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短編小説『羊のルンバ』全文無料



§1

 日高さんの鳴らす足踏みミシンの音は雨のようだ。雨の日に、一両列車の窓際にひとり座って、ぼんやり海をながめているみたいな。少し癖のあるリズムは、去年の地震のときに痛めた左足のせい。普通に歩いているけれど、足首が疼くと決まって雨が降るという。
「小苗ちゃん、今夜泊ってく?」
 手元で流れてゆく布地に目を向けたまま、日高さんがハスキーボイスで聞いてくる。黄砂の季節は喉をやられるらしい。数枚の古着を預かってパッチワークでリメイクするのが日高さんの仕事。避難所からこの家に戻ったとき、まっ先にミシンが無事かどうか確認していた。
 わたしには日高さんが何を作っているのかわからないし、聞いても教えてくれない。服が仕上がる前に何を作っているか当てられたら、わたしの好きなイングリッシュスコーンを焼いてくれる。当たらなくても焼いてくれる。
「スコーン、食べたいな」
 クスクスと声をもらして、日高さんは「太るわよお」とソファに寝そべるわたしのほうを振り返った。足踏みミシンの雨がやむ。
 羊のルンバが、日高さんの左足首にコツンと頭をぶつけて顔をあげた。日高さんは、ルンバの前足の脇に両手を差し入れて抱き上げる。猫と同じくらいの大きさのルンバの、ふわふわの毛の腹が灰色に汚れている。
「ずいぶん汚れちゃったねえ、ルンバ。春はホコリが多くて嫌ね」
 ルンバを床に降ろすと、日高さんは椅子から立ちあがってウンと伸びをした。細くて華奢な肩に、ゆるくまとめたくせ毛がかかっている。わたしの母親と同い年のはずなのに、わたしより小さくて、童顔で、少女のまま年をとったみたいだ。
「日高さん、スコーン作って。わたし、ケッター君漕いだあと、ルンバをお風呂に入れてあげる」
「ホント? いつもありがと」
「日高さん、ペダル踏むの痛いでしょ?」
「そうねえ。小苗ちゃんと会ってなかったら処分してたかもしれない。ミシンと違って、ケッター君のペダル重いんだもん」
 ルンバはゆっくりと首を上下しながら、ほとんどキレイになった床のゴミを探して歩く。メェと羊らしい鳴き声をあげて、日高さんが立ち上がった拍子に落ちた緑色の糸くずを食んだ。
 わたしはケッター君の前に折り畳み椅子を持っていき、浅く腰かけてケッター君のペダルを漕ぐ。ウィン、ウィンと耳障りな音がするけれど、日高さんはこの音が嫌いじゃないと言う。
 ケッター君本体の充電が終わると、スマホとタブレット、ラジオとランタンみっつを充電した。一時間ほどで作業を終えたころ、台所からバターの香りが漂ってくる。わたしはルンバを連れてお風呂に向かう。
 ペット掃除機のルンバは浴槽に沈めても溺れたりしない。でも、もし万が一溺れたりしたら嫌だから、生き物と同じようにルンバを扱う。日高さんもそうしているようだった。専用シャンプーを泡立てて汚れた毛を洗い、ぬるめのシャワーで洗い流し、いっしょに湯船につかる。
 ルンバは何度か気持ち良さそうに鳴いた。大学の寮に置いている、いかにもマシーンといった見た目のルンバとは大違いだ。平べったい円形のルンバにはスピーカーがあって、日本語を喋る。朝です、起きてください、とか、今日は花粉が多いようです、とか。口があるのにメェしか言わない日高さんのルンバの方が、存在に余白があるかんじがして心地いい。
「ねぇ、日高さん。この子は掃除機だからルンバ?」
 風呂上がりに聞くと、日高さんは「違うわよ」と妖艶な腰つきで手指をしならせてみせた。
「ルンバ、社交ダンスの」
「日高さん、社交ダンスなんてしてたんだ」
「昔ね。最初は衣装を作ってただけだったのに、いつのまにかつきあわされて」
 誰に、と聞かなくてもわかった。日高さんはあまり触れてほしくない顔をしている。
 白い皿に盛られた、きつね色のイングリッシュスコーンにわたしが手を伸ばすと、日高さんは冷蔵庫からクロテッドクリームとイチゴジャムの瓶を出してくる。半分に割ったスコーンにスプーンでクリームとジャムをのせてかぶりついた。座って食べなさい、とたしなめる日高さんの表情が、一年前とは違っている。ような気がする。
 わたしが素直に椅子に腰かけると、日高さんは赤く染まった窓を見て、日が暮れないうちにお風呂入ってくるね、と台所から出ていった。天窓から差し込む夕陽に、日高さんの裸体が赤く染まるところをわたしは想像する。
 明日は晴れるだろうか。追悼式は外だから、できれば晴れてほしい。
 白くなった毛玉が窓辺に寝そべっていた。充電が少なくなってくると、ルンバは日の当たる場所を探す。陽光の残るうちにエネルギーを蓄えて、そして一日を終える。太陽光で蓄電する仕掛けは家の中のいたるところにあり、窓辺の床に設置されている木目調パネルもそのひとつだ。数ミリの厚さにつまずくのはわたしか日高さん。ルンバはけっつまずいたりしない。
 ルンバの隣に座ってやわらかな毛をなでていると、ケッター君の横に投げっぱなしにしていた、水玉模様のわたしのスマホが鳴った。腹ばいになって手を伸ばし、確かめてみると寮生の友平(トモヒラ)からだ。
