小説『真夜中のブラックグー』
「ぬっペっぽう」は、『画図百鬼夜行』など江戸時代の妖怪絵巻に載っている妖怪のひとつだ。皺だらけの肉塊に目鼻口があって、短い手足がついている。想像してみなよ。そんなにおどろおどろしいものじゃなく、むしろ愛嬌があるだろう?
でも臭いんだ。腐った臭いがする。死肉が化けた妖怪で、ぬっペっぽうが通った跡は腐った肉の臭いがするらしい。肉塊のゾンビだね。
でも、ぬっぺっぽうが黒いという記述は見たことがないよ。粘液状というのも当てはまらない。君が探している「黒い粘液状で、腐った臭いがする妖怪」というのは、日本古来の妖怪というよりも海外ドラマに出てくる寄生生物みたいだね。レンタルショップで借りて観たらどうだ?
まあ、一般的にネバネバしたものってのは嫌悪感を感じるもんだ。他人の鼻水だって気色悪いだろ。ああ、悪い悪い。お前は真面目に聞いてるんだよな。わかってるって。
それなら、黒じゃないけど灰色のネバネバ……グレイグーって知ってるか?
グレイグーはナノマシンが制御不能になって無限に増殖しまくったやつだ。それで地球資源を食い尽くして人類が滅亡する。映画や小説じゃなくて、研究者が言った話だぞ。
ナノマシンの自己増殖について詳しく教えろ?
それを民俗学研究室の人間に聞くべきじゃないだろ。理系の話はチンプンカンプンだ。
民俗学研究室といえば文学部歴史文化学科の某有名教授が主催していたはず――と、GWを目前に控えた学食で遅めの昼食をとっていた木崎拓哉は、カウンター席の隣にいる二人組の会話に耳をそばだて考えた。その研究室所属だという男は上級生だろうが、木崎の隣に座る男は田舎から出てきたばかりのような垢抜けない格好をしている。自分と同じ、入学したばかりの一年だろうと見当をつけた。
会話はふたたび「ぬっぺっぽう」に戻り、その肉を食べると不老不死になるという話をしている。それをBGMのように聞きながら、木崎は三年前に癌で死亡した祖父のことを考えた。
癌――無秩序に増殖し続ける細胞。増殖し続けた癌細胞は祖父を蝕み、臓器不全を起こさせ、殺した。
ヒトの体細胞には分裂回数に限界があり、それを決めているのはDNAの末端にあるテロメアだ。細胞はDNAを複製して分裂を繰り返すが、テロメアは複製されず分裂のたびに短くなり、最終的には分裂できなくなる。しかし、多くの癌細胞ではテロメアを伸ばす酵素テロメラーゼが活性することで細胞は分裂し続ける。
隣の男が言っていたグレイグーは地球の癌かもしれない。だが、ナノマシンが自己複製能を維持し続けるにはエネルギー源が必要で、その供給を断てば増殖は止まるはずだ。癌だって人間が死ねばそこで終わり。グレイグーが現実的なシナリオとは思えない。
「グレイグーか」
思案に耽っていた木崎がひとり言を漏らすと、隣の男が振り向いた。その気配を感じて木崎も顔を向けると、相手は瞬きもせず見つめてくる。
「あっ、すいません。こいつ、人をじっと見つめる癖があって。気に障ったなら申し訳ないです」
謝ってきたのは男の向こうに座る上級生だった。
「いえ、こちらこそ。興味深い話が聞こえて、つい」
「何学部ですか? グレイグーに興味が?」
隣の男が視線を彷徨わせながら聞いてきて、木崎は思わず吹き出した。
「僕は農学部生命科学学科の一年です。グレイグーへの興味は今湧きました。それより、目を見て話すのは悪いことじゃないから気にしないでください。目が悪いんじゃないですか? 俺の妹は目が悪いせいで睨んでるように見えて、それでコンタクトにしたんです」
木崎と澄田樹との出会いはこんなふうだった。話の成り行きで黒い粘液状生物が登場する海外ドラマを木崎のマンションで観ることになり、ビデオ鑑賞に酒が入れば打ち解けるのに時間がかかるはずもない。以来、澄田は週一ペースでレンタルビデオを携え木崎のマンションに出入りするようになった。
