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【読書感想】猫を抱いて象と泳ぐ/小川洋子


宝箱を作ったことがあるだろうか。
空き缶でも瓶でも、何かしら好きなものを収集して、その中に閉じ込める。
お気に入りのおもちゃ、友達からもらった手紙、種類ごとに思い出を閉じ込めていた箱はたくさんあった。

その中でもとりわけ、宝箱と言えるものがあった。わたしはビー玉やおはじきの、透明でキラキラしているものが好きだ。ラムネびんから取り出したそれや、川で拾ったものをピンクのシュガーポットに収めていた。その中にイミテーションの指輪なんかも入っていたと思う。本物の宝石や指輪に興味はあまりないが、原石、鉱石は好きだ。わたしの宝石箱には、あこがれが詰まっていたような気がする。

「薬指の標本」という小説で、小川洋子を知った。
まず題名がとても美しくて、その文章の美しさに、悶えたような記憶がある。
当時はそうはっきりと感じたわけではないが、小説そのものを、大切な何かを収めた箱だと思うようになったのは、著者の作品に出会ったためだ。

「猫を抱いて象と泳ぐ」は、題名に惹かれていたものの、内容が全く検討がつかず、書店で数年視界の端にあり続けた。買った後も、数年積読していた。

大体面白い本を読了をした後の「もっと早く読んでおけばよかった」という焦燥で、過去の自分を呪うことがある。

それが本書は、「待っていてくれたんだ」「今読んでよかった」という、じんわりした安心感があったのだ。

感動というものは、種類がたくさんあるのだ、と、いろんな本を読むたびに思う。この小説は、本を閉じた時、その本の表紙、かたち、文章、全てが、大切で愛おしくなるような気持ちになった。

「猫を抱いて象と泳ぐ」は、チェスと人生がかかわる話だ。
わたしはチェスを全く知らない。興味はあるが、いかんせん難しく、アソビ大全のチュートリアルで詰んでからは触れずじまいだ。

この小説はチェスを知らない人間でも、魅力的で、やってみたいと思えてきて、今チェスの本とか買おうかな〜などという浅はかな気持ちが湧いてきている。棋譜が読めるようになりたい。わたしもリトル・アリョーヒョンの詩の美しさを感じられる人間になりたい……。
そして、チェスを通して、他人と語り合ってみたい。そんなふうにさえ思える。

小川洋子の文章は不思議だ。
慎ましいのに、うつくしい。華美じゃないのに、装飾が豊かだ。何というべきか、いまだにわたしは正確な言葉が出ない。けれど、小川洋子の小説に触れるとき、美術館で展示物を見ているような気持ちになる。

それと文章が、物語が、押し付けがましくない、ということを思う。
文字、文章、いくらでも、表現というのは無限で、ものを書く人の数、企業の数、いや、そういったものを書かない人を含めて、多様な表現がある。
最近ならSNSバズ構文とかもあるだろう。もちろん「伝える」「伝わる」というのは大事だ。
だが小川洋子の文章は「こう思ったらいいんでしょ」という、書き手が透けて見えてしまったような気持ちには全くならない。代わりに、自分の中だけの、原石のような、大切なものを受け取った気がする。

本当に文章がうまいのだ。
だから、自分だけの宝箱のように感じるのかもしれない。

わたしは、本の読了後に感想をつけるノートを持っている(このnoteではなく、物理で)。
この感想ノートはわたしの棋譜みたいなもので、宝物を入れている箱と同じかもしれない。

いつかわたしが、チェスができるようになったのなら、「猫を抱いて象と泳ぐ」の話をしながら、誰かとその海を一緒に泳ぎたい。

以上。


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