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短編/22.5cm【前編】

【後編】のみ有料です(記事単体¥100/マガジン¥800)■後編目次/低周波治療器〈6〉/低周波治療器〈7〉/目撃〈宮部智子〉/目撃〈梶田裕貴〉/定年退職の日/記事/日日草


レンタル倉庫〈1〉


 ――連日の早退など、どうやら気にしているのは自分だけのようだ。

 男はそんなことを考えながら、「古びた」という形容の似つかわしいオフィスをそっと見回した。

 五、六人がパソコンのキーボードを軽快に叩き、一人のふくよかな女性が受話器を手に愛想の良い声で話していた。

 時刻はまだ四時にもならない。

 男が鞄を手に立ち上がると、近くの席の女性が手を止め、「お疲れ様です」と笑みを向けた。男にすれば娘ほどのこの女。彼女の笑みを見るたび男は自分の存在価値を見失い、そしてそんなものは元々なかったのだと心の中で言い聞かせる。

 あからさまな作り笑いを浮かべたその女性の名は宮部《みやべ》といった。週末で定年退職となる男の仕事は、全て彼女に引き継いである。

 九十年代はじめ、男は自身の脂が染み込み深く黒光りするそろばんを手放し、パソコン教室に通って何とかブラインドタッチを習得した。しかし会計ソフトの進化は男の理解を超え、そして理解する必要もないほどに男の仕事を奪っていった。

 かつてうず高く書類が積み上げられていたデスクには、ディスプレイとキーボードが鎮座している。

 ミレニアム以前の、男がまだ第一線で働いていた頃、バブル崩壊から延々続いた不況で取引先は軒並み減る一方だった。

 数少ない契約は年毎に無理矢理引き下げられ、男を含めた数名の創業メンバーでそれを乗り切ってきた。そんな自負が時折頭をもたげるが、詮無い事と今では自嘲気味に思い返すばかりだ。

 あのころ仲間と思っていた面々は、男とはすっかり遠い場所にいる。定年間近にしてこれほど肩身の狭い思いをするなど、男は想像もしていなかった。

 何が悪かったのか。

 男は自問し、たどり着く答えはいつも同じだった。

 ――厄年のせいだ。

 四十二の大厄の年、男は腰椎椎間板ヘルニアを発症した。左足の攣るような痛みに椅子に座ることもままならず、一週間ほど自宅療養したのち数ヶ月に渡って薬を服用した。

 痺れはおさまったが、慢性的な鈍痛にコルセットを常時装着しなければ安心できず、気分は鬱々とした日々が続いた。発症当時は気遣いを見せていた同僚も、日々のこととなると関心は薄れ、「腰がね」と愚痴でも漏らそうものなら「ああまたか」と面倒臭そうに眉をしかめた。

「○○社の△△さん、ヘルニアで二回手術したらしいですよ。まだ四十路前だって言うのに。それに比べたら――さんはまだ良い方じゃないですか?」

 そんな風に返されて以来、男が社内で愚痴を漏らすことはなくなった。

 家に帰れば妻はそれなりに気遣ってくれる。それは男にとって救いであったが、より悶々とする原因でもあった。

 ヘルニアを発症してから妻との夜の営みはなくなった。

 定年間近ともなればどの夫婦も似たりよったりなのだろうが、四十代になったばかりの男は、それについて考えない訳にはいかなかった。


レンタル倉庫〈2〉


 元々、男の妻はそのような行為に対して淡白な方ではあった。

 求めれば陶酔するように悶えるが、妻の方から男を求めてくることはなかった。それは恥じらいのようなものだと最初は思っていたが、長年連れ添うとそうでもないことが分かる。

 腰の痛みを訴える男を心配こそすれ、妻がセックスレスに不満を漏らすことなどなかった。むしろその行為から解放されたことを喜ぶように、男の隣ですやすやと眠った。

 しかし、男はそうではなかった。

 彼の腰は朝起きるたびに硬直し、ままならない自分の体を恨み、それは彼を酷く落ち込ませた。

 性欲はあるが捌け口がない。
 妻を悦ばせることもできない。

 穏やかに眠る妻の顔を、空が白むまでながめる夜が続いた。彼が心療内科で最初に処方されたのは睡眠導入剤だった。

「眠剤って市販でも色々出てるけど、やっぱ処方薬の方が効くんだろうね。大学んとき一緒だった山口君、仕事休んでるって言ってたろ。躁鬱らしくてさぁ、何種類か薬飲んでるんだけど、ずるずる休むのもどうかって、先月会社辞めたらしいわ。お前も無理すんなよ。まあ、不眠くらいなら俺でもたまにあるし、時間が経てば状況も変わるさ」

