で、その必死さに救われた。月子は両膝を抱えられ、ほっそりとした体は三日月のように丸まり、ゆらゆらと、海面を漂う小舟のように波に身を任せる。

 ふと電車の音が近づき、遠ざかっていった。まだ実家に住んでいたころの、垢抜けない町の風景が月子の脳裡に蘇った。つねに町を満たしていた潮の匂いと、波の音、そして海を走る夢の列車のことを思い出した。空と海がひとつに溶けあい、列車は波に揺られながら月を目指して走る。自分の好きにできたあの世界から、月子が遠ざかって久しい。


 
 月子の生家は海からほど近い住宅地の中にあった。海岸沿いに線路が走り、いつもガタンガタンと列車の音が聞こえていた。始発の音で目覚めた月子はカーテンの隙間に目をやり、そのまま布団の中でまどろんで、目覚まし時計のベルと母の声でようやく朝を迎える。眠る間際は夢とも現実ともつかない曖昧なぬくもりのなか、夜行列車と波の音をぼんやり聞いていた。

 半分だけ覚醒した状態で、夢の世界を好きなように作り変えるという特技が月子にはあった。その世界には月子を驚かせたり怖がらせたりするものも登場したから、たんなる想像ではなく夢だったはずだ。誰でもそんなふうにして夢で遊んでいると思っていたら、あるとき友人に「そんなことはできない」と言われた。

 そんな夢のなかで、月子はよく海の上を走る列車に乗っていた。爽快な青空の下、凪いだ海をぐんぐんと進んでいくこともあれば、満天の星を窓外に眺めながら夜汽車に揺られることもあった。ときには荒れ狂う波にのまれて沈没し、そのまま海底に向かって伸びる線路の上を運ばれていった。

 海の夢は潜在意識や精神状態を表すらしい。小学校高学年くらいのころ、月子は立ち読みした夢占いの本でそう知った。自分の想像でできている夢がそれに当てはまるのかは分からなかったけれど、中学にあがったばかりで緊張続きだったころ、嵐の海で竜巻にのまれそうになってハッと目覚めたことがある。

 月子が好きなのは夜明けの海だった。月子の肉体は布団の中でぬくぬくしながら、始発列車の音を遠くに聞いて、チラと目覚まし時計に目をやったあと夢のなかで海上列車に乗る。白んだ空の色が海に映り、ゆるやかに湾曲した水平線はぼんやりと霞んで、世界は滲みあってひとつになっていた。月子の乗った列車は時おり波に揺られながら、白く丸い月に向かって走る。列車には月子ひとりのときもあったし、誰かと一緒にいたいと思えばすぐにその相手が夢のなかに現れた。家族だったり、友だちだったり、月子の好きなアルパカや近所でよく見かける野良猫のブチ。ほかにも夜空にふわふわと海月を泳がせたり、友だちと一緒に列車の窓からダイブして空を飛び回ったりもした。

 夢だけでなく普段から空想好きだった月子には、町外れに一軒気になる家があった。月子の家のリビングから見えるその洋館風の建物は、小高い丘の上で緑の木々の合間からポツンと顔を出している。その壁の白さが際立って、どこか作り物めいたというか、童話じみた雰囲気を漂わせていた。普段は人が住んでいるわけではなく、別荘として休暇に訪れているらしかった。

 日が暮れてリビングのカーテンを閉めるとき、月子の母親はその洋館の窓に明かりが灯っていると「おヤシキさん、今日は来てるのねぇ」と食卓に座る月子に声をかけた。月子はそう言われると気になって、なぜかその明かりを確認しないと気が済まなくなるのだった。

 『おヤシキさん』とはもちろん名字ではなく、表札すら出ていないその家族の呼び名だ。月子の家族も友だちも、近所の誰も『おヤシキさん』のことをよく知らず、海岸沿いにある道の駅で見かけたという噂があるだけだった。五十がらみの夫婦と若い娘の三人で、娘は月子よりも五歳ほど年上らしく、彼らはよく道の駅で地魚と果物を買って帰った。おヤシキさんについて月子が聞いた噂はそれくらいだったけれど、高校を卒業して町を離れるまでのあいだに一度だけ、おヤシキさんの娘と話す機会があった。月子が中学二年生の七月半ば、もうじき夏休みになろうかという頃のことだ。

 その頃、月子はある悩みを抱えていた。中学二年といえば体は女らしく丸みを帯びてくる。けれど、やせっぽちの月子は胸もお尻もぺたんこで、何よりまだ初潮が来ていなかった。クラスの女子は「生理で」と水泳の授業を休んだり、ポーチから鎮痛剤を取り出して飲んでいたり、更衣室では生理用品の話をする。「月子はまだよね。生理なんてないほうがいいよ」と悪びれもせずに言われ、いたたまれない気持ちになることもしょっちゅうだった。

 まだちゃんとした女の子になれていない、そんなコンプレックスがつきまとって、月子のその気持は別のことにも影響を及ぼしていた。月子には小学校から一緒の穂積という幼馴染がいたのだけれど、その穂積と中学一年の文化祭からつきあっていた。一年の時はまだ女子のように高い声だった穂積はすっかり男の声になり、二年になってクラスが分かれ、少し離れてみると些細な変化でもそれを目にするたび月子は穂積を男だと意識するようになった。それと同時に、女になりきれない自分が情けなく惨めで、表向きは変わらないようにしていても内心焦りと苛立ちを感じていた。

 自分のそういった心持ちは、「思春期」という言葉で括られてしまうのだろうと月子は思う。まわりの成長を目にするたび、月子のうちがわには僻みと劣等感がミルフィーユのように積み重なって、その分だけまわりに気後れしてしまう。月子が同級生の心無い言葉を聞いたのはそんな折りだった。

 その日、月子は日直の仕事を終えたあと、トイレで制汗スプレーを吹き付けて穂積のクラスへと向かった。そして教室にたどり着く少し手前で、開けっ放しのドアの奥に穂積の後ろ姿が見えた。

「お前のカノジョ、まだセーリ来てないらしいぞ」

 不意にそんな言葉が聞こえ、かけようとした「穂積君」という声を月子は飲み込み、足を止めて後ずさった。

「そんなの知らねーよ」

 穂積の声だった。座っていた机から腰をうかせ、肩をいからせて言い返した彼は、いつの間にかまた背が高くなっているように見えた。

「セーリないなら妊娠しないじゃん」

 教室の奥の方から聞こえてきた男子の声が、誰のものなのか月子には分からない。別のクラスの男子となるとせいぜい名前と顔が一致する程度で、向こうも月子をその程度しか知らないはずなのに、なぜ月子に生理がないなんてことを知っているのか。恥ずかしさと情けなさと、穂積への申し訳なさで、月子は踵を返してその場を後にした。



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