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2022.05.08/忘れな草

11時から法事のため、どこにしまったか忘れた礼服用のカバンとパンプスを慌てて探す。黒ストッキングを履くのは、時間かかるし丁寧に扱わないと破れるしシンプルにダルい。締め付ける下着や衣服のストレスを久々に思い出した。

「黒服だとお母さん細く見えるね」と父が言う。うるせーな、そんなことしか頭にないのか、どんな体型でも愛してると言う器を見せろ、とぼやこうとする口を閉じる。母親からは「細くていいなぁ、わたしなんか太っちゃって礼服買い直したよ」と言われる。まずわたしは決して細くはない。60才を超えてもなお、太っただの痩せただのに言及しなきゃいけないのか。もうその年なら健康と推しのことだけでよくないか考えるの。個人的な意見としては、妙齢の人があまりに細いと心配になるけど。どいつもこいつもうるせーなと思いつつ、軽口が叩けるようになっていることに安心していたら法事が始まる。

この法事は祖母の七回忌だ。「母の日」に当て込んでおよそ半年前には日が決まっていた。七回忌なんてずっと先だと思っていたのにあっという間だった。本当は私たち4人と叔父夫婦を合わせた6人で、恒例のうなぎ屋で食事の予定だったが、今顔を突き合わせても兄の話しかできないだろうし、それは辛すぎるので持ち帰って家で食べることになった。言い出したのは母だった。うなぎはグルメな祖母の好物だった。

法事でしか入ることのない、檀家のお寺の本堂にいつも少しワクワクする。本尊はそこそこ大きいし、並んでる仏像も結構すごいんじゃないか?とガン見してしまう。

各座席にはお寺の教本が置いてある。お経を眺めているだけで安心する。冒頭の教えを読んで、生きることや命について考えさせられ、少し泣きそうになる(中身は覚えていない)。写経とか読経とか日常に取り入れた方がいいかもしれない。と日頃から思ってはいる。

法事が好きだ。黒い礼服もパンプスもストッキングも気に食わないけれど、こうやって故人を偲ぶ日を作ってくれるシステムは大事だ。でなければ思い起こせただろうか、祖母のことを。ぼーっとお坊さんのお経を聴ける時間も、ふだんなら取れない。自分の生活の忙しさにほとほと嫌気が差す。仕事があるだけマシか、という気持ちももちろんあるけれど。

粛々と終わり、包んでもらったうなぎを取りに寄ってから家へ帰宅。法事から家に着くまで、祖母の話も兄の話もすることはなかった。久しぶりにがっつりしたご飯を食べて眠くなる。一時間ほど寝る。その後夕方から出勤。うなぎと昼寝と勤務時間の短さのおかげで、体力的にだいぶ楽だったのはありがたかった。

私が仕事に行っている間、両親はタオルや歯ブラシを病院に持っていって、帰りにできたばかりの「餃子の王将」へ行ったらしい。いいなぁ。天津麺が食べたい。兄は相変わらず目を覚さない。救急車の中で一瞬見届けた以来、顔も見れていない。呼吸器と胃瘻で生きているだろうから、相当痩せ細っているだろうか。すぐ訃報を聞くことになるかと思っていたが、そうでもないらしい。

同じく病気の家族を抱えている人に「心配でネットで色々調べちゃうよね。私もそうだった。でもそこに書いてある悪いことがそのまんまじゃなくて、人の生命力もそれぞれだからね」と言ってもらったことを毎日反芻する。

兄に関する話は一旦ここでおわり。日常に戻るのも悲しいけれどそうするしかない。残った私たちは、いつかの別れに備えて今日もぼちぼち過ごすだけだ。祖母が亡くなった日だってあんなに泣いたのに、今ではケロッとしている。それは私たちが生きていく上で必要な脳の機能だから当然なんだけど、「別れ」に対して人は無力で、「忘れる」という機能に生かされていると思い知る。

大好きなマンガ『蒼天航路』で、主人公の曹操が放つセリフで最近特に効いてるものがある。

「過酷に生きることは 過酷に死ぬことより 何倍も力が要るぞ」

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