 心療内科への通院は同僚に話せず、男は大学時代の友人を居酒屋に誘い、冗談混じりに愚痴を漏らした。

 男はその友人の反応を耳にしてようやく、「大変だな」という慰めが欲しかっただけなのだと気づいた。

 友人の言葉は救いになるどころか、より一層彼を追い詰めた。

 誰にも分かりはしない。

 そんな諦めが男の心をじわじわと蝕み、このしばらく後、彼は休職を余儀なくされる状態に陥った。やがて休職期間が満了に近づき、男は自ら退職を選んだのだが、彼の頭にはずっと居酒屋でのやりとりがこびりついていた。

 不要な人間は去れ。世の中はそう言っている。

 会社から離れることで、男はようやくその恐怖から逃れた。

 妻の支えで病状は徐々に回復し、幸運にも以前の職場に復帰することになった。それは創業メンバーの一人が彼に声をかけたからだ。そこにあるのが同情だということは、男にもよく分かっていた。

 諦めることに慣れ、ただ穏やかに日々を過ごせれば良かった。復職したとて何か成そうなどという気概はすでになく、そして腰痛は未だに彼を苦しめている。

 一ヶ月前に社内の人間のツテで入社してきた宮部は、同じような規模の会社で経理をした経験もあり、然程の苦もなく新しい職場に馴染んだようだった。

「しっかり治して下さい」

 宮部の席に書類を持ってきた年若い男が、追い打ちのように事務的な言葉をかける。男は「ありがとう」とやはり事務的に返し、鞄を手に彼らに背を向けた。

 今時どこも人手不足で、男の会社でも定年退職後の再雇用は通例となっていた。だが、男にはこの職場に居続ける気力などなかった。会社がそれを望んでいないことも分かっていた。

「老害《ローガイ》」ときおり耳に入ってくるその言葉が、自身を指していることを男は知っている。


レンタル倉庫〈3〉


「送別会? ああ、ローガイの?」

 口煩いわけでもない男は、心のなかで「若害」と思い浮かべて苛立ちを押さえ込む。

 ひっそりと口の端を歪め「陰口は陰で叩いてくれよ」と心中溜息をつきながら、イマドキの若者に呆れ果てるのがせいぜいだった。

 多少の趣味でも持っておけば良かったと、男が後悔したのはつい最近のことだ。

 退職が近づくにつれ、妻の言葉が少しずつキツくなっていくのを、男はひしひしと感じていた。

 午前中だけのパートを終えた彼の妻は、午後の我が家を悠々自適に独り占めし、若い頃に比べ若干肉付きの良くなった体をソファの上に横たえる。それは長い時間をかけて妻の当然の権利となっていた。

 彼らの一人息子は県外へ就職し、そのまま向こうで結婚。帰ってくるのは盆と正月くらいで、男は息子夫婦と話すことなどほとんどなかった。一方、妻はスマートフォンを肌身離さず持ち歩き、頻繁に息子の嫁とラインのやり取りをしていた。

「仲がいいなら同居でもいいじゃないか」

 男が秘めた思いをぽそりと口にすると、妻は「嫁姑には距離が必要」と達観したような言葉をけろりと返す。それが妻の気遣いであることを男は知っていた。

「こっちに住めばいいじゃない」

 ある夜、男が風呂から上がったときにそんな妻の声が聞こえた。

 息を潜め、会話の成り行きに耳をそばだてた男が理解したのは、どうやら息子の嫁は男と暮らすことを渋っているらしいということだった。

 息子夫婦も男が鬱で休職していた過去を知っている。元来愛想が良いわけでもない。気難しく神経質な義父だと思われても仕方なかった。

 だが、男と妻との二人暮らしも一緒にいる時間が限られているからこそ上手く回っている。それは双方共通の認識だった。

 退職後に男にもたらされる大量の自由時間。それは病気療養中も同じであったが、あの時感じた同士のような感覚はもうなくなっていた。

 妻には妻の時間があり、同じ場所に居たとて同じことをする訳でもない。妻は男に捧げた時間を取り戻すように、五十路に入ってから積極的に外へ出かけるようになった。それは友人との会食であったり、パートタイムの仕事であったりした。