 電話が苦手なわたしには、友平がいつもメールではなく電話をかけてくる意味がわからない。タイミングがあわなければ取れないし、メール以外の着信履歴は残らないようにしてると説明しても、「とりあえずダメ元で」とか言いながら電話をかけてくる。無視しようか迷ったけれど、日高さんはまだお風呂からあがってきそうにない。
 電話を取ると、「お、めずらし」と友平の声がした。
「うん、暇つぶし」
「暇つぶしって、なんだよ」
 友平の鼻息が聞こえ、わたしはスピーカーに切り替えて仰向けに大の字になった。床にスマホを置くと、ルンバが立ち上がって画面をのぞきこむ。ゴミではないと判断したのか、大人しくわたしの側で体をまるめた。
「小苗、今夜は?」
「言ってなかったっけ? 日高さんとこ泊る。寮監に伝えて」
「いいけど、そんなにしょっちゅう泊まらせてもらって日高さん迷惑じゃないの? 立場わきまえろよ」
「立場って?」
「日高さんが大学の避難所にいたのは一年前のことだろ。手助けするのはいいことだけど、恩着せるようなことして逆に日高さんの負担になってるんじゃないかってこと」
「そうかなあ。友平だってわかるでしょ。このご時世、女のひとり暮らしって大変なんだから」
「だからって、図々しく夕飯食わせてもらって泊まり込むボランティアがどこにいるんだよ」
「ここ」
 呆れ気味のため息が聞こえる。わたしがボランティアの延長で日高さんの家を訪れているのだと友平は思っているから、仕方ないと言えば仕方ない。勘違いさせるような言い方をしているのはわたしだ。
「寝坊して追悼式送れんなよ」
「わかってる」
 じゃあまた明日な、と素っ気ない友平の声が聞こえて通話が切れた。
 お節介で、心配性で、そのくせ笑顔が下手くそで、不器用な友平はわたしのことが好きらしい。そんな噂が寮内で流れている。本当かどうか確かめるつもりもないし、告白されたりとか襲われたりとかすると困るから、こうやって日高さんちに泊まるのは色んな意味で有効で有意義だ。
「恋しちゃった、の。あたしは今、生きているぅ」
 口ずさんだら、「誰の歌?」と日高さんの声が降ってきた。寝そべったまま顎をそらすと、風呂上がりの日高さんが部屋の戸口でこっちを見ている。ルンバの毛の色と似た柔らかい白の、シルクのパジャマ。頬が夕陽みたいに赤く染まって、わたしより二十五才も年上なんて冗談みたい。
「ニアって歌手。最近流行ってるんだけど、日高さん、知らない? 『セブンティーン』」
「テレビ観ないからなぁ」
「わたしも観ないけど、大学の友だちが教えてくれるの。すっごく昔の曲のカバーなんだって。たぶん、日高さんも生まれてない」
 オリジナルを歌っていた歌手は、きっと十七才のときにこの歌をうたったのだろう。その人は今、生きている?
「あたしは今、生きているぅ」
 わたしの歌声にあわせるように、ルンバがメェと鳴いた。いつの間にか、窓の外はずいぶん暗くなっている。
「ライト取ってくるね」
 立ち上がって玄関に向かうと、後ろから日高さんの鼻歌が聞こえてきた。あたしは今、生きている――の、ちょっと調子っぱずれのメロディー。わたしは生きてるし、日高さんもこうして生きている。
 玄関先に広げていた二本のパラソルライトを畳んで、持ち手のスイッチを押して充電モードをオフにした。今日は花粉が舞っていたから、使う前に一度拭いた方がいいかもしれない。
 戻ろうとするとキャンと犬の鳴き声がする。垣根の向こうで「こんばんは」と会釈したのは、たまに声をかけてくるご近所さんだ。日高さんよりもひと回りくらい年上の男性で、犬を連れているときと連れていないときがある。
「こんばんは、散歩ですか?」
「ええ、そうなんですけど。この時間になると少し肌寒いですね」
 彼はしゃがみこんで犬を抱き上げ、不審者ではないことを証明するように垣根の上からわたしにチワワを見せた。チワワは目が合うとキャンキャンと甲高い声で吠え、飼い主が地面に下ろしても低い声でうなっている。
「かわいい番犬ですね」
「すいません。去年の地震から妙に憶病になっちゃって」
「ああ」本物の犬なんですね、と口にする前に、以前この男性が道端でフンの始末をしていたのを思い出した。防犯用の番犬ではなく、本当に犬の散歩らしい。
 男性がふと家のほうに向かって頭を下げ、つられて振り返ると窓辺に日高さんが立っていた。タオルをかぶったまま愛想よく首をかたむけ、ふいと視線をそらす。
「今から夜ごはんなんです、じゃあ」
 男性の返事を待たず、わたしは背を向けて玄関のドアを開けた。小走りに部屋に戻ると日高さんはまだ窓辺に立っていて、足元にはルンバが眠っている。
「小苗ちゃん、見て。月がきれい」
 パラソルを手に持ったまま日高さんの隣に並ぶと、小柄な日高さんがわたしの肩に頭をのせた。お酒の匂いがする。道向こうの家の、三角屋根の上に月がわずかに顔を出していた。
「明るい。満月かな。玄関からは見えなかった」
「満月は明日の夜。今夜は一日まえ」
「ふうん」
 気が変わった。明日は雨になればいい。
「小苗ちゃん、明日は晴れるかなあ」
「夕焼けは晴れっていうから、朝は晴れるんじゃない?」
「夜も晴れるといいなあ」 
