ぬるいコーラ
夏が終わっていく独特の気配感を好きになったのは、高校生の頃。稲垣潤一の“夏のクラクション”の「海沿いのカーブを 君の白いクーペ 曲がれば夏も終わる」というフレーズが、私の胸に刺さった。大人の洗練された恋のイメージが膨らんで憧れた。夏の終わりを象徴する原点となり、こんなに時が経った今でも、海沿いドライブをして夏の終わりを確かめている。
少女時代
小学生の頃からずっと、夏のはじまりは得体の知れないワクワクが増していた。何か楽しい事に出会えそうな予感と、夏の魔法みたいな期間限定のマジックを待ち望んでいた。水着を必ず1着は新調して、遊びに行く計画はびっしり詰めて。もちろん、突然の遊びのお誘いも寝る間を惜しんで夏をめいっぱい満喫していた。
そんなワクワクと同時に、夏の終わりの切なさみたいな要素が加わったので夏の楽しみは『始まる前から終わる頃まで』へと変化していった。
バブル期
大学生になり、行動範囲も広がった。お金の出入りが変わったせいもあるだろう。バイトをしていたからお小遣いは少し増えた。しかしいちばんの影響力は、バブル期でいろんな所へ連れて行ってもらう機会やチャンスに恵まれたのが大きい。
自分でお金を支払う機会がないお出かけが多くなっていた。
そして社会人になってからも、夏には“特別な何か”を期待してしまうマジックな季節として楽しんでいた。
そのあたりからだろうか、リゾートホテルの高級なプールや海外旅行や、避暑地のヴィラで楽しむ事を覚えていった。
計画的且つ追われる夏?
子供が産まれてからは、自分が楽しむ夏という認識から、子供と共に楽しむ夏の過ごし方へと自然に変わっていった。行事も増えて、行き先も持ち物も変わっていく。夏の計画は早めにして、行き先予約は必須。お土産を買うことや写真や映像を思い出に残したり報告する必要のある忙しい夏へと進化していく。
忘れていたピュアな夏
今年の夏、大学生の息子が友人と3人で伊勢方面のグランピングへ出かけた。
“いいなぁ〜”と私は妙にウキウキして、あれこれ質問したらちょっとウザがられたので、“あかんあかん、そっと見送ろう”と静かに見守った。
『水着テキトーに見てきてくれる?」と頼まれ、仕事帰りにあちこちピックアップして写メを送って、2週間ほどかけて息子が決めた水着を買ってきた(ちょうど誕生日前なので、バースデープレゼントとして)。
旅から帰ってきた息子は遊び疲れていたので、翌日に聞いてみた。
『グランピングどうだった?お土産は何買ってきてくれた?楽しかった?伊勢エビ食べた?松坂牛は?』
「うーん、買い物してない。とにかく星がキレイで海がすごく綺麗だった。グランピング場のサウナが面白くてよかった。伊勢うどんが美味しかった」
そう言って見せてくれた写メは、アプリ加工したり、観光地として作っていない美しい自然のままの景色が広がっていた。
鳥肌が立って、胸がキュンとなって、涙が出てきた。
これが、青春なんだ…。
こんなピュアな感性で夏を楽しんでいる息子が眩しくて羨ましく嬉しかった。
そうだった。夏は何もなくても楽しいんだった。
ただただワクワクする魔法を胸に、見たもの感じたものをそのまま受け止めて楽しめるはずだったのだ。
いつから忘れていたのか?この感じ。
観光やお土産やグルメや有名なホテル宿泊や…そんな人工的なモノに捉われていた私は、夏の楽しみ方を忘れていたのだ。
息子の写メの星空と海、グランピングの風景、歩いた防波堤。たくさんのピュアな夏を見ながらふと好きだった歌も思い出した。
ZARDの歌で1番好き。
ぬるいコーラしかなくても夢だけで楽しかった。本当に。
shio shio
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