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Bad Things/11

【episodeジュン〈1〉片翼】


 雲が切れ、眼下に四角く区画された田畑の緑と茶色、立ち並ぶ建物の灰色がのっぺりと広がっていた。もう海原は見えない。キラリと視界をかすめる日の光に目を伏せた。

 ポケットから鏡を取り出して前髪をなおす。そして、じっと自分の顔を見つめる。

 ――世の中の人がみんな近眼ならいいのに。

 そうすれば、世界はもう少し生きやすい。ぼやけた視界のほうが中身が見える。それとも、僕の中身が曖昧だから世界の居心地が悪いのだろうか。

 そんなことを考えながら顎のラインをなぞり、その指を喉元まで下ろした。

 ――俺も、ジュンは髪おろしてる方が好き。

 ミツキの声が聞こえたような気がした。

 僕の隣には見ず知らずの他人が座っている。疲れ切った様子でうなだれていたスーツ姿の男性は、着陸を前にネクタイを締めなおしていた。

 チラと目をやると、男ははにかんだ笑みで軽く頭を下げる。僕は彼の”現実”を壊さないように、マフラーと髪で喉元を隠した。



 大学時代の友人を訪ねて初めて降り立った空港は、思った以上に閑散としていた。出迎えてくれたユカリは、前に会ったときより少し痩せたかもしれない。

 社会人になってから二回ほど顔をあわせたけれど、二回ともユカリが僕のマンションにやってきた。学生時代から住んでいる大学近くのマンションで、二人でこっそり講義に忍び込んだりした。

 彼女と話していると学生気分に戻る。そのせいか、ユカリがハンドルを握る姿は新鮮だった。

「とりあえず、うちに荷物置きに行こうか。ジュン、どこか寄りたい場所ある?」

「ドラッグストアって通り道にある? 足疲れちゃったから湿布貼って寝たい」

「分かった」とユカリはウィンカーを出す。

 交差点を曲がると見慣れたドラッグストアの看板が見えた。

「ジュン、まだ持ってたんだね。そのパンプス」

「うん、なんとなく。久しぶりに履いてみたんだ」

 運転席の足元で、つるりとしたツートーンのパンプスがブレーキを踏む。ピンクベージュとキャメルブラウン。控えめについた小さなリボンがユカリらしい。

「ユカリ、足のサイズ23.5だっけ?」

「うん。めっちゃ標準サイズ」

「いいな。27.5センチなんて滅多にないよ」

「ネットでも?」

「あるにはあるけど、僕の場合横幅も広めじゃないと入らないから。でも、もう買うこともないけどね」

 持っている女性用の靴はこの一足だけだ。

 外に履いて出かけたのは今日が初めてで、僕がこの靴を履いている姿を見たことがあるのはユカリ一人だけ。

 身につけるために買ったのではなく、御守のようなものだった。その御守を踏みつけにして、僕は昔の自分と決別しようとしている。

 車を降りて店内に向かった。ユカリは少し顎を上げて僕の顔を見る。


「ジュン、どうしてパンプス履いてきたの? 何かあった? こっち来るっていうのも急だったし」

「ちょっとね。禊みたいなもの。別に靴以外は普通だよ」

 グレーの綿ジャケットにジーンズ。それとアーガイル柄のマフラー。ユカリは納得していないのか唇を尖らせている。

「その格好似合ってるよ。靴以外は。無理して女の格好しなくていいのに」

 ユカリの言葉は僕に向けられたものではなく、ここにはいないミツキに向けられた不平だ。

 ユカリが僕の味方なのは分かっているけれど、ミツキを否定されるのもそれはそれで胸が傷む。

「今日のは、そういうのじゃないから」

「ジュンが好きで履いてるならいいけど、あとで話聞かせてよね」

「僕の願掛けみたいなものだよ。ちゃんと話すし、むしろ聞いてもらいに来たんだ」

 ユカリの頭をポンと叩くと、彼女はくるっと表情を変えて笑みを浮かべた。

「ジュンが”僕”って言うの久しぶりに聞いた気がするね」

「そう? そうかも」

 女性の格好をするのにそれほど抵抗はない。

 社会的に排除される心配がなく、相手がそれを求めるのならスカートを履くくらいできる。でもそれはコスプレのような感覚で、一人で出かけるときに女性用の服を着ようとは思わないし、下着は頼まれても無理だ。

 ただ、自分が男性を求めているのか女性を求めているのか分からなくなることがある。

 ミツキは男性だったし、初めて付き合ったのは女性だった。どちらかといえば男性の肌に触れたい。男性とはすなわちミツキのことだ。彼以外の男性を好きになったことはないし、今後好きになるのかも分からない。

 体は今のままでいいと思っている。手術やホルモン投与してまでこの体を変えたいとは思わないし、むしろこの体が自分だという自覚がある。

 たぶん、ゲイだとは思う。けれど、性の境界というのは曖昧すぎて、時々自分が何者なのか見失い、不安になる。

 ――ジュンはジュンだろ。

 ミツキの言葉は、まだ僕を救ってくれる。

「あ、鳥」

 近道だと言ってユカリが車を進めたのは住宅地だった。古い日本家屋が立ち並ぶ集落を過ぎると、草の生い茂った斜面の手前に畑がある。そこに数羽の白い鳥が佇んでいた。

 ユカリはハンドルを切り、細い坂道を上る。不意に、目の前を一羽の鳥が横切った。

「鷺だよ。白鷺。ジュンには珍しいよね」

 ふわりと風にのった白鷺は、民家の近くの落葉した木の枝に止まった。そして思い立ったようにまたどこかへ飛んでいく。

 車は土手沿いの道を走り、対岸にある工場の煙突からはもくもくと煙が上がっていた。灰色の煙はぼんやりと空の色と同化する。雲に覆われた空をながめていると、ポツリと雨粒がフロントガラスに当たった。二つ、三つ、数える間もなくユカリはワイパーを動かす。

「タイミング悪かったね。すぐ止みそうだけど」

 スーツケースを車から下ろす僕の隣で、ユカリが傘をさしかけていた。ローゲージニットを着た彼女は、吹きつける雨と風にギュッと身を縮める。

「これ、使いなよ」

 僕がマフラーを差し出すと、ユカリは「ありがとう」と素直に受け取った。

 かわいいと思うけれど、僕が彼女に感じるのは少しの嫉妬と、それを表に出さないだけの友情。ユカリが性の対象になることはない。

 なぜかは分からないけれど、僕にとってはそうなのだ。高校のときに付き合った女の子はバスケ部に入っていて、どちらかといえば筋肉質な方だった。手をつないで、キスをして、それ以上の距離が縮まることはなく、卒業して離れると次第に連絡を取らなくなった。

 そして、大学に入学した僕は生まれて初めて男性に恋をした。

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