 わたしは返事をせず、パラソルを開いて汚れを拭き、一本を天井のフックにひっかけた。ちょうど、傘を逆さまにしたようになり、傘の先の部分を押すと全体がボウッと黄みがかった淡い光を放つ。ルンバは頭をあげてメェとひと声鳴くと、じぶんの毛に顔をうずめて眠りについた。
「日高さん、あんまりパジャマとかで窓辺に行かない方がいいと思う」
 台所でテーブルを囲んでいるときに口にすると、思っていたのとは違う反応が返ってきた。日高さんは確信犯めいた笑みをうかべ、クスクス笑っている。
「どうして笑うの? 日高さん、女の一人暮らしなんだから危ないよ」
 わたしあの人キライだもん、と日高さんはとんがった言い方をした。めずらしくお酒を飲んでいるのは、たぶん明日が一年だから。一年の追悼式だからだ。
「犬の散歩コースです、みたいな顔してね、いつもうちの中をのぞくのよ、あの人。二人で暮らしてたころから」
「警察に言えば?」
「なにか盗られたりしたわけじゃないし、家に入ってくることもないし。たぶん、興味本位? っていうか。あの人が来るのを見計らって、窓辺で抱きあってキスしたことがあるんだけど、あの人慌てて通り過ぎてって、そのあとしばらく姿見なかった」
 生乾きの髪が数本、上気した日高さんの頬に張りついていた。日高さんはうつろな目で琥珀色のお酒が入ったグラスをながめ、カランと氷の音をさせて飲み干す。彼女の手はためらいなくボトルの蓋を開け、氷の上にたらたらと琥珀色の液体を注いだ。
「たぶん、一年も経たないうちに若い子連れ込んでって、思ってるのよ」
「わたしが押しかけてるだけなのに」
「そういう意味じゃなくて。まあ、小苗ちゃんにはわかんないほうがいいか。十七才の、将来有望な若者なんだから」
「意味、わかってるよ」  
 わたしが日高さんのグラスに手をかけると、彼女は「ダメ」とわたしの手ごとグラスを掴んで動けなくした。すこし力を込めれば簡単にグラスを奪ってしまえそうだけど、テーブルの上が酒浸しになりそう。
「未成年にお酒を飲ませるわけにはいきません」
「母親みたいなこと言う」
「そんな年齢でしょ?」
「うちの母親は、ぜんぜん日高さんみたいなかんじじゃなかった」
 日高さんの手がグラスから離れ、テーブルの上に身を乗り出してわたしの頭をなでた。
 年月とともに両親との思い出が薄らいでいって、純化していく母親の姿はたまに日高さんと重なる部分があるように思える。こんなふうに頭を触られた記憶がもともとあったのか、いま日高さんの姿を母親に重ねて捏造したのか。
「日高さんは、お母さんとは違う」
「親じゃなくても、大人として未成年にお酒を飲ますわけにはいかないなあ。二日酔いで追悼式はダメでしょ?」
 自分のことは棚上げにして、日高さんはおいしそうにウィスキーを舐めた。少女みたいな顔に、いつもとは違う大人の、男を誘うような隙を見せて、どこか寂しげにグラスに口をつける。
「日高さん、明日も泊りに来ていい?」
「明日? 明日かあ。明日は明日の風が吹くっていうしね」
 少女の顔をして平気でかわす日高さんと、子どものふりをして押しかけるつもりでいるわたし。


§2

 タタッタタッと、跳ねる足音で目が覚めた。寝室のカーテンは開けられていて、布団をかぶったまま上半身を起こしたら、ベッドのそばでメェと物欲しそうな声がした。晴れた朝のルンバは元気がいい。
「おはよ、ルンバ」
 頭をなでると、満足した様子でおしりを向けて部屋から出ていった。日高さんが昨日のスコーンを温めなおしたのか、廊下から漂ってくる空気がいい匂い。平屋の小さな家だから他の部屋の声も匂いも筒抜けで、「小苗ちゃん起きた?」と、ルンバに話しかける日高さんの声が聞こえてくる。
 寝室のカーテンレールの端には、夜の名残みたいに黒い服が一着かかっていた。ふと思いついて、わたしはパジャマのまま台所に顔を出した。
「日高さん、追悼式に着ていける服、ない?」
 ザルの中で、茹で上がったばかりの薄黄緑のキャベツが湯気をあげている。日高さんは「どうかなあ」とあいまいな顔をして皿にキャベツをつけると、スリッパの音をさせて寝室に向かった。
 寝室にあるのはキングサイズのベッドと、窓の下に背の低いチェストがひとつ。それだけで部屋はいっぱいだけど、奥にウォークインクローゼットがあった。日高さんはドアを開けて中に入り、わたしはベッドに腰かけて彼女が出てくるのを待つ。小苗ちゃん、ちょっと、と声がした。
「入っていいの?」
「うん」
 中を見たいと言ったら恥ずかしいからダメと断られたことがある。だから、入っていいと言われると逆に身構えてしまう。日高さんのプライベート、日高さんの秘密、日高さんの過去、日高さんの、心。みたいな。
 中をのぞくと、日高さんはコロボックルみたいに見えた。部屋中にぐるりと吊るされた色とりどりの服に埋もれて、エプロン姿の日高さんが立っている。小さくて、かわいくて、この人絶対二日酔いじゃないと思う。
 普段目にする日高さんの服、くたくたに着古したかんじの、たぶん仕事で預かっている服、それから、たくさんのカラフルなドレス。日高さんが恥ずかしいと言ったのはドレスかもしれない。
 ドレスの奥に、カバーをかけて、際立って丁寧にしまわれている一角があった。日高さんが手に持っているのは、おそらくそこにかかっていたうちの一着だ。
