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いま立原道造を思う

(9/18/2000記)
昨年夏の朝日新聞に立原道造記念館ができたという記事が載っていた。なんで今ごろ?と私はちょっと驚き、記事を切抜いて手帳に挟んだ。行こうと思いながら1年が過ぎた。そして先日、夏の終わりを思わせる日にふいに行きたくなって行ってみた。立原さんの文章には夏の終わりが良く似合う。根津のあたりは夏の空気が満ちていて、東大のキャンパスでは蝉が唸っていた。

その昔、10代だった私は、建築家で詩人である立原道造に夢中だった。お年玉で立原道造全集を揃え、立原道造に関する本はほとんど読んだ。彼の紡ぐ美しい言葉を反芻し、彼の思いや遊び心が詰まったノートを熟読し、彼が恋人に宛てた手紙を自分がもらったかのように読み、そして彼と同じ時代に生まれなかった自分を哀しんだ。彼が歩いた東京の町や、夏を過ごした信濃追分の地図を作り親に連れていけとせがんで跡を辿るという、いわゆるおっかけだった。やがて立原さんがこの世を去った24歳になったときに、ああ、立原さんより長く生きてしまったなぁと思い、自然に彼の言葉を追うことがなくなった。それが最近なぜか立原さんの言葉にまた触れたくなり今年の夏の山には、彼の書いたものを持っていった。

僕はこの詩集が、それを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからない調べとなって、たしかめられず、心の底で、かすかにうたふ奇蹟を願ふ。そのとき、この歌のしらべが語るもの、それが誰のものであろうとも僕のあこがれる歌の秘密だ。・・Miti Tati

詩集や詩自体が立原道造が作ったものとしての形を失って朽ちていったときに自分の言葉が人知れず世界を漂うことを願う。それは巧くいっているようだと教えてあげたくなったりする。

記念館には、バー・コペンハーゲンと命名した彼の部屋にあったランプや本棚、そして自分の為に設計した風信子ハウスの模型もあった。そして、最近新たにでてきた堀辰雄との往復書簡。17の頃の立原さんに堀辰雄は書いている。古風な物語を書いてみること・・。環境を作りだし、その中に人を入れること・・。

最期に立原さんは、風景をじっくり描写するなかに思いを載せるというやり方の堀辰雄から離れていこうとした。そして戦争に向かう暗い重い空気の中で自分の観念や意思を前面にだしていくやり方に惹かれていき、そして亡くなった。最期に離れていこうとしたものは、立原さんの真髄である。ベッドの上で「五月の風をゼリーにして持ってきてください。」と言った彼は結局離れていけず、風に乗ったまま三月の終わりにいなくなった。彼が奏でる言葉のなかに美しく哀しい思いが織り込まれている。

そうして僕がいつもよい言葉を誌すことができるように。いつも自分を偽らずに言う言葉がそのままよい言葉と一致することができるように。・・Miti Tati


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