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みんな違って、みんないい

売れっ子作家原作ほど、映画から観てしまうやろ

東野圭吾先生、まだしっかりと作品を読み込んだことがない。僕は読書モグリです。ミステリーモグリです。というのも、東野圭吾が売れすぎだからだと思うのだ。この作品、読もう読もうと思っていたけれど、映画の方で先に観てしまった。

基本的に、映画→小説(原作)の流れの方が、改編にも許容度おおきく穏やかに見守れる。そんなことない?小説(原作)→映画の流れだと、アレが違う、この設定踏襲して欲しい、主人公顔違う、若い、歳いってる、この人嫌い、みたいな。

しかも、さっきも書いたけれど、売れっ子作品は映画化されるから。え?この作品1992年発表されたの?え、僕がみたのは2024年。。。おぉ、32年のロスタイム。読んでてもおかしくないぐらいの時間が経ってました、先生。

シナリオ抜群!誉めすぎ?

シナリオは三者の視点から構成されている。ネタバレになるから黙っておくけれども。この多重構造の仕組みを映像化する際は、誰の視点になっているのかスンと移行させないといけない。難しかったのではと思うが、切り替えは自然。観ていると、複数構造があるのがよくわかる。

で、小難しい考察はいいんだけど、シナリオがよくできている分、演者の技量と演出次第で映画の完成度が変わる作品だ。

演者で完成度が変わる作品の典型

これは舞台役者の物語ゆえに、フィルムよりも舞台向けの作品だと思う。舞台だと演者のテンションは「舞台向き」となるだろう。舞台向きなら、オーバーリアクション・顔、声、身振り手振り、そう舞台は苦手という人たちにアレルギー反応を起こさせるアレだ。

1993年、この作品が小説として世に出たころ、僕は映画にズブズブだった。大学時代は8ミリ映画を撮るためにバイトをしていた。だれもが就職活動どうする?卒業旅行どこに行く?といった当たり前の進路と大学のメインイベントに全部集中していたあの頃、僕は映画を撮っていた。で、舞台はほとんど観たことがなかったのだが、友人に誘われて三谷幸喜作主宰・東京サンシャインボーイズ「ショーマストゴーオン・幕をおろすな」を観劇した。
近鉄小劇場で1993年に観た記憶がある。

で、舞台は演技がデケェと思った。今でもそう思う。隣に座ってたおじさんが「そんな言い方せんやろー」とショートツッコミ、手数多めで呟いていたのを覚えている。

この作品、舞台なら演技の方向性は皆同じになると思う。観た人ならわかると思うが、森川葵だけが舞台設定を映画の中にも取り入れていて、やや大きい演技だった。一方、岡山天音はとてもいい役者なのだが、声が聞こえにくい。演技の問題というよりも、音が拾えていないのではと思った。

間宮祥太朗はひとり男前の演技、西野七瀬は存在感が薄味。中条あやみがパットしない女性として位置づけられているのは無理があるだろう。モデル並みの(モデルやけど)ビジュアルなのだから、このあたりがピンとこない。

キラリと輝いていたのは堀田真由だ。演技がうまいなぁ、小憎らしい、この憎いじゃなくて、小憎らしい。このやや苛ッとさせる技術は、レベルが高い。重岡大毅はアイドルの肩書は気にならないけれど、あの懐に入る感じが今回の役どころにもピッタリで、本人みたいな演技だった。
戸塚純貴はうまいですよね。イケメンのはずなのに、そこを忍ばせるあたり。間宮祥太郎にイケメンを譲っているあたりが、調整できるひとなんだーと感動。

で、僕自身が演技ができるわけでもないのに、こんなに偉そうに演者の演技についてあーだこーだいうのは、作品のなかでみんなの演技プランが違いすぎるってこと。

みんな違って、みんないい

というわけにもいかないのが、大人の世界。違っていい局面もあれば、一緒の方向性を示さなけらばならない局面もある。映画だとある程度テンションは揃えていないと観ている方が冷めてしまう。これだけ、主演クラスの若手が8名も出演しているから、そのあたりのコーディネーター(演技・演出)の立ち回りは重要だったと思う。

個人的には、森川葵の大振り演技、ホームラン芝居で整えて欲しかったなぁと思う。

四半世紀を越えて面白さに気づいた一作「ある閉ざされた雪の山荘で」、ぜひご鑑賞くださいませ。


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