「これなら小苗ちゃんでも入ると思う」
 濃いグレーのワンピースは、袖の部分が薄く透けていた。
「ラジオで今日は暑くなるって言ってたから、これくらいがいいんじゃないかな」
「ねえ、日高さん。本当に着てもいいの?」
 なんとなく、日高さんが結婚していた人はわたしと同じくらいの背格好ではないかと思っていたし、クローゼットの中にはその人の服がしまわれているとわかっていた。もしかしたら、わたしは断って欲しかったのかもしれない。小苗ちゃんには大きいとか、似合わないとか、適当に嘘をついて。
「この服、たぶん一回くらいしか着てないの。デザインがかわいすぎるからって。小苗ちゃんなら若いし、ピチピチだし、似合うと思うんだけどな」
「ねえ、日高さん。わたし、ここに入らないほうがよかった?」
 声が震えてしまった。だって、日高さんの顔が違う。なにか、どこか、諦めてしまったみたいに。わたしは、わたしと日高さんとのあいだにあったやわらかな緩衝材みたいなものを、ギュっと握り潰してしまったのかもしれない。
「衣装を見られるのが恥ずかしかっただけだから。社交ダンスやってたことは昨日話したし、もういいかなあって」
 日高さんは「はい」とわたしの胸に服を押し付け、寝室を出ていった。スリッパの音が止まり、「小苗ちゃん先に朝ごはんにしよう」と、いつも通りの声が聞こえる。わたしは日高さんに似合いそうな淡い桜色のドレスに手を伸ばし、寝室のカーテンレールの、喪服の隣にひっかけた。やっぱり、雨は降りそうにない。
 顔を洗ったあと天井のパラソルライトを外して、日高さんのいる台所をのぞいた。
「日高さん、パラソル充電する?」
「うん。玄関に置いといてくれる?」
 玄関マットの上に、ルンバが寝転がっていた。ゴロン、ゴロンと、かゆいところをこすりつけるような動きは、小動物が砂浴びしているみたいだ。ペット掃除機の保証期間はだいたい一年、耐用年数は五年で、ルンバはたしかこの家に来て三年目と言っていた。
「ねえ、ルンバ。君の名づけ親は日高さん?」
 ルンバは無心に毛をマットにすりつけるだけで、返事をする気はないようだった。天窓の摺りガラスの向こうが青い。わたしは玄関先に二本のパラソルライトを広げ、台所に戻った。
 朝食を済ませたあと、ワンピースに着替えてミシンの置いてある部屋に顔を出すと、日高さんはソファに座ってケッター君を漕いでいた。ウゥゥイン、ウィン、と頼りなげな機械音が響いている。
「どうしたの、日高さん。足、痛くない?」
 ソファだとペダルとの高低差がなくて、ずいぶんやりにくそうだった。日高さんは足を止めないまま、たまにはね、と笑顔を見せる。
「使わないと、ダメになっちゃうから」
「わたしが帰ってからするのに」
「だって、小苗ちゃんも色々あるでしょ。学生だし、年頃だし、追悼式の準備とか、片付けとか、いろいろ」
 ウゥイン、ウィンと音だけが部屋を満たして、日高さんはそれ以上何も言わず手を振った。いってらっしゃい、というより、バイバイ、みたいに。
「追悼式、一時だからね」
 わたしが言うと、彼女はまた手をヒラヒラと振った。居たたまれなくなり、「じゃあね」と言い残して部屋を出る。足音に反応したのか、廊下の隅でルンバが頭をあげた。
「ルンバ、いってきます」
 わたしの声にメェと返事をすると、草を食むような仕草で羊はわたぼこりをついばんだ。
 セミフォーマルなワンピースに、リュックとスニーカーという格好はいかにもちぐはぐで、ちょうど通りかかったバスに手をあげて飛び乗った。まだ朝の九時なのに、日差しは真昼のようにまぶしい。駅でスクールバスに乗り換えて寮に戻ると、食堂も談話室もシンとして、学生はみんな出払っているようだった。行先はわたしと一緒、追悼式の手伝いだ。
 部屋の、ベッドと机のちょうど真ん中に充電の切れた円形のルンバがいた。ピクリとも動かず、主人の帰宅にも気づかない。カーテンを開けるとピッと音をさせ、赤いランプを二度点滅させたけれど、まだ喋ることはできないようだった。
 カーテンレールの隅で、着るつもりだった喪服が揺れている。わたしは黒いストッキングを履き、準備していたパンプスとフォーマルバッグを手に部屋を出た。友平から電話があったのは集合時間の十分前。
「寝坊してないかと思って」
 スマホで友平の声を聞きながら、わたしは講堂の入り口に立っている彼に手を振った。気づいた友平は耳に当てていたスマホをポケットにしまい、物珍しげにわたしを見る。
「友平、視線がオッサン」
 わたしが言うと、馬子にも衣装、とお約束の返事が返ってきた。礼服姿の友平は二十二才という年齢にそぐわしく、ちゃんと大人っぽい。
 講堂に集まったボランティアの中には高校生もいて、わたしと同じ十七才の子もいるのかもしれないけれど、みんな制服姿だ。ここが避難所になっていたとき、ボランティアの高校生たちはジャージ姿だったことを思い出した。わたしもそのときはジャージを着ていたけれど、学校名の刺繡のない、ただの部屋着だった。
