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短編小説『きみに愛を』全文無料公開

↑上の掌編をお先にどうぞ🐣『たまごが先』のサキコ目線のハナシ

きみに愛を


 ある朝のこと。かるい頭痛で眠りから覚め、じっと布団の中でうずくまっていると、傍らでもぞもぞと何か動く気配があった。

 「ううん」と男の声がし、ちらと目をあげると白いタンクトップから丸く盛り上がった肩の筋肉が見える。

 米俵を軽々と持ち上げてしまいそうな逞しい上腕が、気持ちよさそうに枕を抱えていた。わたしが日頃愛用している◯◯ックマの低反発枕。そこに頭をうずめ、うつ伏せの男の顔はむこうを向いていた。

 後ろ髪はすっきりと短く揃えられ、左耳の後ろが寝癖で一部分だけ上にはねている。にゅっと伸びてきた男の右手が無造作にそのあたりを掻き、わたしはハッと我に返った。

 さあ、この男は一体誰なのだろう。

 半分だけ覚醒した脳で懸命に考えながら、わたしは相手に自分の存在を悟られないよう息を殺して身をちぢめた。そうして、とりかえしのつかない状況になっていることにはたと気づいたのだった。

 肩までかぶった布団にぬくぬくと包まる我が身。パジャマもブラジャーも、パンツも靴下も、なあんにも身につけていないすっぽんぽんの素っ裸ではないか。

 男はどうやら上下ちゃんと身につけているらしかった。はたして昨夜、わたしと彼のあいだにどんなチョメチョメなアレコレがあったのか、はたまたなかったのか。

 生まれたままの姿で目覚めるのは、実のところわたしにとって日常だった。

 内緒だけれど、家に帰るとまずするのが裸になることで、そのあと夕飯にお風呂、なんやかんやしてベッドに入るまでずっとそのままで過ごしている。昨夜は飲み会があり、どうやらその途中でわたしの海馬は働くことを放棄したらしい。それでも帰巣本能と同じレベルの脱衣本能により、酔っ払いのわたしはちゃんと素っ裸でベッドに潜り込んだ。いや、もしかしたら宴もたけなわ、素っ裸になったわたしを社の人々が持て余し、男がここまで運んできたということもありえなくはない。

 そうっと首を伸ばして室内をうかがうと、昨日着たブラウスが部屋の隅でハンガーにかかっていた。いつも通り、いつもの場所でぶらさがる自分の服に、これほど安堵したことがあっただろうか、いやない。とりあえず私はちゃんと服を着て帰ってきた。目の前のこの男を伴って。

 ふと、朝の香りが鼻腔をくすぐった。

 ご飯が炊きあがる、芳しく甘やかな香り。それが意味するところはすなわち、記憶がすっぽり抜けるほどに酔っ払った私は、素っ裸で米を研いで炊飯タイマーをセットしたか、米を研いでタイマーをセットしたあと素っ裸になったか、そのどちらかだ。

 つやつやと粒の立った炊きたてご飯、その上に卵をかけて醤油をひとまわし。ざっくり底からかき混ぜて、まだらに醤油と混ざりあったちょっと濃い部分に最初に口につける。想像するだけで涎が垂れそうになり、ぐぅと腹がなったが男は気づかなかった。

 炊飯器が鳴るまえにベッドから抜け出さねば。炊きたて、つやつや、熱々ご飯でTKG。

 昨夜は緊張で酒ばかり飲んでいた。せっかくのすき焼き。ガツガツ肉を食らうぞと意気込んで参加したのに、隣に座ったのが憧れの鳥飼君だった。すっきりとした顔立ち、切れ長の目、スーツに隠されているのは鍛え上げられた筋肉隆々ヘラクレスという噂は本当なのか嘘なのか。まともに顔を見ることもできず、わたしは乾杯とともに手にしたジョッキを一気飲み干した。

 どうやらそのあたりから記憶があやふやで、それはつまり、ほとんど覚えてないということだ。肉を食べた記憶がない。食べたのだろうか。きっと食べたはずだ。無念。おぼえていない。

 そんなことを考えていたらまたお腹がぐぅと鳴った。そのせいなのか、うつ伏せていた男は突然のっそりと上半身を持ち上げた。わたしはさらに身をちぢめ、布団に入り込んだ冷気に思わず「さむい」と声を漏らしてしまった。うっかりうっかり。

