見出し画像

ようこそ!ミラノへ

「ようこそ!ミラノへ」
店長は張り切って手を広げてくれた。薄い笑顔は相変わらず張り付いたままだった。店の入り口は会計を行う小さなフロントと、数百本はあるネームプレートのついたお酒が棚に鎮座している。お酒に詳しくない自分から見ても、上に行くほど高いお酒に見えた。
工学部の彼に準備しておいてほしいと言われて急いで授業の合間に準備した履歴書を差し出す。
「えーと。シオン君ね。シオン君は、飲食のバイト経験はある?」
「いえ。コンビニのレジと品出し、あとファーストフードのキッチンくらいでして」
「はーい。未経験ね。うちは未経験からでも大丈夫だから。安心して。そっかキッチンやったことあるんだね」
「はい。ただキッチンと言ってもマニュアルに沿って作業するだけでしたから」
「なるほどね。理解しました。お肉を焼いてパンにはさんだり、フライドポテトを揚げるのは得意と」
「え、はい。そうなります…かね」
含みがあるのかないのか一向にわからぬまま何となく面談は終わったようだった。
「それじゃあ簡単に店の説明をするね。細かい業務については工学部の彼と、あとから出勤してくるバニーに聞いて」
店長はそれからこのお店のことを話してくれた。

 長い話を要約すれば、この店はこの界隈に数店舗あるホステスさんのいるクラブの中でも3本の指に入るお店らしく今は本社にいる一代前の店長が立ち上げた店舗らしい。
店長は当時の副店長で界隈でも注目度の高いこのお店の長であることが自慢のようだ。比較的新しく、店舗自体は狭いにもかかわらず質の良いサービスと優良な顧客にとっては一見では入れない知る人ぞ知るお店に成長してきていて、平日でも早い時間から満席になりオープンからラストまで席が空いているということはほとんどない。狭いことで「入りたくても入れない敷居の高いお店」になっているようだ。
 客の質、というか客単価が良さそうなことは、美しく並べられた高級な酒瓶にネームプレートが付いているボトルの山が物語っている。

 従業員は、ホステス、店長、店長をサポートする黒服と調理を担うシェフまでが社員で、ホステスを補佐する主にアルバイトのホステスと、給仕のバニーとウェイターで構成されている。
店は思い出せる限りで3人掛けの小さな卓が店の入り口側に3卓、店の中央付近付近に6名ほど入れるボックス席が2つ、最奥に10人以上入れるVIP席があった。それぞれの席はそら豆のような形で配置されていて、美しい曲線の130cmほど高さの綺麗な模様の入ったすりガラスで仕切られている。

「この一番奥の席のソファーなんだけど。工学部ちょっと手伝って」
店長と工学部が奥のソファーをよいしょと持ち上げると、ちょうど道を防ぐような形になった。ずいぶん重いようだ。
「こうやって盾になるから。お客さんに万が一のことがあったらこうやってソファーを立ててね。薄く鉄板がはいいていてピストルの弾も防ぐから。そしたらお客さんはこの道を通って後部出口から出られる」
何を言っているか理解に時間がかかる。今ピストルの弾と言ったか?
「いやー。ないとは思うけど。うちのお客さん同士が大きなもめ事に巻き込まれたら安全に外に出ていただかなければいけないからね。そうなったら君たちがお客さんを後ろに逃がして、身を挺してこのソファを立ち上げてくれ」
困惑気味に思ったことを聞いてしまう。
「後ろの入り口に回られてしまったら挟み撃ちされませんか?」
「10卓に座るお客さんは基本的に運転手付きの車で来られる方ばかりで、後ろの入り口に車を駐車しているから、それは大丈夫なんだよ」
なるほどそういうものかと、疑問は多々あれど見送ることにした。
「まあ、使ったことはないからね。VIP席のお客様の安全を最も大事にした作りになっているんだよ。その分この席は他の席より高いからね」
店長は、そういうと奥に進んでシェフを呼ぶ。
「改めて紹介するね。こちらはシェフ。うちのグループでも一番腕がいいんだ。まかないも出るから楽しみにしていな」
「よろしくな。店に出すよりも旨いもの食べさせるから。チーフって呼べ」
シェフが笑うと工学部が言う。
「チーフの料理は上段抜きでうまいよ」
この言葉に嘘はなく、シェフが作る料理は絶品だった。中華料理の出身で、どれも美味しかったが一番好きだったのは烏賊とセロリ、ホタテの貝柱に中華餡をかけた炒め物で、思い出せばよだれが出るほどだ。
お店に7時~8時台に来るお客さんのほとんどが、チーフの料理を注文する。
「あと今日は休みなんだけど、ウェイターのリーダーが三ちゃん」
アンタッチャブルの山崎に動きも言葉も似ていた。ガタイがいいのに素早く正確に動く人だった。この日はシフト外で休みだ。
「女性陣は来たら紹介するけど、基本社員のみんなは同伴だから時間がある時に少しずつ紹介する。とりあえず開店準備だ。じゃ、自己紹介して」
「はい。シオンです。工学部とは同じサークルの顔見知りで、今日のお昼に誘われてきました。えっと、頑張ります」
この時は借金を返せれば辞めようと思っていた。しかし刺激と楽しさと友情が生まれたこの職場で、僕は大学卒業までこの店で様々な体験をすることになる。