 十七才で大学生というのは今でもまだめずらしく、十五でここに来たときはもっとめずらしがられた。大学の友だちといるとき高校生と出くわすと、たいてい何か言われる。青春しなくていいのか、とか、混じってくれば、とか。悪気はないのだろうけれど、あれはわたしが失ったものだから、だから、いつも愛想笑いしかできない。すっぴんにジャージより化粧している今の格好のほうがマシに思えるのは、大人側にいても許される気がするから。
「小苗、同い年の友だちとかいないの?」
 段ボール箱を抱えて受付テントに向かう途中、友平が話しかけてきた。一緒にいた寮生たちが、気を利かせているつもりなのかわたしと友平から距離をとろうとする。二十二才と十七才なんてありえない、とは誰も思わないらしい。冷やかしなのか、誰かの「恋しちゃった、の」という鼻歌が聞こえた。
「いないよ。わたしの出身、州外だって言わなかったっけ? 大学からこっち」
 あ、そうなんだ、とバツが悪そうに友平が咳払いする。
 友平がなにかと世話をやいてくるようになったのは、一年前の地震のあとだ。寮の玄関から見上げた空が恐ろしくて震えが止まらなくなった。町のいたるところで停電しているのに投光器で照らしたような明るい夜空が、わたしの両親を奪った小学生のときの大地震と同じだったから。両親がいないという話はそのとき友平にした記憶がある。
「段ボール、重くないか?」
 優しくて、不器用で、わたしのことが好きな友平は、わたしに同情している。
 追悼式が催される広場には、この大学出身の地元彫刻家が寄贈したというモニュメントが、白い布をかぶって中央に鎮座していた。参列者用のパイプ椅子はモニュメントを丸く囲うように置かれ、会場には遺族や関係者がぞろぞろと集まり始めている。記帳所に列ができ、献花台の花も山積みになった。
 わたしは数人の寮生と一緒に腕章をつけ、「奥へどうぞ」と参列者を案内していった。制服の高校生たちは割り当てられたところに座り、ご着席くださいますよう、とアナウンスが繰り返されている。あと五分ほどで式典が始まるというのに、会場に日高さんらしき人影は見えない。代わりに、来賓席に見知った顔を見つけた。
「日高さん、来てた?」
 背後から友平の声がし、わたしは手招きする友平について寮生たちが集まっている記帳所の裏に向かう。
「日高さんは見かけなかったけど、日高さんのご近所さんが来てる。あの、来賓席のところ。今立ち上がった」
「あの人? 小苗、知らなかったっけ。モニュメントの製作者」
 わたしは思わず立ち止まり、目を凝らして白髪交じりの男性を見た。日高さんが「あの人キライ」と言っていた、チワワの飼い主だ。
「去年の地震で息子さんと愛犬を亡くしたんだって」と友平。
「愛犬?」
「息子とね」
 なんだか腑に落ちずフウンと漏らすと、友平は鼻でため息をついてわたしの手を引いた。
 式が始まってからも黒い服を着た人たちがふらりとやってきては記帳し、そのたびに寮生の誰かが空いた席へと案内した。日高さんがやって来たのはちょうどモニュメントの除幕がされようというときで、彼女はわたしを見つけるとあたりまえのように寮生の群れに加わり、ワンピースの透けた袖をつかんで「ねえ、あの人」と、モニュメントの傍に立つご近所さんをおかしそうに指さした。
「どうしてあの人、あんなところにいるの?」
「製作者なんだって」
 わたしが教えると日高さんは信じられないという顔で「へええ」と声を殺して笑った。黒い日傘がいかにも時代モノの映画に出てくる未亡人のようで、陰になった笑顔と、わたしの腕に触れる彼女の指が不道徳なものに感じられる。
「お久しぶりです、日高さん」
 友平の声で日高さんの笑みが変わり、彼女は大人らしい控えめな微笑を口元にたたえて会釈した。日高さんの手が、わたしから離れた。
「小苗がいつも押しかけてるみたいですけど、ご迷惑じゃないですか?」
 日高さんはすこし考えるように小首をかしげ、「友平君が来てくれたのって、もう半年くらい前だったかしら?」と答えにならないことを言う。
「まだ松葉杖をついてらしたころです」
「じゃあもっと前ね。服装が違うせいかしら、友平君、ずいぶん大人っぽくなった」
 わたしと二人きりのとき以外の日高さんは、そういえばこんなふうだった。童顔なのは変わらないけれど、少女っぽさなんてなくて、どこか挑発的。昨夜、あのご近所さんが帰ったあとも似たようなかんじだった。
 あんなかんじ、こんなかんじ。二人でいると楽なのに、わたし以外の人に見せる表情は仮面のような、本性のような、どちらにしても胸がザワザワして落ち着かない。
 拍手が起こり、ふと見るとモニュメントの幕が外されていた。彫刻家の作品と言われても首をかしげてしまうような、何の変哲もない白っぽい球体が、薄平べったい御影石の台座に載っている。距離が離れているから細かい意匠はわからないけれど、戸惑いを覚えたのはわたしだけではないようだった。寮生も、近くにいた他のスタッフも、「球?」「へえ」と褒めるでもなく、けなすでもなく、リアクションに困っている。
「月ね」
 日高さんがポツリと口にして、その声がわたしを含めた近くの数人に届いた。なるほどね、と誰かがささやく。
 マイクを手にしたご近所さんは、日高さんが言った通り、あの夜の満月なのだと説明した。ぜひ触れてみてください、と。月が、奪われていった命を思い出させてくれる、月明かりが遺族を慰めてくれる、と。
