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Bad Things/6

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【episodeチカ〈1〉未練】

 アラームが鳴る五分前。

 いつもその時刻に目が覚めるのだから、目覚まし時計なんて必要ないと思う。それでも寝る前にはアラームをオンにしてしまう性格が、こうして目を覚まさせるのだろう。

 布団をはぐろうとして、肩先に冷えた空気を感じた。カーテンの隙間からはうっすらと朝の光が差しこんでいる。

 アラームをオフにして起きあがり、ジーンズとトレーナーを身につけて洗面所に向かった。

「チカぁ? 母さんたち先に行ってるから」

「はあい」

 オレンジジュースにトースト一枚、欠伸をかみ殺しながら母屋を出た。庭の隅に置かれたプランターの葉に顔を近づけ、もうそろそろ収穫時だろうかと、友人のヒナキが見せてくれた図鑑の写真を思い出した。

 キラキラとした氷の粒のようなものが葉の表面を覆っているその植物は、アイスプラントという。レストランに勤めているヒナキの部屋には、分厚い料理本だけでなく野菜をはじめ食材の図鑑がずらりと並んでいた。

 ヒナキが法事で実家に帰ると言っていたのは、昨日と今日のはずだった。なんとなく和室の布団のなかで寝息を立てている彼女の姿を想像し、その布団のぬくもりを羨ましく思う。

 長靴の左右を叩きあわせて土を落とし、それを履いて車を出した。

 刈り入れの終わった田んぼを眺めながら五分ほど走り、細い農道を山沿いに進むと、その先に軽トラックが停まっている。両親の姿はすでに畑のなか。地面に蔓が這う一角で、ふたりは抜いたばかりの芋を手に何か話しているようだった。

 軽トラックの後ろに車をつけ、畦道のわきの溝を飛び越える。

 軍手をポケットに突っ込み、「チカ、ちょっと」と手招きする両親の元へと湿った土を踏みしめて歩いた。左右の畝には真っ黒なマルチシートが貼られ、穴から伸びたエシャロットの葉は朝露をまとい、可愛らしい紫の花が咲いている。

「チカ、今日『クニヲ』に行ったら、樋引君にこれ使うか聞いてみて。アヤムラサキ」

 父は引き抜いたばかりのサツマイモを掲げ、軍手でなでて土を落とした。

『クニヲ』とは正式名称『レスプリ・クニヲ』というフランス料理の店だ。樋引さんはそこの料理長で、うちは数種類の野菜を店に卸している。

「紫芋?」

「ああ。甘くないけど、こういう色のついたの、料理映えしそうだろう」

 そうだね、と私はポケットからスマホを取り出して紫芋の写真を撮った。アップで数枚と、芋を手にした父の写真を数枚。父は慣れたもので、いつも通りのどこか少年ぽい得意げな笑みを私に向けた。

 そのあとも作業中の両親と成長しつつある野菜にスマホのレンズを向け、一通り撮り終えたところで軍手をはめた。

 こんな風に撮った写真をSNSに投稿するようになったのは、つい最近のことだった。

 フェイスブックに「三谷農園」のページを立ち上げたばかりで、記事はまだ数件しかアップしていない。少しずつ増えていく写真はアルバムのようで、それに「いいね」がつくのはやりがいに繋がっていた。

 今日『レスプリ・クニヲ』に行くのは、うちの野菜が使われた料理を撮るため。――ということになっているけれど、私としてはその料理を食べることが第一目的になっている。

 先方に写真を撮る旨を伝えてはあるけれど、扱いは普通のお客さんと同じできっちり代金は払うし、むしろその方が気を使わずにゆっくり食事を堪能できる。他のお客さんの迷惑にならないよう、個室を予約してあった。

 なにが心配かといえば、一緒に撮影に向かうカメラマンだ。プロなんて頼む予算はなく、写真が趣味という従兄弟のタキ君が来ることになっている。

 伯父夫婦はここから車で一時間ほどの所に住んでいて、タキ君は生まれてこの方その家から出たことがないらしく、今はその実家から地元の大学に通っている。

 タキ君とはこっちに引っ越してくるまでは年に一二度顔を合わせるか合わせないかくらいだった。それが、最近は少なくとも月に三回は会っている。彼は日曜の数時間、三谷農園にアルバイトに来ていた。

 うちの両親とともに畑に行くこともあるし、通販用の野菜を箱詰めしたりすることもある。アルバイトの時間もあいまいで、支払う給料もお小遣いを上乗せしたような、客観的に見ても割りのいいバイトだった。

