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アメリカンジョークの視点

大人になってから、『モンティ・パイソン』を観ろとデザイナーの先輩に事あるごとに勧められた。ブリティッシュジョークなのかわからないが、肌感的にわからない文化だなぁと思ったものだ。テリー・ギリアム好きといったことが発端だった。(僕はテリー・ギリアムがモンティ・パイソンメンバーとは知らなかったというモグリぷり)

世界各国、おらが国ごとにジョークはあろうかと思う。いわゆるカントリー鉄板ジョークだ。これを言えば国民、ドッカンってやつ。差別を逆手にとって笑いに変えるってのは、80年代なんかは激しかったけれど、僕はそのときまだ中学生~高校生だったなぁと。

僕が高校生のころ、80年代はサタデー・ナイト・ライブ(SNL)出身のコメディアンたちがハリウッドに進出するようになっていた。スクリーン上ではやたらめったらアメリカンジョークが散りばめられていて、エディ・マーフィーのジョークの根っこがわかりにくかった気がする。後々、大ファンになる『ブルース・ブラザーズ』出演のジョン・ベル―シーなんかは、だいぶ際どいことを言ってた気がする。

でも、そのジョークの根っこがわからない。カントリー鉄板ジョークはその国でその国の問題を呼吸するみたいに出し入れしてないと、ピンと来にくい。

前置きが長くなったけど『アメリカン・フィクション』は上出来ないい映画だと思う。小説であるなら読みたいくらい。主演のジェフリー・ライトは見入ってしまう演技の人。これまで映画で観たことがなかったというか、認知していなかった。推定無罪に出てたのね。

ブラック・ジョークというアメリカン・ジョークの発展形にあるものを日本人が理解するには、アメリカの映画を観まくることしかないか。黒人のステロタイプ的なイメージに対する警鐘というか、「そんなものあるかい!」みたいな立ち位置が面白い。

在日韓国人・三世の友人なんかは、生きてきてそんな露骨な差別をされたことがないと言っていた。報道などでは、ヘイトはあるけれど直接的なものは「参政権」がないことぐらいで、それも帰化するかどうかによるという話だった。ここは映画評のページなので政治的なことはどうこう言いたくないけれど、日本のなかでもタブーみたいになって友人同士で自分の出生を語らないことはよくある。

アメリカの場合は移民が多い国と言われているから、言語や見た目でも違いが明確。日本はそういう点では、比較的差別的なものが隠れたところであって、カラッとしていない。だから、ジョークにまで昇華できないんだなーと思うのだ。

『アメリカン・フィクション』は挑戦的な映画だと思うし、主人公のモンクを観ながら、「よせばいいのに」「そこは素直に」「あぁ、偏屈だなぁ」みたいな合いの手を入れながら観た。まぁ、自分に向けての反面教師的なところがあるよね。

彼女と喧嘩するくだりは、「言わなきゃいいのに」というツッコミを入れた。そういう意味では家で観るのがいいのかもしれない。僕にとっては。

エンディングはそうだよね、そうなるわな。と妙な納得感。大人になったってことだよ、おいらも。

自分自身と向き合うのには躊躇するというみなさま。まずは映画に映る自分のアバターみたいな存在にツッコミいれてみましょう。目をつむっていた自分をじっと凝視できるおすすめの一作『アメリカン・フィクション』、ぜひご鑑賞くださいませ。


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