七月も終わりに近づき、前期試験を終えた日の夜も澄田は木崎のところにSFホラー映画のビデオを持ってやって来た。空から飛来した緑色のアメーバ状の生物で街がパニックに陥る話だが、エイリアンかと思いきや人が作った細菌生物兵器だった。それを観終えてコンビニに向かう途中、木崎は友人が闇に紛れそうなほど日焼けしているのに気づいた。
「澄田。ずいぶん色が黒くなったんじゃないか? そのうち暑さで溶けてブラックグーになるかも知れないぞ」
「ブラックグーに関係ありそうな場所に毎週末行ってたらこうなったんだ」
澄田はハハッと笑ってそんなふうに答えた。
「サークルやらアルバイトやらで忙しくしてるくせに、ブラックグーに対する執念は脱帽ものだな。子どもの頃ブラックグーに何かされたのか? ブラックグーの肉を食って不老不死になるつもりか?」
「僕がブラックグーだからさ」
「ああ。ブラックグーがおまえの体から出てくるのはおまえが死ぬ瞬間、だっけ?」
「そういうこと」
木崎は以前にも澄田から同じ冗談を聞いたことがあったが、前回も今回も笑う気分にはなれなかった。理由は澄田の右肘から手先にある幾筋もの傷跡だ。自傷行為か虐待の痕跡か。澄田は「ブラックグーに侵入されそうになった時の攻防の痕」だと言っていた。その言葉を聞いた木崎は、傷跡の原因を受け入れられず妄想に逃げたのだろうと考えたのだった。
この夜も、木崎は「僕がブラックグーだからさ」という親友の言葉で同情心を掻き立てられた。死臭漂う黒いネバネバ。澄田は自分の内側に渦巻く自己否定の感情をそんなふうに感じているのだろう。
「なあ、澄田。ブラックグーはおまえを内側から食い破ったりしないのか?」
変に話題をそらすこともできず木崎が軽い口調で問うと、澄田はスイッチが入ったようにブラックグーについて語りはじめる。日付も変わって路地に人通りはなく、外灯に群がる蛾の羽音が聞こえていた。
「ブラックグーは人を食べたりしない。寄生生物みたいなものだ。それに、映画に出てた緑のアメーバは人工兵器だけど、ブラックグーを生み出したのは人じゃなくて異界の者だ。
狐憑きがいい例で、異界の者たちは破壊よりも乗っ取ることを好む。そうやってこちら側の世界に活動領域を広げようとしているんだ。でも、やみくもに取り憑くだけではダメで、観察が必要だと気づいた。それでブラックグーが作られた。
境界を越えてやって来た時、それは最初ぬっぺっぽうの姿をしてる。ぬっぺっぽうの役割は自分の内側に仕込まれたそれに適した場所を探すことで、条件が整うと目星をつけた人間を誘い出し、ブラックグーを解放させる。ブラックグーはグレイグーのように自己複製して増殖し、ぬっぺっぽうは形を失い、ブラックグーの黒い沼ができる。でも、グレイグーのように地球資源を食い尽くしたりしない。ブラックグーの増殖が止まるのはその場所の養分を使い尽くした時だ。おそらく養分を与えれば再び増殖する。養分が何かはまだわからないけど」
「ぬっぺっぽうに誘い出された人間はどうなるんだ?」
「ブラックグーに意識を乗っ取られて異界の使者になる」
「それがおまえなのか?」
木崎はこの荒唐無稽な話にどこまで付き合えばいいのか途方に暮れつつ、律儀にもそんなふうに返した。しかし、澄田は「違うよ」という予想外の答えを口にしたのだった。彼には珍しくどこか遠い目をして空を見上げている。
「強いて言えば、僕は異界の使者の最初の手下だ。
僕は使者と違って最初から上手く人間に取り憑けたわけじゃない。失敗して、そのあと数え切れないくらいの動物に乗り移って、人の意識を乗っ取れるくらいに成長し、今この体にいる。僕は使者の策略によって半ば強引にこの体に入ることになったんだ。この手の傷痕はそれに抵抗した痕。