「嘘だ」
 わたしがつぶやくと、友平がポンと肩を叩く。
「ねえ、日高さん。わたしあの人キライ」
 日高さんはクスクス笑って日傘をたたむと、まぶしそうに目を細めて参列者用のパイプ椅子のほうに歩いていった。
 日高さんは遺族だ。一年前の地震で伴侶を亡くし、左足首に傷を負った被災者。わたしは今世紀最大の大地震で両親を亡くした孤児で、明るすぎる夜空も、青すぎる昼空もきらい。そのあとには闇が待っているから。
 日高さんの足踏みミシンの音が聞きたくなった。この町に来た日、列車にひとり揺られ、車窓を過ぎていく満開の桜が海を背景に雨に煙っていた。雨が好きなのは泣きたくても泣けないから、とか、たまに感傷的になる。
「黙祷」
 サイレンの音を聞きながら、わたしは広場の真ん中に鎮座する球体を睨みつけた。目を閉じてしまうと、あの夜の満月が迫ってくる。忘れるな、忘れるなと、本人のものだったかもあやふなや両親の声が、頭の中にこだまする。
「あっ、たしはまだ、生きているぅ」
 小声で口ずさむと、友平に肘で小突かれた。
 恋しちゃったの、あたしはまだ、生きている。あたしはまだ、生きている。歌い続けていると友平の手のひらが頭をなで、わたしは首をひねってその手から逃れた。
「セットが乱れる」
 参列者の円の、最後列にいる日高さんの頭が退屈そうにゆらゆらと揺れていた。


§3

 講堂の裏にある倉庫にパイプ椅子をしまい終えると、もう終わっていいってさ、と誰かが言って、ぐだぐだのまま作業は終了した。真っ昼間の肉体労働で服の下は汗だくになり、ワンピースの脇の部分に染みができている。
 追悼式があった広場では、青い芝生のまん中に球体が白く太陽光を反射し、いつのまにかスプリンクラーが回っていた。わたしは寮へ向かう友人たちからはぐれ、涼しげな草と土と水の匂いに誘われてモニュメントに触れた。遠くから見るとつるんとした滑らかな球に見えていたけれど、表面には無数の点で何か描かれている。天の川のようにも見えるし、その一部はこの町の形をしているようにも見えた。人のようなものとか、チワワのようなものとか、見ようによってはなんにでも見える。台座に文字が刻まれているのに気づき、わたしはその場にしゃがみこんだ。
「月」
「ひねりのないネーミングだな」
 振り返るとすぐ後ろに友平が立っていた。
「日高さんは帰ったのか?」
「そうみたい。わたし、服返しにいかなきゃ」
 反射的に、わたしの口が嘘をついた。こんな汗まみれのワンピース、クリーニングに出してからじゃないと返すわけにいかない。友平はあからさまに疑っているような顔をして、「行くって約束したのか?」と聞いてくる。
「はっきりとは約束してないけど、ほら、いつもそんな感じだし」
「泊まるのは遠慮しろよ」
「べつに、友平に関係ないじゃん」
「心配なんだよ。去年のことがあるから」
「そんなの、もう平気」
 勢いをつけて立ち上がると、日差しにやられたのか視界が暗くなった。友平の手がここぞとばかりにわたしに触れて、「いいよ」と押しのけても彼の使命感と下心はわたしを放っておいてくれない。おぶろうとしたから、逃げるように肩を借りた。汗が染みた友平のシャツに手をかけると、急に倦怠感が押し寄せてきて、気づくと寮のベッドで仰向けになっていた。
 カーテンが開いている。喪服と、その横に日高さんに借りたグレーのワンピース。窓の外は暗くなっていた。
「何時だろ」
「十九時、四十七分です」
 ルンバがテーマパークの着ぐるみみたいな声で答える。
「月は出てる?」
「月の出は十九時一分。今夜は快晴、満月です」
 机の上の友平の書き置きに、また後で様子を見に来るとあった。スマホにはメッセージが数件届いていたけれど、日高さんからのものはない。わたしは誰に着させられたのかもわからない部屋着をティーシャツとズボンに着替え、フォーマルバッグの中身をリュックの中にひっくり返し、部屋を出た。
 忍び足で階段を降りる。玄関の手前で「小苗」と呼び止められ、振り向くと友平が食堂から顔を出していた。駆け寄ってくる友平に背を向け、慌てて下駄箱からスニーカーを出す。
「お前、昼からなんも食ってないだろ」
「お腹へってない。すぐ戻るから」
「嘘つけ」
 友平は容赦なくわたしのリュックをつかみ、中に引きずり戻そうとする。食堂からも、その向かいの談話室からも野次馬が顔を出し、痴話喧嘩かあ、とせせら笑いが聞こえて友平がキレた。
「ほっとけ!」
 声を荒げる友平なんてめったに見られない。野次馬たちはシンとなり、その反応に動揺した友平の隙をついて、わたしは縄抜けするようにリュックから腕を抜いた。スマホはポケットにある。
「あ、こら、小苗」
 こら、って怒られるのはいつ以来だろう、とか考えると笑えた。スニーカーを突っかけて玄関からまろび出ると、大学を囲うように植えられた人工林の、東側の空が明るく輝いている。
 学内を周回して最寄り駅に向かうスクールバスは、たしか八時が最終だったはずだ。停留所は寮の敷地を出れば目と鼻の先。スマホを握りしめて駐輪場を横切り、守衛室が見えたところで門柱の向こうをバスが遠ざかっていくのが見えた。
 足を止めると、グウとお腹が鳴る。リュックの中には水とチョコレートとドライフルーツが入れてあるのに、そのリュックが今は手元にない。
