掌編/彩
彩
「色は捨てたのですか」と問うと、女はわずかに口元に笑みを浮かべた。
「捨てた? 捨てるなど」
襟元につと白魚のような手がそえられ、するりと胸元をすべり汗ばんだ肌をなぞったその指は、黒い紗の着物とあいまって一時の涼を見る者にもたらした。
こうも暑くては色など無いほうがよほど過ごしやすいわねえ。
薄紅色の唇は女の紡いだその言葉通りの形をなし、最後は弓のようにくっきりとした笑みを浮かべた。女の名は彩(アヤ)という。
忙しいねえ。ああせわしいせわしい。
鈴をころがすような声に、童女を思わせる屈託のない笑い声が庭先の暑気を軽くする。砂利の上を跳ねていた雀がパタパタと羽音をさせ、池の手前にあるユスラウメの根本におりた。地面をついばみ、尾をこちらに向けてピョンピョンと遠ざかっていく。
わたしは彩の横顔を見つめ、彩の目は花から花へと舞う蝶のようにヒラヒラと庭先をさまよっていた。忙しさなど微塵もありはせず、濡れ縁に片手をつき、ぶらぶらと素足をゆらし、塀の際に植わった百日紅にはたと目をとめた。
「なんとまあ艶やかな色」
奥の欅からは静寂とまごうほどの蝉の声が降りそそいでいた。彩の呟きが聞こえたのか一匹がその幹から飛び立ち、追うように二匹、三匹とつづいた。
抜けるような青い空の下で、彩の上気した頬と似た色の花が揺れていた。数匹の蝉がいなくなったとて、静寂の濃さは変わりはしなかった。
彩がふいと首をかしげ、麻らしい薄墨色の帯にはさんだ扇子を抜き取り、門近くの金木犀をさした。ついでのように広げた扇子でパタパタと首元に風をおくり、一筋垂れた後れ毛はそれでも肌にまとわりついていた。
「あすこのねえ、金木犀の枝に雉鳩が巣をつくっていたのだけど、先だっての台風で、ほら、あのとおり。汚らしいから片付けないとねえ」
さほど大きくもない金木犀の、枝分かれしたあたりに塵屑のような残骸があった。そこに巣があったなど言われねば分からぬほどで、強風で煽られた枯れ草がたまたま引っかかったようにしか見えなかった。
「彩は汚いものはお嫌い?」
「そうねえ。あれが巣でなかったらあってもよいのだけれど。あれが巣だったと知っているから色がついてしまったわ。気が削がれてしまうから、やはり汚いものはないほうがいいわねえ」
「彩は色がお嫌い?」
「嫌いではないけれど、暑いわ。暑くて忙しない。眺めているくらいがちょうどいい。けれど色の濃すぎるものはひどく疲れてしまって。あの雉鳩の巣の成れの果てのようにね。ほら、こうして私のなかにあの色が生まれてしまう」
白い長襦袢の奥に見える喉元の肌は、歓喜するように淡く色づいていた。こもった熱を逃すように彩はフウと息をはく。どうやら彩の内には暑気があった。それを覆い隠すように色のない布をまとっている。内なる色をもてあましている。
「ねえ、あや」
彩はくるりとこちらに顔を向け、木戸にもたれて膝を抱えるわたしをまっすぐに見た。それは彩の内からわたしという色がこぼれ落ちて初めてのことだった。
「ねえ、あや。あなたはもう私のなかには戻らないのかしら?」
手を伸ばそうとした彩は、しかし恐れるようにその手を引っ込めた。そしてまたフイと空を仰ぎ百日紅の色を追う。
「あやの色は濃いわねえ。雉鳩の巣よりもずっと」
彩の汗ばんだ項に、わたしの色がわずかに滲んでいた。
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