この体の本来の持ち主の記憶は残ってる。澄田樹に入る前に取り憑いた二匹と二人の記憶もある。使者の話では、ブラックグーが乗り移った人間は今のところ僕と使者の二人だけだ。
使者にも取り憑いた人間の過去の記憶があって、田舎町に住む小学生だったらしい。ジャガイモみたいな妖怪に誘われて山奥の祠に向かったんだ。僕がぬっぺっぽうを調べてたのは外見がこのジャガイモ妖怪みたいだから。
ジャガイモ妖怪が現れたとき、少年は怖がって友達を一人連れて行った。そこでジャガイモに言われるがままジャガイモを掴んで岩に叩きつけたんだ。そうしたら黒い粘液――ブラックグーが溢れ出した。
ブラックグーの増殖は一分ほどで止まり、崖下にある祠を囲むように半径五メートルほどの黒い沼ができた。祠は岩場に残っているらしいけど、今は沼の酷い悪臭で近づくことはできない。
木崎ももうわかってると思うけど、ジャガイモに呼び出された少年が使者になったんだ。使者はすぐには少年の体を乗っ取らず、体表面に寄生して黒いシミの姿で少年を観察した。けれど、もう一人の友達に取り憑いたブラックグーは未熟で、その子はすぐに体を乗っ取られ、狐憑きになって精神病院に入院したんだ。
少年は自分の誘いで友達を狐憑きにしたことが怖くなって、自分も狐憑きのフリをして同じ精神病院に入院したんだけど、友達は病院から失踪して黒い沼のほとりで死体で発見された。それを知った少年は眠れないほどの恐怖に襲われた。でも、その恐怖は二日も続かなかった。使者が意識を乗っ取ったからだ。そして少年の首にあった黒いシミは消えた。
使者は体を得た瞬間のことを啓示を受けたようだと言っていたよ。自分が異界からやって来たことも、自分に課された使命もはっきり理解したと。その使命っていうのは、こちら側の世界の養分で増殖したブラックグーを改良し、より多くの人間に乗り移らせることだ。
そう、そうなんだよ。
ブラックグーの沼は今もあるけど、ブラックグーが僕と使者の二人だけなのは人間に乗り移らせる方法がわかっていなかったからだ。使者の中にいるのはマザーブラックグーとも言うべき特別なブラックグーで、あの時一緒にいた友達に取り憑いたのは未改良のブラックグー。それで狐憑きの状態になって、帰巣本能で沼に戻ろうとし、足を滑らせ、頭を打って死んだ。事故みたいなものだったんだ。
その後、その子に憑いてた未改良のブラックグーは近くにいた蛙に乗り移った。どれくらい経ってからか、使者になった少年が黒い沼でその蛙を見つけて持ち帰り、その後いくつもの生物に乗り移って今は僕の中にいる」
木崎は「小説でも書いてみたらどうだ」という軽口を飲み込んだ。その言葉は友人を傷つけそうな気がしたからだ。そして代わりにこんなことを言った。
「澄田は使者の手下だろう。おまえもブラックグーを広めようとしてるのか?」
「よくわからない。使命を課されたのは使者で、僕は使者の近くにいない限り無目的な存在だ。
でも、この体の元々の持ち主は体を奪われることを望んでいないようだった。使者を警戒し、使者に近づくべきではないと考えていた。でも、使者は澄田樹がブラックグーだと知っているし、僕が澄田樹である限り使者から逃れることはできないんだ。だから」
澄田は足を止め、木崎とまっすぐ目を合わせた。
「僕はあと一回死ぬべきなんだ」
木崎は絶句し、そのあと絞り出すように「ダメだ」と口にした。
「どうして? 使者がブラックグーを広めたら、異界の者はそれを使役して何をするかわからない。それに、使者は一人だけじゃないんだ。ぬっぺっぽうは眠った状態であちこちに散らばっている。人類はみんなブラックグーになるかもしれない。多くの人間はそれを望まないと僕は思ってるけど、木崎もそうじゃないか?」
