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ひさびさに風の歌を聴け

(11/15/1999記)
先日、仕事の帰りに近所の住吉書房に寄った。シンポジウムで、風をひらくということを考えたからか「風」という文字に目がいく。風・風・風・・風のつくタイトルの本が結構あることに気づいた。五木寛之のエッセイ集だったか「風の記憶」というのがあり、なかなかいいタイトルだな~と思った。中身は知らないが、なんとなく浮かんだ風景は、セーヌ河のほとりで(行ったことはないけれど)、またねと前夫と別れる岸恵子の姿だった。所詮、風の記憶、されど風の記憶なのだと、さらっと思い、じんわり歳を重ねるのはなんだかとてもおしゃれな気がする。彼女の抑制の効いた雰囲気が私はとても好きだ。風、風とうろうろしているうちに村上春樹の「風の歌を聴け」をひさびさに読みたくなった。・・・で、10何年かぶりに読んだ。

大学時代の私が、この小説から感じ得たものは、なんだっただろうか。ひとつは、どうしようもなくやるせない気分のときには、むっくり起き上がり、おもむろに部屋の掃除をはじめるか、電気釜をひたすら磨けということだった。それも出来ないほど、憔悴しているときには、布団に包まって、青虫のふりをしてどうにかやり過ごせということだった。実際このおかげで、私は何回かの危機をどうにか過ごせたような気がしているし、今でも、心の奥底でしっかりと言いきかせている。ひたすらビールを飲みつくすこととピーナッツの殻でJ's barの床を埋める事に彼らがひと夏を費やす姿にそれを重ねた。といっしょに、何かのふりをすることはとても強力で、ぜんぜん違う自分を演じることもできるけど、それに慣れていくと、そのままになってしまう危険もあるから気をつけろということも実感していった。

もうひとつは、書くことの意味。村上春樹はこの小説の中で自分にとってのその意味を問い答えていっている(と思う)。存在理由という言葉を、自殺した彼女に使わせているけれど、わたしもそんなことを考えていた時期があったような気がする。でも、そんな気持ちはきれいに消えうせた。

・・・で、今回は鼠の語った次のフレーズが一番のこった。
「文章を書くたびにね、俺はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かがかけたらどんなに素敵だろうってね。」(村上春樹「風の歌を聴け」より)

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