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掌編/善哉

 ――新年。

 物音がしてふと目を覚ますと、さらされた頬がひやりと澄んだ空気を感じた。

 ぐっと布団を引き上げながら、いつもとは違う重みとほんの少しのカビ臭さに、自分のマンションではないのだと思い出した。布団から出した右手でリモコンを探し、エアコンもなかったと気づく。

 ずるずると掛け布団を引きずりながら電気ストーブのスイッチを入れた。敷布団に残してきた自分のぬくもりに戻り、丸くなる。

 トタトタと縁側を走る音がし、勢いよく障子が引き開けられた。

小夜さやちゃん」

 さやちゃんさやちゃん。声の主は芋虫のように丸くなる私の名を連呼しながら、もこりと膨らむ布団を全身で揺さぶり、反応がないと悟ると「さーやちゃん」とトーンの違う声を出して中に潜り込んできた。小さな足が、パジャマの捲れあがった私のふくらはぎに触れる。

「つめたっ」

 新太あらたは勝ち誇ったように「えへへー」と笑って立ち上がり、完全に布団を剥がしてしまった。

「あらたー。まだ寝させてよー」

 手を伸ばしたけれど、新太は「だめー」と部屋の隅まで布団を持っていく。

「お雑煮もうすぐできるから、小夜ちゃん起こしてきてって言われたんだもん」

 のそりと体を起こすと、遠くから「さやー」と母の声が聞こえた。


 着替えをすませて居間に顔を出すと、踏み台にのった兄に、父が三方を手渡しているところだった。

「気ィつけろよ」

 足の短い小ぶりな白木三方の上で、小さな酒器がカタカタと音をたてる。すでに神棚に置かれている鏡餅は、きっと義姉の実家でついたものだ。同じ県内にある義姉の実家では今でも臼と杵で餅をつき、茣蓙に並べて乾燥させているらしい。彼女が嫁いできてからというもの、毎年のようにその餅を分けてもらう。神棚の両脇にある青々とした榊も、きっと義姉が自らの手で切ってきたものだ。

「小夜ちゃん、おはよー。……じゃない。あけましておめでとう」

 台所からお盆を手に顔を出したのは義姉だった。

「あけましておめでとう」

 おめでとー、おめでとー。新太がぴょんぴょんと跳ねながら腰にまとわりついてくる。小学二年生、もうじき三年生になる甥は年に一度の「お正月」にテンションが上がりっぱなしだ。

「新太は小夜ちゃん来てるからテンション上がりっぱなしね」

「小夜ちゃんのお雑煮には僕のつくったお餅入れてあげるー。ネコとー、うんちの形のー」

「えー、うんちはやだよー。あずきに埋もれたうんちは想像したくないわー」

 あははと笑いながら、義姉はお盆にのっていた椀をコタツの上に並べていった。真ん中にはおせちの三段重が置かれている。

 石油ストーブは柔らかな熱で部屋をあたため、のせられた雪平鍋にはお湯が沸いていた。あとで燗でもするつもりなのだろう。窓は白く曇っていた。

「それにしても、元旦からぜんざいってほんと珍しいよね」

 自分の運んだお椀をのぞきこみ、義姉は鼻を近づけて甘い匂いに頬を緩める。私の生まれたこの家のあたりでは、正月の雑煮といえば甘く炊いた小豆に茹でた丸餅だった。それが「小豆雑煮」と呼ばれる珍しい風習だと知ったのは高校に入ってからだ。以来、鰹出汁やら昆布出汁、味噌などの料理っぽい味付けの雑煮に憧れつづけ、何度かいただく機会もあったけれど、新しい年の、一番最初の食事は変わらずこの甘い小豆雑煮。

「小夜ちゃんのはこれー」

 新太が椀をひとつずつ確認し、彼が指さす先には歪なかたちの白い餅が顔をだしていた。それは「ネコ」なのか「うんち」なのか。

「新太、それネコ?」

「ううん。これはうんち。ネコはどっかいっちゃった」

「ネコさんは新太のに入れたわよ」と、会話が聞こえていたらしい母がようやく居間にやってきた。手に持った日本酒の瓶には『純米吟醸 満天星』とある。父の好きな酒だ。

 屠蘇が漢方薬を味醂に漬けたものだと知ったのは、それほど昔ではない。それまでは正月に飲む酒が「お屠蘇」だと思いこんでいた。「屠蘇散」という屠蘇の元があるらしいのだが、毎年元旦に来年こそは本物のお屠蘇をと心に決めているにもかかわらず、その年の暮れにはすっかり忘れてしまっている。そして今年もまた同じ誓いを立てる。

「新太は何飲むの? オレンジジュース?」

「お茶ー」

 親父臭いなあと私が言うと、新太は「甘いのばっかりになるじゃん」と生意気な顔をした。

「あけましておめでとうございます。今年も一年よろしく」

 父が畏まった声で言い、盃を掲げた。

 雑煮は甘く、柔らかく炊かれた小豆はやはり正月の味だ。母はいつも三温糖を使い、コクはあるけれどしつこくない。その加減は家によって違うようで、うちは他の家よりも砂糖控えめのようだった。「ひとつまみの塩が大事よ」と、母は言う。

「正月から甘い雑煮って、おかしいよねー」

 心にもないことを口にしながら、今年も私の胃が一番に受け入れたのは甘い雑煮だった。「うんち」はとぐろを巻いていたのかもしれないけれど、私の箸が掴んでいるのは細長い棒状の餅。

「これ、ほら、ネコー」

 新太が箸でつまんで見せたその餅は、もとは楕円にちいさな耳がついたものだったのだろう。とろけてのびた餅は、ネコというよりは……

「ふつーの餅だし」

 新太は「えー」と不満げな声を出し、大きな口を開けてかぶりついた。白い餅に点々と小豆がくっついて、それは見ようによっては目鼻に見えなくもない。けれど、やはりネコではなかった。

「あー、新太。その餅じいちゃんに似てる」

 ほわほわと湯気に包まれながら、新太はじいちゃんを飲み込んでいく。じいちゃん食われちゃったなあと、父は皺くちゃの笑顔を孫に向けた。

 家を出て、こうして帰省するたびに身近な人の新たな顔を知る。ずっと一緒に暮らしていたときは気づかなかったのか、離れたからこそ見えるものなのか。

「ほら、小夜も飲めや」

 父の顔は早々に赤らみはじめている。
  
〈了〉 

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