 男を仰ぎ見ると、眠そうに目を擦るその顔に仰天した。

 これまでの人生、酔っ払って持ち帰ったものは数々あれど、男を持ち帰ったのはこれが初めてで、それがまさかの鳥飼君。ナイス、昨日のわたし。けれども何がどうしてどうなったのやら、彼自ら望んでやって来たのか、それとも酔いつぶれたわたしを哀れに思って送ってくれたのか。恥ずかしさと自己嫌悪にただただ小さく固まっていると、ふいに胸の谷間に指が差し込まれ、わたしは鳥飼君が寝ぼけているのだろうと思いながら「えっち」と、それだけ言ってチラと目を合わせた。鳥飼君が現状をいい感じに解釈してくれることを願って。

「サキコ」

「なに?」

「しようか」

 しらっと話を合わせようくらいに思っていたのが、どうやらこれからチョメチョメなアレコレが現実になるらしい。心の準備もできないうちに乳に挟まっていた指が動きはじめ、わたしはすっかりお腹の空いていたのもTKGも忘れてしまった。

 チャララ〜チャララ〜チャララララ〜。

 ご飯が炊けたのと同時に鳥飼君が果て、わたしの体の十割を占めていた性欲が一気に食欲へと切り替わった。いつもなら裸のままキッチンに駆けつけるところを、さすがにそれはと、買ったばかりの「もしかしたら勝負する時があるかもしれない、あったらいいな下着」、略して「勝負下着」のおパンティーをはいた。事後だけど。

 炊飯器を開ける。立ち昇る湯気と香りは一瞬にしてわたしの胃袋を目覚めさせ、ベッドで満たされたはずの体は更なる高みを求めてわたしの内に眠る欲望を掻き立てる。「あぁ」と吐息が漏れ、唇の端から一筋の涎が垂れた。

 炊きたて、つやつや、熱々ご飯でTKG。そのフレーズはすでにメロディー付きで頭の中を駆け巡っている。たっきたって、つっやつっや、あっつあっつごはんでティーケージー。さあみなさんご一緒に。

「たまごかけご飯、食べる?」

 冷蔵庫を開けて卵に手をかけたとき、ふと鳥飼君がいたことを思い出して声をかけた。

 すでにわたしの脳内はTKG>鳥飼君。恋愛はすばらしいし、しかも憧れの鳥飼君とチョメチョメなアレコレできたことは思い出すだけでいい思い出になりそうだけれど、それはやはり思い出で、鳥飼君がこのままわたしの恋人となるという展開は『朝起きたら会社のイケメンヘラクレスにあんあん言わされちゃいました。』みたいな感じでリアリティーがない。たとえリアルだとしても。

 ということで、わたしは意外に平然としていた。それより卵だ。六個入り、ちょっとお高め三五〇円。行きつけの卵専門店で買ってきた卵は、冷蔵庫の中に2つだけ残っている。鳥飼君は炊きたてご飯の匂いを探るようにふんふんと鼻を動かし、そのあと「食べる」と、おいたをした子が謝るようにコクンと素直にうなずいた。

 ふたつの茶碗にご飯をよそい、卵ふたつと、これまたちょっとお高めの「たまごかけご飯専用醤油」をお盆に乗せて卓袱台に運ぶ。わたしに合わせてくれたのか、それとも彼もひそかに裸族なのか、鳥飼君はトランクス一枚だけの姿で卓袱台の前にあぐらをかいた。わたしは危ういチラリズムから視線をそらし、箸立てに手を伸ばす。鳥飼君がじっとわたしを見て、わずかに首をかしげた。そしてわたしは二度目のうっかりに気づく。いや、二度目どころか昨夜から、いやいや常日頃からうっかりだらけの人生なんだけど、わたしの手のなかには箸ではなく名前ペンがあった。

「たまごにはペンだよね」

 棒読みで言ったあと、わたしは名前ペンのキャップを抜き、ごまかすのも面倒になって卵をひとつ手に取った。卵がわたしを待っている。

 ところで人間には少なからず暴力的な面がある。それはかつて狩猟によって食物を得、生命をつなぐために必要な衝動だったのではないかと思う。破壊行為によるストレス発散は、今では「◯千円で壊し放題」といったサービスとして提供されているけれど、わたしにとっては卵に顔を描いて割るという毎朝のささやかな無料プチ破壊で十分だったのだ。

 画力のないわたしはだいたい

(・_・)

こんな感じの顔を卵に描く。点が二つに棒が一本。このあまりにもそっけない顔が他人に「顔」として認識されるのか。ふと思いついたアイデアをさらさらと描きつけたところ、わたしはその出来に満足して堂々と完成した顔を鳥飼君に向けた。

「そのゲジゲジ眉毛は部長みたいだね。への字口もそっくりだ」

 鳥飼君はくすくすと笑った。両目は「のの」、鼻は「し」、口は「へ」、眉の位置には毛虫のようなものを二本。部長のつもりで描いたわけではなかったけれど、言われてみればそうとしか見えなくなり、「ののしへ部長」のせいで二人きりの朝ごはんが三人になったような気がして、わたしの中にちゃんと破壊衝動が芽生えた。