「まあ、そうだけど」
「だったら使者をどうにかしないといけない。僕は使者から自由になる必要があるんだ。それには使者の知らない別の人間に乗り移るのがいい」
澄田に見据えられ、木崎はゾッと背筋を震わせた。友の頬は柔らかく緩んでいるが、射るような眼差しが表情の不自然さを際立たせる。そして、木崎は眼の前の男が人間ではないとようやく理解した。
「もしかして俺に取り憑くつもりか? そのために俺に近づいたのか?」
「先輩からグレイグーの話を聞いたとき、ブラックグーの調査に必要なのは民俗学的アプローチより生命科学実験だと思ったんだ。本格的な実験が始まるのは後期からだろう? その前にと思ってるんだけど、できれば木崎の了承を得てから乗り移りたい。木崎もこの体の持ち主みたいに自分の体を傷つけて抵抗するかもしれないし、そういうのは望んでないから」
俺だって望んでいない――その木崎の想いが声になることはなかった。自分がいったい何を相手に喋っているのかわからなくなったからだ。澄田は木崎の動揺を知ってか知らずか、表情に変化を見せないまま淡々と喋り続ける。
「一応、木崎以外にも候補はいるんだ。でも、ブラックグーの話をまともに聞いてくれたのは木崎だけだし、木崎に乗り移れば木崎のことがもっと知れるから、僕としては木崎に受け入れて欲しいと思ってる。無理かな?」
無理だろう、という言葉も木崎の胸中だけのものだ。混乱しながら木崎は必死で言い訳をさがした。
「澄田。それが使者の差し金じゃないと証明できるのか? 実験室が使いたいから、使者が俺に取り憑けって言ったんじゃないのか?」
「違うよ。これは全部僕が考えたことだ。澄田樹が死んだら僕が別の誰かに乗り移ると使者は知ってる。だから、誰に乗り移ったかわからないようにサークルやアルバイトで友達を作りまくったんだ。僕は木崎を親友だと思ってるけど、学部も違うし、木崎と僕が友人関係だと知ってるやつはほぼいない。使者にバレる可能性は低い。だから、木崎の体に入らせてもらえないか?」
「そんなのできるわけないだろっ!」
木崎が声を荒げると、澄田は困ったように眉を垂らした。木崎にはそれが『怒った相手への対処プログラム』のように感じられ、そのまま一人踵を返して自分のマンションに駆け戻ったのだった。
木崎が澄田の訃報を知ったのは二週間後。まったく連絡を寄越さない澄田に罪悪感が募り、かけた電話に出た寮監から聞いたのだった。すでに葬儀も終わっていたが、寮にある私物を片付けに澄田の母親が来ると言うので木崎はそれを手伝うことにした。澄田がいったい誰に乗り移ったのか、その手がかりが彼の部屋に残されているかもしれないと思ったのだ。
お盆で学生寮にはほとんど人がおらず、部屋は澄田が死ぬ前に整理したらしく段ボール箱ひとつと数着の衣類が残されているだけだった。母親は覇気のない顔でぼんやりと部屋を眺めている。
段ボール箱には民俗学関連の書籍がぎっしり詰め込まれていた。一番上に『欲しい人に差し上げます』とメモが置かれているのを見つけ、「俺がもらってもいいですか?」と木崎は母親の顔をうかがった。
「どうぞ」
あっさり頷く母親に、木崎の胸にモヤッと嫌な感情が芽生える。息子の遺品をこんなふうに手放せるものだろうかと訝ったが、母親の次の言葉で苛立ちはおさまった。
「木崎さんから見てあの子はどんな子でしたか? 大学でどんなふうだったか教えてください」
「ちょっと変わったやつでした。自分は黒いヌメヌメしたものに体を乗っ取られたんだとか、そんな与太話をよく俺にしてて」
軽く探りを入れるつもりで冗談めかして言ったが、母親は急に青ざめて手を震わせ、木崎は慌てて「友達も多かったんです」と話題を変えた。