 もし今、地震が来たら。スマホを確認すると、充電は三十パーセントを切っていた。バッテリーもリュックの中。電池がもったとしても災害時はだいたい接続が悪くなるし、両親が死んだあの大地震のときは二日後の噴火でネットが役にたたなくなった。日高さんは、あの大地震の夜どこにいたんだろう。わたしと同じように、絶望の中で満月をながめていたのだろうか。数日後には灰に覆われるとも知らずに。
 気づけば、焦燥感がわたしを走らせていた。亡くなった人の身代わりでもいいから、わたしがそばにいてあげたい。あのワンピース、着てくればよかった。
「友平のクソバカ。勝手に脱がせないでよ」
 声に出したとき手の中のスマホがブルブルと震えて、クソバカ本人から着信があった。わたしは無視して走り続ける。スマホはブーブーと振動音を響かせ続けている。
 広場のモニュメントは、数か所あるソーラーライトでぼんやり照らされていた。月の彫刻を全方位から照らすなんて情緒に欠ける。それとも今夜が満月だから、どこから見ても満月になるよう照らしているのだろうか。
 カラカラと音がし、振り向く前に友平の声が聞こえた。自転車のブレーキが、キーッと痛々しい音をたてる。
「帰らないよ」
 言い捨てにして顔をそむけたままでいると、友平は自転車から降り、隣に並んで歩いた。
「何をそんなにムキになってんだよ」
「行くって言ったんだもん」
「日高さんとこ? はっきり約束したわけじゃないって言ってただろ」
「だって、一人なんだよ、日高さん。今夜は、ひとりはダメ」
 友平が「なんか妬けるなあ」と一人言っぽくつぶやいた。わたしは足を速め、友平の好意から逃げる。
「乗っけてってやるから」
 わたしの数メートル後ろで、友平は片足をついて自転車にまたがっていた。背負っていたわたしのリュックをおろし、「ほら」と餌で釣るように差し出してくる。
「乗っけてってやる。そんで、帰りも連れて帰ってやるから。早く後ろ乗れ」
「泊まるかもしれないから、帰りはいい」
「ぶっ倒れて飯も食ってない子どもの世話を、日高さんにさせるのか?」
 友平がまたため息をついた。大人しくリュックを受けとって後ろから友平にしがみつくと、カレーの匂いがする。
「お腹すいた」
「じゃあ、戻るか?」
「いい。チョコレートあるから」
 わたしがチョコレートを口に入れたのを見届けると、友平はペダルに体重をかけて自転車を進めた。
 学内の人工林を抜けると国道に出る。道を横切って商店街に入り、シャッターの閉まりはじめたアーケードを抜け、住宅地と、農地とを、まばらな外灯の明かりとエアナビをたよりに日高さんの家に向かった。雲のない夜空に、円形の光が少しずつ姿を現してくる。月は、あのモニュメントとはまったく似ても似つかず、平べったい円盤にしか見えない。
「小苗」
 名前を呼ばれ、友平にまわした手に力がこもっていたことに気づいた。
「ねえ、友平は月フォトって知ってる?」
「月フォト? 月明かりプロジェクターのこと? いつだったか寮の肝試しで使った」
「あれのパネルタイプのがあってさ、昼間は蓄電に使えて、夜は月明かりプロジェクターになるの」
「それが?」
「日高さんちにあるんだ」
 どう答えていいかわからないのか、友平はフウンとうなっただけだった。
 一度だけ、日高さんが月フォトで窓に映像を映しているのを見たことがある。夜中に目が覚めたら隣に日高さんがいなくて、少しだけ開いていたドアの隙間から日高さんの声が聞こえてきた。電話かと思ったけれど、足音を忍ばせて様子をうかがうと、日高さんが月フォトで窓に映したあの人に話しかけていた。満月までには数日足りず、月光が十分ではないから映し出された女性はいかにも幽霊じみて見えた。思わず叫び声をあげそうになるくらい。
 満月の夜、日高さんは「泊まってく?」と聞いてくれない。月フォトに話しかける姿を見たとき、そのことに気づいた。
「小苗は、日高さんのことが好きなんだな」と、友平がわかりきったことを言う。
「今さら」
「まあ、それはそうだ」
 わたしが日高さんを母親のように思っている、とでも考えているのだろう。それで納得してくれるならいい。
 ビニールハウスの並んだ区画を抜けると、日高さんの住む住宅地に入った。垣根で囲われた平屋の家々はどれも同じに見えるけれど、友平は右耳にひっかけたイヤホンのナビに従ってハンドルを切り、わたしはちゃんと日高さんに近づいている。じきに見慣れた通りに出て、月が自転車と並走する。友平は、日高さんの家の手前で自転車を停めた。
「行く前に電話してみたら?」
 わたしは首を振って自転車から降りた。さっきまでの使命感が噓みたいに、日高さんの家のドアを叩くのが怖い。
「たぶん、この時間ならいつもの部屋にいるはずなんだ。道から見えるから、様子見て帰る」
「いいのか?」
 うなずくと、友平は自転車から降りてわたしについて来た。カラカラという車輪の音が、妙に大きな音で路地に響いているような気がする。
「普通にしてろ、普通に」
 日高さんの家は隣の家よりも垣根が一段低くて、わたしは目だけをのぞかせるように少し頭を引っ込めた。わたしより背の高い友平の方が平然としている。