「いつもネチネチうるさいの。昨日の飲み会でもそう。だからこうしてやる」

 コン、と部長の顔を卓袱台で割り、器に入れるとそこにはつやつやと盛り上がった濃い色の黄身があった。

「いい黄身」

 わたしの頭のなかに、TKGのテーマが流れる。たっきたってつっやつっや(略)。カラザを丁寧に取り除き、そっと黄身に箸を差し入れた瞬間、躊躇うように白身のなかに黄身が顔を出す。箸を広げると解放を味わうが如く黄身はその身を白身に任せ、わたしはそれらがひとつになるように優しく、時には強く箸を動かし続ける。ようやく白身と黄身が溶け合い、淡黃色の卵液が器にできあがったとき、わたしははたと鳥飼君のことを思い出した。

「あげる」

「部長は食べたくない。ムカムカしそうだ」

 鳥飼君はそう言ったけれど、そこにあるのはたまごかけご飯になるために生まれてきた六個三五〇円のちょっとお高めの卵。安心おし、わたしが一滴残らず食べてあげる。そう心で語りかけ、わたしはもうひとつの卵を手に取った。鳥飼君にそのまま卵を渡そうかと思ったけれど、たまごかけご飯を二杯つくるのは日課であり、ささやかなストレス発散なのである。いつもなら茶碗二杯に卵二個、二杯のTKGをレギュラーバージョンと醤油ちょっとだけ多めバージョンで作って楽しむのだけれど、鳥飼君の前で二杯食べるのは気が引けたし、もとより卵は二個しかないのだから一杯ずつ食すのが道理である。とかなんとか考えながら、わたしの手はまた

(・_・)

を描こうとして、二度続けて「ののしへ」だと画力を疑われそうで「ののしし」と描いた。ついでに卵といえば割れ目のギザギザかと思い、目のうえにギザギザ線を入れて前髪っぽくしてみたら、鳥飼君に「サキコに似てる」と言われた。

「うん、あたし。食べて」

 あれ、これはちょっと卑猥な意味にとられてしまうかもしれない。

「もう食べたよ」「えっち」

 やはり卑猥にとられてしまったけれど、そんなやりとりも恋人気分でいい思い出になりそうだから良しとした。せっかくだから「のぞみ」と名前で呼んでくれると気分は上がるのだけれど、鳥飼君は私の名前を「コサキ サキコ」だと思っているフシがある。「小崎」という名字からつけられたあだ名は、誰がつけたのか広く定着してしまっていた。こっちはちゃんと鳥飼君の名前が「カイト」だと知っているというのに。「トリカイ カイト」あれ?

 改めて自分の描いた顔を見ると確かにわたしに似ているような気もして、顔面を叩きつけることはできず、何も描いていないところにヒビを入れて割った。先ほどの「ののしへ部長」よりも黄身の色が薄く、盛り上がりも少ない。「ののししサキコ」は「ののしへ部長」に負けてしまったのかと少々落胆したが、それでも同じ六個三五〇円の卵。たまごかけご飯になるために生まれてきた卵である。ついでにわたしが食すのは「ののしへ部長」の方なのだから結果オーライだ。

「なんだかおまじないみたいだ」と鳥飼君が言った。

「おまじない、信じる?」

「そうだね。楽しいかもしれない。『ののしへ』と『ののしし』」

 わたしは「ののししサキコ」の黄身にそっと箸を刺し、愛情をもってかき混ぜ、鳥飼君の前に差し出した。彼は「ありがとう」と微笑み、その完璧な卵液に躊躇うことなく「たまごかけご飯専用醤油」を投入したのだった。

 ショッーーク!を受けながらも、わたしは平静を装って淡黄色の卵液をご飯に回しかける。そして「たまごかけご飯専用醤油」をひと回し。TKGには今や様々なレシピが開発され、わたしも一時興味本位で鳥そぼろやら唐揚げやら、出汁醤油で味付けしたあっさりチキンをトッピングをしてみたことがある。その末にたどり着いたのが醤油ひと回しのレギュラーバージョンTKGと、醤油ひと回し半のちょっと醤油多めバージョンTKGだった。

 シンプルな醤油と卵のたまごかけご飯。今この卓袱台の上で鳥飼君とわたしは同じ文化を味わっているはずなのに、それでもやはり完璧に同じものを共有することは難しい。わたしと鳥飼君とが、卵の白身と黄身ほど優しくひとつに交わるということは、悲しいかなありえないのだ。わたしと鳥飼君とは別個の生命体、そして白身と黄身とはもともとひとつの生命なのである。