 時間を共有しないからといって、夫婦関係が冷めきっているということもなかった。むしろ円満だと二人共が思っている。

 空気のような同居人。夫婦にとって、そういった距離感が日々穏やかに過ごしていく秘訣だった。

 けれど、男の頭には不意に熟年離婚という言葉が浮かぶ。

「不要な人間は去れ」

 克服したはずのその恐怖が、退職が近づくにつれて再び男を脅かすようになっていた。

 諦めることに慣れ、そうして日々を乗り切ってきた男だったが、彼はただ一つ、大きな秘密を抱えていた。それが彼の心を支え、そして彼を追い詰めていた。

    
 

レンタル倉庫〈4〉


 男が不安に駆られ、どうしようもなく全てから逃げ出したくなったとき、必ず思い返す場面がある。

「君は僕のシンデレラ」

 どうしてそんな歯の浮くような台詞が吐けたのか。若き日の妻と自身の姿は、男のなかでは恥ずかしくもかけがえのない思い出だった。

 初めてプレゼントしたその靴は当時恋人であった彼女の足には合わず、二人で店まで交換に行くことになったのだが、それもまた良い思い出であった。

 派手さはなく、野に咲く花のように健気な恋人に、男はまたそれに似つかわしい靴を贈った。彼女もそれを喜び、結婚後も誕生日には必ず靴を贈っていたが、男が休職した年から、それは途絶えてしまっていた。

 男の趣味とは違う、淡い色だが華やかさのある靴を妻は自分で買うようになった。

「年をとって地味な靴を履いてたら、余計にオバサン臭いじゃない」

 男の選ぶ靴が元々趣味とは違ったのか、それとも言葉通りに年を重ねて好みが変わったのか、男には判断できなかった。彼に分かったのは、妻の靴を選ぶ必要はなくなったという事実だけだった。

「不要な人間は去れ」

 脳裏を掠めるその言葉を、男は首を振ってかき消した。

 定年退職までのカウントダウンもすっかり佳境に入っている。

 様々なことを諦めてきた男だが、自身のなかにある恐怖を認識するたび、妻に縋ろうとしている自分に気づかぬわけにいかなかった。

 情なのか、ただ変化を恐れているだけなのか、奥底に眠る欲望などはっきりと分からなくとも、妻を失いたくないという思いだけは確かに男のなかにあった。

 だからこそ。

 だからこそ、男は秘密を守らなければならなかった。彼が妻に内緒で借りているレンタル倉庫。

 その存在こそが、彼の抱える唯一の秘密だ。

    

低周波治療器〈1〉


 日の高い時間に会社を後にすることに、男が慣れることはなかった。

 ――こんな時間に退社するなんて、仕事をしていないのではないか。

 被害妄想と言えばそれまでなのだが、道ですれ違うだけの見ず知らずの人間の目を、男は無頓着にやり過ごすことが出来なかった。

 スーツ姿で取引先に向かうのか、それとも帰宅途中なのか、そんなことは誰も気に留めはしないのだと、男も頭ではちゃんと分かっている。それでも、道の端を顔を俯けるようにして早足で歩いた。知った人間に似た顔が目に入ったら、そこを避けて遠回りをした。

 モーレツ社員、そんな言葉がまだ辛うじて残っていたあの頃。残業休日出勤上等、飲みニケーションも社を円滑に回すための文化だった。男もただひたすらに働いていた。

 思い返しても虚しくなるだけで、あのひたむきな熱情は若気の至りとして記憶の隅に追いやるしかやりようがない。現在の自分と、過去の自分を比較しても気分は沈みゆくばかりだと、男は経験的に学んでいた。

 どちらにしろ、あの頃の価値観など今の時代に通用しはしない。

 女性社員への気安い声掛けはセクハラと紙一重で、若い社員を呑みに誘うだけでも「ハラスメント」と言われかねない。

 もっとも、復職以来すべての社員と一定の距離を置いてきた男にとって、ハラスメントに関わるような事案は対岸の火事であった。むしろ、男自身がモラハラで同僚を訴えることもできる。「ローガイ」その言葉に男を貶める意図がないはずがなかった。