結局、段ボール箱の中身は木崎が全部もらうことになり、他に残っていたものは「家にある遺品で十分ですから処分してください」とゴミ袋に詰め、母親は何も持たず家に帰っていったのだった。
澄田が死んだのは飛び降り自殺だと寮監から聞いていた。詳細は寮監も知らず、木崎には澄田が誰に乗り移ったのか見当もつかなかった。メモ書きや自分宛ての遺書がないかと段ボール箱に入っていた本を一冊残らずめくってみたが、手がかりになりそうなものは何もなかった。それなら澄田の交友関係を調べようと彼がアルバイトしていたコーヒーショップに向かうことにした。すでに夜の九時を回っていたが、その店は午前一時まで営業している。
コーヒーショップは行きつけのコンビニの先にあり、木崎は見慣れた路地を歩きながら二週間前のやりとりを思い出した。澄田と最後に会った日のことを。
澄田の自殺を知ってもまだブラックグーについて半信半疑だったが、木崎は母親に会ったことですべて真実だと確信していた。彼女は死んだ息子が一年前から別人だったと知っていて、義務的に荷物を処分しに来たに過ぎないのだ。
母親はどこまでブラックグーについて知っているのか。使者は誰なのか。黒い沼はどこにあるのか。聞きたくても澄田はいない。
「こんなことなら、俺に乗り移らせれば良かった」
木崎の声が虚しく路地に響いたとき、夜更けには珍しく一羽の雀が塀に止まった。雀はまっすぐ木崎を見つめ、そのつぶらな瞳に既視感を覚える。
「……澄田?」
雀はかわいらしく頭を上下させてうなずくと、塀から飛び立ち木崎の肩にやってくる。振り払うことができなかったのはやはり同情したのだ。
あの母親は澄田樹の母親だけれど、木崎の知る澄田の母親ではなかった。大学入学まで家族と過ごした数ヶ月、澄田は何を感じ、何を考えていたのか。あの母親はどんな顔で澄田を見ていたのか。
「澄田、俺に入るか?」
友人が死んだショックと、それに対する罪悪感と、ブラックグーが存在するという非現実感の中で、自分の無力さを否定しようと口をついて出た世迷言だった。しかし、それはひとり言ではなく雀が聞いていた。
車のヘッドライトが木崎を背後から照らし、その直後に鳥影が目の前を過ってバンッと音がした。車はそのまま走り去ったが、路地には血だらけの小鳥が残されている。
木崎は固唾をのんでその小さな骸を見つめた。閉じた目からドロッと黒い粘液状のものが滲み出て、腐敗臭が鼻を突く。それでも木崎は目を逸らさなかった。黒いものは雀から離れ、ゆっくりと木崎の方へ近づいてくる。
「なあ、澄田。おまえは俺のことを諦めきれなかったのか? そんなに俺が良かったのか? 俺は……、俺は……」
恐怖と同情とが木崎の胸を引っ掻き回した。今すぐ逃げ出したいのに、澄田の「親友だと思ってる」という言葉と、ここ数ヶ月の彼との日々が走馬灯のように頭を駆け巡って一歩も動けずにいる。顔は涙で濡れ、喉からは笑い声が漏れた。そして、唐突に閃いたのは澄田を容器に入れて持ち帰れないかという考えだった。
しかし、財布だけ持って出てきたから手元には何もない。あたりを見回して外灯の下に菓子パンの空袋を見つけ、それを拾って振り返ったときだった。黒い粘液は傍らに止まった小さな蛾に吸い込まれ、路端には雀の死骸と羽を黒くさせた一匹の蛾だけが残された。
蛾に澄田を奪われた木崎は衝動的にそれを踏みつけた。その蛾も澄田だと気づいたのは、黒い粘液がビーチサンダルで剥き出しの足の指をぬるりと撫でたときだ。
泥のついた空袋は木崎の手から離れて風に飛ばされ、サンダルの下で潰れた蛾の体液が木崎の足元を汚していた。右足の五本の指を覆う黒いシミはまるで黒蝶のようで、「僕はここにいる」とでも言いたげに夜闇の中で黒黒とその存在を主張しているのだった。
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