「サキコ、変わった食べ方だね。たまごだけ先にかけちゃうんだ」

「うん。ここの、まだらになっててちょっと醤油の濃いとこが朝のねぼけた味覚をシャンとさせてくれるの。そのあと全体をかき混ぜるんだ」

「へえ。一度で二度おいしい。次はそうしてみようかな」

 ささやかな文化交流がたまごかけご飯によってなされ、わたしは鳥飼君との距離がぐんと近づいたように思えた。上半身素っ裸でこうして向かい合っているのが今さらながら恥ずかしくなり、わたしはそのあと黙々とたまごかけご飯を口にはこび、鳥飼君は「やっぱ久しぶりに食うとうまいなあ」とかなんとか言いながらペロッと完食してしまった。二人の距離が近づいたと思ったのはどうやら気のせいではなかったのか、「ののししサキコのおかわりない?」と物欲しそうな顔の鳥飼君に「ないよ」と言うと、「じゃあ、こっちのサキコ」ということになった。六個三五〇円『朝のお目覚めランラン卵』のせいだろうか。

 わたしも鳥飼君もすっかり覚醒し、くんずほぐれつ絡み合い、けれどそこは鳥頭ではなく脳容量1400ccの人間である。本能むき出しに喘ぐのは演技半分、生命誕生の神秘がわたしの胎内で起こらぬようミクロレベルのボーイミーツガールは回避する。

 卵専門店の場所と卵の銘柄を教えると、鳥飼君は何も思い残すことはないといった穏やかな顔で「じゃあまた会社で」とわたしの部屋を後にした。

 さて、週明け月曜日のことである。わたしはほどほどお値段十個入り二百八十円の卵『殿、御卵心』を左手に持ち、相も変わらず

(・_・)

を描こうとし、ふと思い立ってひとつを「ののししサキコ」、もうひとつを「ののししカイト」に描きあげた。カイト、つまり鳥飼君の方は目がこんな感じである。

(~ ~)

すでに「ののしし」ではなく「~~しし」なのだけれど、発音しづらいので便宜上笑い顔は「ののしし」ということで今後統一していこうと考え中だ。などと脳内会議を繰り広げながら二杯のたまごかけご飯を完食し、わたしは会社へと向かった。

 本題はここからである。「ののしし部長」こと権田原為蔵氏が入院していた。

 土曜の朝っぱらから脚立と枝切りバサミを持ち出し、普段は庭師に頼んでいる松の剪定を妻の制止を振り切って自らの手でやりはじめ、慣れない作業についうっかり脚立から落っこちてしまったらしい。うっかり手から離れた枝切りバサミは彼の耳から十センチほどのところで芝生にぶっ刺さり、それは不幸中の幸いと言えなくもないのだけれど、如何せん顔から地面にまっ逆さま。そこまで聞くと立派な鷲鼻は見るも無残にペシャンコかと思いきや、ついうっかり庭先でおいたをした権田原部長の愛犬イヌ子の、ワンさと盛られた排泄物が緩衝材になり、鼻骨粉砕という大事には至らなかった。というのは社内ゴシップ広報担当、賀来成基君の話なので、事実はだいたいその半分~1/4ほどである。

 ふと視線を感じて振り返ると鳥飼君が沈痛な面持ちでわたしを見ていた。権田原部長が脚立から落ちたころ、わたしと鳥飼君はナンヤカンヤしていたわけで、そう考えるとやりきれない気持ちになるのはもっともだ。

「心配ね」

 声をかけると、鳥飼君は強ばった表情のまま「うん」とうなずき、両目と口が「~」になった感じの曖昧な笑みを浮かべた。そしてわたしははたと気づく。「心配ね」なんて気安い声掛けを仕事中鳥飼君にしたことはなく、もしかしたら金曜夜から土曜にかけてのナンヤカンヤのアレコレは秘匿すべきこととして彼の中では処理されているのかもしれなかった。やはり思い出は思い出らしくきっちりと線引きをするべきで、わたしと鳥飼君は別個の生命体。TKGを介したわずかな文化交流はあったものの、図々しくその領地に立ち入るべきではなかったのだ。

「心配ですね」

 言い直したときにはすでに彼の姿は遠く、その背は少々丸まっていて、わたしはただただ「たまごかけご飯を食べさせてあげたい」そう思ったのだった。

 その後、鳥飼君とわたしが恋人同士になったり、たまごかけご飯の白身と黄身のようにひとつに混ざりあったりすることはなかった。

 あるとき、わたしが社員食堂で親子丼を食していると賀来成基君が向かいの席に座り、

「鳥飼んちの箸立てに黒の油性ペンがささってたんスよ。なんか、願掛けとか言って。やっぱ変なやつっスよね」

と声を潜めて言ったのだった。


――end

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