『ハラスメントは許しません!』

 そんなポスターが貼られているのは、コピー機のすぐ後ろの壁だった。社内には相談窓口も設置されているが、そこはアットホームな零細企業だからか、それとも過去の慣習を引きずっているだけなのか、ある程度のことはコミュニケーションとして受け入れられる空気があり、ハラスメントに関して何らかの問題が生じたという話を男は聞いたことがなかった。

 若い女性社員は相談窓口ではなく、直接相手に「それ、ハラスメントですよ」とにこやかに返す。白髪交じりの男たちは余裕ぶった笑みで、「ごめんごめん」「冗談だよ」とその場を去るのが常だった。

 そして心の中でこの窮屈な時代に不満を漏らす。

 男は「ハラスメント・ハラスメント――ハラ・ハラだ」と、女性社員たちの笑顔の脅しを羨ましく眺めていた。

 何を言われようと、男は会社の文句を言うつもりはない。

 そもそも男がいなくなったとて、会社にはなんらの損失もありはしないのだ。

「ローガイは大人しく低周波治療でも受けておくか」

 男はそう独りごち、ロッカーから紙袋を取り出したあと「お疲れ様」と消え入るような声を残して部屋を出た。

    

    

低周波治療器〈2〉


 扉を閉めたところで、一段抜かしで階段を駆け上がってきた営業の梶田と行き会った。

 年若い梶田はさっぱりとした短髪の、見た目は好青年だが、若干年長者を軽んじるきらいがあった。男に対してだけではなく、全ての人間に対し、時に小馬鹿にするような眼差しを向ける。

 このときも「お疲れっす」と言葉にはしたが、立ち止まることも会釈することもなく、駆け上がった勢いのまま男の脇をすり抜けた。

 すれ違いざま、嘲笑するような梶田の口元が男の目に入り、まだ閉まりきっていない扉の隙間からは「ローガイ今日も早退? どっちでもいいけど」とその声が漏れ聞こえてきた。

 男は自嘲気味に溜息を漏らし、あと数日で居場所のなくなる三階フロアを後にした。

 エレベーターもない小さな自社ビルである。男は難儀していた。

 革靴を履いている時はまだいいが、サンダルのような社内履きで階段を上ると左足だけが脱げる。いわゆる垂れ足だ。

 多少回復していたヘルニアが、最近また男の左足を痺れさせていた。

 腰痛は当たり前のように日々そこにあって、普段より症状が悪いように思っても、本人すらそれが確かな感覚なのか分からなくなっていた。

「精神的なもので痛みを感じたりもするらしいよ」

 そう言ったのは、例の大学時代の友人だった。彼から男に連絡があったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。

「山口君って覚えてるか? かなり前だけど、躁鬱で仕事辞めたヤツの話したことがあったろ。この前偶然会ったんだ。仕事絡みであるフォーラムに参加したんだけど、講演会にそいつの名前があって驚いたよ。NPO立ち上げて鬱で仕事辞めた人たちの社会復帰をサポートしてるらしい。お前もそういう時期があったろう? その話をしたら一度ゆっくり会いたいって。ならとりあえず同窓会でもするかって話になったんだ」

 男は快活に喋る友人に、懸命に明るく返そうと努めた。それと反比例するように心のうちが暗く沈んでいく。

 お情けで恵んでもらった仕事に満足し、ただ見ざる言わざる聞かざるで日々を過ごしてきた男のなかに芽生えたのは、彼らに対する劣等感と自己否定。

 鬱々と重苦しいその感情は、怒りに近いほど凝縮したエネルギーを持っていた。男は自分のなかにそれほど激しい感情が残っていたことに驚きつつ、と同時に自分のことが恐ろしくなった。

 男はその激情の捌け口を知っている。

 その捌け口があるからこそ、それまで己の内に秘めた昏い感情を直視せずに来られたのだ。

「じゃあ、山口君のところで再就職しようかなあ」

 男の精一杯の強がりは、友人の心に引っかかることなく「俺もそうするかなあ」と軽口のやりとりで流れていった。

 以来、腰の鈍痛が度合いを増し、眠れない夜が再び訪れた。

 かかりつけの整形外科医に男がそのことを告げると、「痛みをやわらげる薬だけど、向精神薬としても使われてるものだから」と以前とは異なる薬が処方された。

 その処方箋を見て、男はその記憶にある薬の名に絶望と安堵を感じていた。

 ――結局、あそこから抜け出してなどいなかった。

    