「電気、ついてなくない?」
 視線を道の先に向けたまま友平が言った。昨日、パジャマ姿で月をながめていたその場所に日高さんの姿はなく、部屋は真っ暗だった。
「出かけてるのかなあ」
 そのとき、奥の部屋の電気が消えたのか家のまわりに漂う闇が濃くなり、しばらくして、視線の先にある窓ガラスがぼうっと明るくなった。パラソルライトを手にした日高さんが、窓のすぐ側にあらわれる。
「なんか、雰囲気が」と、友平が言葉を詰まらせたのは、日高さんが大胆なスリットの入った丈の短いドレスを身にまとっていたからだ。わたしがカーテンレールにかけた桜色のドレス。朝見たときとは違い、たよりないパラソルライトの光では夜桜のように妖艶な雰囲気をまとっている。
 日高さんはパラソルをたたんでスティック状にし、光の棒を手にしたまま窓辺にしゃがみ込んだ。窓に、スレンダーな女の人の姿が映し出される。わたしがたまにつまづいてしまう、パネルタイプの月明かりプロジェクター。
「幽霊みたいだな」
 友平が唾をのむ音が聞こえた。日高さんが顔をあげ、わたしは思わず垣根の陰に頭を引っ込める。ふたりで息をひそめていたけれど、しばらくして友平がそうっと頭をあげて様子をうかがった。
「大丈夫、月を見てるみたい。こっちには気づいてないけど、怪しまれないように少し先に行こう」
 わたしは友平の自転車について歩き、垣根がないところではまっすぐ前を向いて家の前を通り過ぎた。そのあと、スタンドを立てて自転車を停める友平をおいて、そっと後戻りする。
 月明かりプロジェクターは、高解像度の動画投影には向かない。蝶が舞うとか、魚が泳ぐとか、花びらが散るといった、影絵のような映像が用意されているけれど、日高さんみたいに写真を投影する人もいる。主に、故人を偲ぶために。そういう人たちは、月明かりプロジェクターではなく月フォトと呼ぶ。
 日高さんは、パラソルライトを相手に踊っていた。わたしの知っている少女のような日高さんはそこにはおらず、満月の夜に一人寂しがっていると心配したのはわたしの一人よがりだった。
「日高さんは、ひとりでも大人なんだ」
 このまま帰ろう、と友平のほうを振り向くと、友平は仏頂面でわたしの腕をつかみ、引きずるようにして日高さんの家の敷地に足を踏み入れた。日高さんが驚いた顔でこっちを見ている。窓に映る亡霊をはさんで日高さんの正面に立ち、目を合わせられないわたしの代わりに友平が頭を下げた。
 カラカラ、と窓が開く。音楽が流れていた。どこか、日高さんの足踏みミシンのリズムに似て、ニアの『セブンティーン』とはまったく違う、ゆっくりとした曲。
「すいません、こんな時間に。小苗が、日高さんのことが心配だって言うから」
「そう」
 日高さんはドレスの裾を押さえてしゃがみ、わたしの視界に入ってきた。少女みたいな童顔でわたしに微笑みかけるのは、きっと、わたしが子どもだから。子どもをあやすように、わたしに笑いかける。
「ねえ、小苗ちゃん。これ、似合ってるかなあ」
 わたしがうなずくと、ふふ、と日高さんは笑った。彼女の手が床を這い、窓に映されていた亡霊が消える。
「満月は嫌ね」
 日高さんは言い、わたしと友平は後ろを振り向いて月を仰いだ。向かいの家の、三角屋根の斜め上に光の円盤がある。地震の夜に見た、投光器のような。怖さは消えない。
「二人とも、泊ってく?」
「いや、そういうわけには」友平は間髪入れず答えた。
「小苗ちゃんは?」
 ちらと横目で友平をうかがうと、彼はなんとも言えない顔をしている。
「そういえば、昨日焼いたスコーン、あと一個残ってるよ」
「泊めてやってください。こいつ、昼から何にも食ってないんで」
 チョコレートは食べた、と思ったけど口は挟まなかった。友平もわかって言っているし、日高さんにも見抜かれている気がする。これは、合意の嘘。
「日高さん、わたし、泊ってもいいの?」
 いいよ、と日高さんは手を伸ばしてわたしの頬に触れ、抱き寄せて背中に腕をまわした。
「ごめんねえ、友平君」
「なんで謝るんですか」
「そうね。じゃあ、ありがとう友平君」
「何のありがとうですか?」
「小苗ちゃんを連れてきてくれてありがとう、の、ありがとう」
 友平は「いえ」とくぐもった声を出すと、無理すんなよ、と居心地悪そうにそそくさと庭から出て行った。自転車のスタンドを外す、ガチャンという音がする。友平はペコリと会釈し、垣根の向こうを走り去っていった。寮に戻るのは十時過ぎるだろうから、守衛さんに嫌な顔をされるかもしれない。
 わたしはスニーカーを脱いで窓から日高さんの家に入り、台所でスコーンと夕飯の残りのシチューを食べ(たぶん、わたしのために多めに作ってあった)、天窓のあるお風呂であったまって、寝室で日高さんのベッドにもぐりこんだら、ルンバが丸くなって寝ていた。
 キングサイズのベッドはね、ひとりで寝るには寂しいんだ、と日高さんが耳元でささやいた。

 ルンバの足音がする。メェとひと鳴きして廊下に出ていく気配があって、日高さんの声が聞こえてくる。「ねえ、ルンバ、小苗ちゃん起きた?」って。

〈了〉

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