 たいして儲かっているわけでもないのに、と私はタキ君に思いつく限りの仕事を与え、彼はそれを嫌がるでもなく、仕事の合間にカメラを取り出しては畑や空や山や、うちの両親、そして私にレンズを向けた。

 ほんの数年前まで、自分がこんな生活をするなんて思ってもみなかった。

 両親が田舎への移住を決めてさっさと引っ越してしまったのは、私が就職した年の夏。

「農業しようと思って」

 あまりに唐突な話に閉口したけれど、どうやら数年に渡って計画されたもののようだった。この場所に決めたのは伯父夫婦が近くに住んでいるからで、移住に際しての補助も他の自治体より良かったらしい。

 驚いたのは、私の知らないうちに「農業塾」なるものに両親が何度か参加していたことだ。家を出ていたとはいえ私がまったくそれを知らなかったのは、両親が意図的に話さなかったから。

「びっくりするかなと思って」

 茶目っ気たっぷりの顔で打ち明けた両親に、二人がいいならそれでいいかと思った。けれど、私はその二年後に会社に辞表を提出し、両親を追って田舎へとやって来ることになった。

「ゆとり世代はこれだから」などと母は冗談ぽく言いながらも温かく迎えてくれ、私は会社を辞めた本当の理由を話せないまま中古の日本家屋に住み着き、そして未だにその理由を話せないままでいる。たぶん一生話すことはないだろう。

 こっちに来てから運転免許をとり、空いた時間でアルバイトと両親の手伝いをした。いつの間にやら何箇所か販路を開拓していた両親はずるずると私を農業に引き込み、扱う品種を増やし、栽培面積を広げた。

 ヒナキと出会ったのは、この地にまだ慣れていなかった頃のことだ。

「うちの野菜を使ってくれたのは、この店が一番最初なんだ」

 落ち着かない気持ちのまま父に連れて行かれた『レスプリ・クニヲ』で、私は彼女に一目惚れした。

 裏口から入り、父の背中越しにのぞき込んだ厨房で、ヒナキは大きな鍋をひたすら木ベラでかき混ぜていた。

「ヒナキちゃん。もしかして、うちの娘と同い年じゃないかな。チカはこっち来たばかりだから仲良くしてやってよ」

 ヒナキは「そうなんですか」と父を見たあと、溌剌とした笑顔を私に向けた。連絡先を交換し、彼女は日をおかずメールを寄越した。

 彼女が興味を抱いていたのは私ではなく「三谷農園」の畑だ。けれど、ヒナキの前向きで真っすぐな眼差しは、もう私を逃してはくれなかった。駄目だと分かっているのに、彼女に惹かれていくのを止めることはできなかった。

 会う度に彼女に触れたいと願う気持ちが膨らんで、報われないと分かっていても彼女に近づきたかった。それは、今も変わらない。

 けれど、私と彼女の間には線がある。それを越えてしまったら、きっとヒナキを傷つける。傷つくのは私だけで十分だ。


***


 シャワーを浴びて脱衣所にバスタオル一枚でいるとき、チャイムが聞こえた。埋もれたスマホを探し出し、慌てて電話をかける。髪の毛から、ポタリと雫がおちた。

「もしもし、タキ君? もしかして、もう着いちゃった?」

『うん。玄関開いてるけど入っていいの?』

「勝手にあがってて。今ちょっと出れないから」

 はーい、というのんびりした声のあと、玄関の方から戸を引く音がした。彼が間違って脱衣所に入らないよう、電気をつける。

 時刻は午前十時。急いで服を着て、タオルをかぶったまま居間をのぞきこんだ。タキ君は、まるで我が家のように寛いで、麦茶を片手にテレビをながめていた。その視線がふらりと私に向けられる。

「あ、なんかエロい」

「バーカ。悪いけど化粧してくるから待ってて」

 背を向けると、後ろから「チカ姉(ねえ)」と呼び止められた。

「なに?」

 答えた瞬間、カシャとシャッター音が響く。

「ちょっと、勘弁してよ」

 不機嫌を露わにしてもどこ吹く風で、実力行使で彼の手からカメラを奪おうと近づく私に、彼はもう一度シャッターを切った。

「タキ君! データ消して」

「やだよ。ほら、やっぱエロい」

 液晶モニターには濡髪の私が映っていた。

 振り向きざまに伏した目は、たしかに自分のものとは思えない表情をしている。恥ずかしくなり、私はそれ以上絡むのをやめて「消してよ」と言い捨てて居間を出た。

 何を撮っているのか、その後もシャッター音が聞こえていた。


次回/【episodeチカ〈2〉片思い】

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