    

低周波治療器〈3〉


 男が処方されたのは、かつて心療内科で彼が処方されたものと同じ薬だった。

 あのころ戦友だった妻は、今では一人外の世界を蝶のように飛び回っている。パートタイムの仕事と、友人との会食。あまりにも小さいその世界を、彼女はそれでもひらひらと楽しげに舞っていた。

 野に咲く花ではなく、自らの意思で世界を謳歌する妻の、その重荷になど男はなりたくなかった。

 花でもなく、草ですらない、いっそ地べたに転がるただの石のような自分に、蜜などひと雫も持ち合わせていない石ころに、妻が羽を休めることなどありえない。自虐的な妄想は、男のなかではすでに確信に変わっていた。

 空を見上げ、蝶の姿を追い続けるだけの、何の役にもたたない男。

 それでも彼は心のなかでいつも妻を求めていた。満たされることがないからこそ、より一層彼女を渇望した。

 精神論だけで幸福になどなれず、男のなかには確固たる肉欲があった。

 鬱屈した欲を抱えたまま還暦過ぎまで持ち越し、満足させてやれもしないセックスを妻に求めることを怖れた。彼女からの失望と憐憫を怖れた。

 怖れるほどに男は全てにおいて自信を喪失し、そういった時にはやはり「シンデレラ」を思い返すのだった。

 小柄で足の小さい妻は、「22.5センチって小さすぎて、あまり可愛いデザインがないのよね」などと言いながら、男のプレゼントする、可愛いというよりも品の良いデザインの靴を「素敵。相変わらずセンスがいいのね」と屈託ない笑顔で受け取った。

 男が贈った靴はいつの間にやら下駄箱から姿を消し、そこに並ぶ妻の靴を目にするたびに、男の胸はかすかに締め付けられる。それはありし日の恋心に似ていないこともなかった。

 妻を愛しているからだ。

 男がその秘密を抱えるとき、その罪を深くしていくとき、彼は必ず心の中でそう呟いた。

 声にはならず、けれど悲鳴のような呟きだった。そして彼はどこか冷静な思考の中で気づいていた。

 すべて言い訳だ。
 レンタル倉庫を借りる、その言い訳以外のなにものでもない。

 重ねる罪に救われながら、その重みは男をさらなる罪へと誘っていった。

 
    

低周波治療器〈4〉

 駅から男の自宅までの中間あたりにある整形外科が、男のかかりつけだった。

 昭和を彷彿とさせるレトロな外観で、建物自体ずいぶんな年代物だが、手入れが行き届いており寂れた印象はない。

 玄関先の鉢には、数種類の草花が活き活きと根付いていた。青紫の、小さなラッパが密集したような可憐な花や、夏の日差しを先取りしたような鮮やかな黄とオレンジの、よく街角で見かける花。それぞれにはちゃんと名があるのだが、男は花の名前などほとんど知らなかった。

 個人医院の名が白文字で書かれたガラス戸に手をかけ、男はその脇にひっそりと置かれた一つの鉢に目を留めた。

 日日草。

 男の妻は特にガーデニングが好きという訳ではない。それでも年に二度、庭先の小さな花壇の脇にしゃがみこみ、楽しげに花を植えた。夏前には日日草、冬前にはビオラ。

「可愛い顔して、逞しいわよね。ずうっと花をつけるのよ」

 一緒に日日草を植えたのはもう随分前のことだ。

 男が仕事をしていなかったあの頃、当時の記憶は歪で、ほとんど何も覚えていなかった。だがその中でパッチワークのように浮かび上がるいくつかの光景がある。

 台所に二人座り込み、涙を流す妻と、その瞳に映る自分の泣き崩れた姿。息子の、得体のしれないものを見るような眼差し。水切りかごの包丁。濡れた紫陽花。引き出しのカッターナイフ。妻が買ったタンポポ色のサンダル。庭に迷い込んだホタル。――日日草を植える、妻の横顔。