「じゃあ、今日のメンバーはあとは女性陣だけだね。はりきって一日お願いします!」
「お願いします」
この円陣がなんとなく好きになれそうな予感があった。

 開店の準備はまず掃除から始まる。
「帰りは結構疲れているから隅々まで掃除は行き届かないんだよね。おおきなヨゴレだけ落として、完璧に綺麗にするのは翌日の開店準備でやるんだ」
一番精神的にきつかった仕事は『ボトル拭き』だ。一本一本確認し目立つ埃を落とし、店舗価格で数十万するものもあり、値段を聞くまでは、ささっと拭いていたが聞いてからは、この仕事が一番怖くなった。
店長が、キャッシャーでなにやら上司と電話をしている。
「はい。今日は予約が8組で、内同伴が4名ですね。VIPは本日はK様です。はい。オープンラストで。はい。いえいえ、このあと電話攻勢をかけますので満卓の予定です。はい。はい。承知しております」
大変なんだなと思いながら、席のセッティングに入る。予約のお客様のボトルは予め下ろしておき、それぞれのお客様の来店数を確認後に、適切な卓に配置する。
席にボトルを置き、たばこを吸うかどうかなどお客様の情報を元にテーブルを吹き上げ、ソファに掃除機を当て、細かい埃までしっかり落とす。不思議なもので、掃除をすると花柄の模様が生き生きとして見えた。
グリーンの高級感の絨毯にも念入りにかけて掃除とテーブルセッティングを終わらせる。

 そのあとは、おしぼりのセットをする。6人席のテーブルの通路を挟んで左右に2か所ウェイター待機用のスポットがある。右が温かいおしぼりの「あつしぼ」で、左が冷たいおしぼりの「つめしぼ」。待機用スポットには、おしぼりが入ったボックスを中心に灰皿、ホステスの喉を潤し、アルコールを薄めるためのウーロン茶やお水といった給仕用のアイテムが積まれている。また、ウェイター達は忙しく往来するので、事故が起こらないよう、ちょうど狭い山道にある待機所のように道を譲れるようになっている。
 1日の営業に必要なウェイターは込み具合にもよるが3~6名で、特に太客のお客様の記念日ともなると盛大に行われるため、お店の体制も最大となる。ウェイターは入り口、待機所、最奥と配備され、それぞれの場所で1~2名が限界ではある。

 バニーは入り口とVIP席のある最奥に配置される。入ってきた瞬間の笑顔とVIPを主に担当しているわけだ。ウェイターは営業が始まれば基本的には、この必須アイテムたちの補充と、ホステスさんの要求に答えるのが仕事である。ホステスさんが思うより早く、食事、飲み物、氷、灰皿などは必要であれば交換や追加し、ホステスさんが少しだけ手を挙げたら速やかに近くでひざまずいて要求を聞き速やかに実行する。この連携がゲームみたいで楽しかった。
 ホステスさんが手を挙げる回数をいかに少なくするか?神経をとがらせすぎて「シオくん。顔怖い」は何度も聴いたセリフだった。

 テーブルのセットが終わると、ウーロン茶やフルーツ盛用の果物のカット、料理の下ごしらえの手伝いをする。最終的にはチーフのお休みの時に代理を務めるほどになるのだが、当時はとにかく果物の皮を剥くのも緊張していた。

 6時半。準備が整ったところにバニーが入ってきた。黒い耳、濃い紫のスーツに網タイツ。腕の部分にカフス付きの袖。腰に白いフワフワのポンポン。そしてウェイターとおそろいの蝶ネクタイがついていて、胸の谷間がはだけて見える。
「おやようございます!あれ?新しい子がいるー」
バニーのお姉さんは靴ベラを片手で使いハイヒールを履く。立ち上がるとグラビアでしか見たことのないようなきれいなシルエットが浮かび上がる。
工学部がすぐに紹介してくれた。
「こいつ。俺の同じ大学の友達です」
「えっと、シオンです。今日からよろしくお願いします」
「顔赤!ドキドキしてるじゃん!私もすてたもんじゃないなー!」
「俺もドキドキしてますよ!ちはるさん」
「うっそー。工学部くんはもう全然だよ。ちはるです。よろしくねシオンくん」
「あ、はい。ありがとうございます」
なぜかお礼をいってしまった。この姿の人に軽口を聞ける工学部を尊敬しそうになった。ちはるさんはケタケタと笑った。
「私の谷間へのお礼だと思っておくよ!」
見透かされたような気分になったが否定することもできず、出てきた言葉は
「ありがとうございます!」だった。なんてことを言うんだ僕。
「はは!2回目!涙出てきた」
ちはるさんは爆笑の様子でトイレに向う。
「もー。化粧なおしてくるよ」

7時が近づいてくる。予約のお客様は店長から同伴のみなさんに時間指定をし、お客様に気づかれないよう少しずつ時間をずらして入ってきていただくことになっている。狭い入口が混むし、お客同士が入り口で鉢合わせするのを防ぐためだ。
「はーい!そろそろ時間になるよ。最終確認して」
「はい!」
今日は3人で回すらしい。入口は店長に任せ、待機スポットは僕と工学部、VIP席はちはるさんが担当することになった。入店順とホステスさんとお客さんの名前案内する席を確認する。
「今日は、とにかく灰皿と氷に集中して。注文と料理は基本俺とちはるさんが行くけど、ちはるさんはVIPに今日はべったりだと思う」
「わかった」
「ホステスさんが手を挙げたらすぐに行って、わからないことあったらすぐ店長に報告して」
「わかった」
「ちはるさん美人でしょ」
「わかった。え。あ、うん。美人。びっくりした」
「免疫つくれよー」
「わかった」
「ちなみに、もし男女の仲になると罰金50万らしいから気を付けて」
「わかった。ていうか無理でしょ付き合うとか」
今ですら顔が引き攣ってるのにどうやって男女の仲になるというのか。

 店舗名が金色の筆記体で描かれ、グリーンベースに金の刺繍状の模様が施された美しい曲線のドア。店内のデザインと調和したドアが僕は好きだった。店長がドアに手をかける。
「それでは、本日もよろしくお願いします。ミラノ開店します!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?