 男の手元から注がれるジョウロの水は、葉の緑と淡い彩りの花弁をくっきりと世界に浮かび上がらせた。

 植え付けた当初は土の上に点々とあっただけの花が、いつしか花壇いっぱいに息づいていた。飾り気などないさっぱりとした花の形が、男には妻と重なって見えた。


 ガラス戸を押し開けると、下足場の空気はひやりとしていた。待ち合い室はさらに涼しく、受付に座る五十半ばの女性は汗ひとつかくことなく「――さん、こんにちは」とにこやかな笑みを浮かべた。

 医師は父親から医院を受け継いだばかりの、ひょろっとした四十代の男だ。

 人好きのする垂れ目のその若い医師は、患者の大部分を占める高齢者の受けがすこぶる良かった。しかし男の相手をするのはその医師ではない。

 男は物言わぬ低周波治療器にコードで繋がれ、ぼんやりと時間を過ごす。発する声はピーッという電子音ばかりで、男の耳に入るのはその音と、男と同じようにコードに繋がれたり、寝台に寝そべってホットパックを当てたりしている爺婆の、やけに楽しげな病気自慢だった。

 受付の女性たちよりいくらか若い二人の女性看護師が、ときおりやってきては手を動かしつつ世間話をしていく。

    

低周波治療器〈5〉


 男はこの場所を居心地良く感じていた。

 ここは不要な人間すら温かく迎えてくれる。患者としてではあるが、気安い微笑みを向けてくれる。それは営業スマイルなのだと分かっていても、年寄りの扱いに慣れた職員たちの態度は適度に砕けていて、むしろ繕いのない素の姿に見えた。

「ねえちゃんの手ぇは、すべすべだなぁ」
「あらぁ、○○さんのお肌もつるつるですよ」
「つるつるはほれ、頭だろう」

 あっはっは、と広くもない院内のそこかしこから笑いが起こった。

 自然と男の頬も緩み、小さくくすりと笑いが漏れる。自分と関わりのないところでやりとりされる人の温かさが、男にとっては丁度よい距離だった。

 関わりを持つならば男は「不要」になるかもしれないが、最初から関わらなければ「不要」と判断されることもない。それに、男はここに居る人たちと安易に馴れ合う訳にいかなかった。

 それは「秘密」の為であり、「罪」の意識を少しでも軽くしようとする、男なりの足掻きだった。

 慎重にならなければ、男がそう胸に刻んだ瞬間、ピーと電子音が鳴った。

「――さん、終わりましたー? ちょっと失礼しますね。はい。じゃあ、待合のほうでお待ち下さーい」

 看護師にとって男は単なる患者の一人でしかないのだが、事務的な手つきであれ、男はときおり触れ合う肌と肌に僅かに心が解けるのを感じないではいられない。と同時に、満たされぬまま枯れようとしている自分がより一層惨めになった。

 男性扱いされたいなどとは思っていない、そう自分に言い聞かせようとしても、それは嘘だった。

 いつか達観して性欲など何処かへ消え去り、無我の境地に達することが出来ればいい。

 男はそんなことを考えて、一人苦笑する。

 ――達観できるような人間なら、あんなもの集めはしない。


 待ち合いの古臭い掛け時計は午後五時二十分をさしていた。

 年寄り達は午後五時を過ぎればほぼいなくなる。そのあと来院するのは会社帰り人間や、部活で怪我をした学生くらいだった。

 男がきょろりと待ち合いを見渡してみると、一時間前に比べて患者の平均年齢は三十歳ほど低くなっていた。

 水曜日の今日、その医院は比較的混んでいた。長く通院している男には、それは当然分かっていることだった。木曜の午後は休診である。そのため、水曜の夕方は毎週のように患者が集中する。

 男が以前アレを実行したのも水曜日だった。その時の戦果も妻に秘密のあのレンタル倉庫で眠っている。

 あれから四ヶ月。そろそろほとぼりも冷めた頃で、今日あたりが最適なタイミングだと男は踏んでいた。その為の準備もして来ている。

 それに、退職してしまえば「朝のうちに病院に行ってきたら?」などと妻に言われかねない。その懸念も男の焦りに繋がっていた。


【後編】低周波治療器〈6〉/低周波治療器〈7〉/目撃〈宮部智子〉/目撃〈梶田裕貴〉/定年退職の日/記事/日日草


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