【小説】リリの電話
リリの電話
白山リリは町でいちばん嫌われている女の子だ。果樹農家がいくつか並ぶ山の付近の、誰が見てもボロ小屋としか思えない小さなアバラ小屋に住んでいて、片親で父親は酒浸りで、職も就かない、町の中でも有名な鼻つまみものだ。
それなのに、リリはクソがつくほど美少女だ。
亜麻色の長くて軽やかな髪、長いまつ毛に囲われたガラス細工みたいに透き通った瞳。白い肌に小さくて細い顎。身長は中学三年生らしい平均さだが、そのスタイルが、人形のように整っている。
奈帆には、それが不気味でもあった。
騒がしい教室の中で一人、課題を黙々とこなす、まるでドラマのワンシーンをわざとらしく撮られているようなリリの姿を、奈帆は頬杖をついて、遠巻きに眺めていた。奈帆の向かいに座る友人が塾のテストをこなしているのに目を落とし、またリリに目を向ける。
リリはいじめられているというわけではなかった。かといって、友達はいなかった。いつも女子には陰口を言われていたし、男子からはいつも「ワンチャン」ないかと思われていた。
だからリリは、いつも遠巻きに眺められている。
「ね〜、奈帆。この問題わかんないんだけど」
友人の朋花が声をかけた。奈帆は問題用紙に目を向け、頬まで伸びた黒髪を耳にかける。
「わかる、わかんない以前に、回答ズレてるよ。一個ずつ」
「えっ、嘘」
「ほんと」
奈帆はあくびを噛み殺す。窓から差し込む日差しがうなじを温める。しかめっ面で問題を上から見返す友人から目を離し、窓へ視線を移した。無駄に広い校庭。高い建物なんかひとつもない町。
町。
この町はとても小さい。
奈帆はこの町が、嫌いだ。
1
早朝、リリは朝刊を配るバイトをしている。町の大人はそれを周知していたし、大人づてで子供たちも知っていた。でも、「朝刊を配っている」と、知っているだけだった。
午前四時五分。まだ青暗い膜が世界を包む中、奈帆はパジャマ姿のまま玄関に降りる。
カタン、と郵便受けが開く音がして、新聞が差し込まれた。少し経ってから、奈帆は玄関の扉に身体をもたれ、薄く扉を押し開いた。
臙脂色の体操服に身を包み、亜麻色の長い髪を一つに縛ったリリが自転車に乗り込む姿が見えた。朝靄の中に消えていく様子を、奈帆はただ見つめる。声をかけることはしない。特別、仲良くなりたいと思うわけでもない。だから、ただ見る。
郵便受けから新聞を抜き取り、居間に置く。奈帆は自室に戻りパジャマを脱いだ。体操服に手を伸ばしかけ、制服に手を移して、着替える。
バレー部も引退したのだから、もう朝練の必要はないのだが、つい癖で、早く起きてしまう。
ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと仰向けに倒れ込んだ。手のひらから、かすかにと新聞紙のインクの匂いがした。
カーテンの向こうから、日の光が広がり始める。一階から重い足音が聞こえる。父親が起きてきたのだろう。いつもこの時間ごろに起きて、新聞を読むのが習慣らしい。
さっさと家を出るべきだった。奈帆は眉をしかめ、身をよじり、身体を起こした。
奈帆は無言で野菜ジュースを飲みながら、ソファーで朝のニュース番組をぼんやりと眺めていた。
「奈帆、ちゃんと朝ごはん食べなさい」
母親が弁当を詰めながら、台所から声をかける。奈帆は生返事で返し、ちらりと朝食に目を向けた。バターロールとウインナーと、プチトマトとレタスのサラダが置かれている。
「今日は集まりがあるから、遅くなる」
父親が、母親に向かっていったのだろう。母親はカレンダーに目を移し、「そうだったわ、みなさんによろしくね」といい、詰め終わった弁当の蓋を閉める。
奈帆の父は、町長だ。なんだかいつも忙しそうだという様子をしているが、何をしているかは、奈帆は知らない。知らないし、興味もなかった。町長、とかいう名前だけでなんだか偉そうだ。
町で——主に中心地で、奈帆を知らない人はいない。奈帆は町では「鈴木さん家の娘さん」だ。父親のオマケかよ、という気がして、嫌だった。
父親も嫌いだった。人の進路に口出しをしてくるし、人付き合いまで難癖をつけてくる。「くれぐれも、あの家の人間とは付き合うな」と、それでも町長かよ、と思ってしまうようなことを平気でいうのだ。
父親のいう「あの家」がどの家がすぐにわかる。リリのことだ。別に付き合う気はない。全然仲良くしようという気もないが、あのむっすりした顎に皺が寄ったおっさんに言われると本当に腹が立つ。
朝食は家族みんなで食べるのが習慣だ。だから、奈帆はじっとソファーでテレビを見つめることしかできなかった。
奈帆は野菜ジュースを飲みきり、ソファーから立ち上がりグラスをテーブルに置いて、ウインナーをひとつ口に放り込む。
「ごちそうさま」
バターロールを掴み、反対の手でリュックサックを器用に背負う。
「あ、こら、行儀悪いわよ」
「いってきまーす」
奈帆は母親の声を遮って、玄関へ向かった。
外はすでに太陽が登りきっていて、アスファルトに反射する光が眩しい。
道を歩く学生は少ない。それも当然で、登校するにしても時間は早い。
それでも、親と顔を合わせているよりはマシだ。バターロールをひと口齧り、奈帆は歩き出した。
堤防を歩いていると、川のおかげで水気のある涼しい風が通り抜ける。奈帆は川に目をやる。広い川の流れる音が、柔らかなノイズのようだ。
奈帆は、この川は好きだった。一人で、じっと川の流れを見つめていると、嫌なことが全部、一緒に流される。身を任せて、どこまでも流れていきたい。町の外まで連れて行って欲しい。そんなふうに、子供じみた空想をしてしまう。
早く学校へ行き、勉強でもしようか。そう思ったが、奈帆は別に進学校へ行こうと考えてはいない。バレーの強豪校への推薦をとるつもりだし、それなりの高校へ行ければよかった。
図書館も多分開いてはいない。ここで時間を潰そう。端末を取りだし、画面をスワイプしながら、堤防を下り河川敷へ足を運んだ。
日差しが強く、端末の画面がよく見えない。日を避けるため、橋の下へと向かう。足先に日陰の境目がくっきりと見える。奈帆は日陰へ飛び込み、ふうと息をついて顔を上げる。それから、先客がいることに驚き、端末を取り落としそうになった。
「リ——し、ろやまさん」
目線の先には、制服姿でしゃがんだリリの姿があった。先程の結んでいた髪は解かれ、頬にほつれた髪がかかっていた。彼女の指の先には、じゃれつく小さな毛玉のようなものが見える。少し毛色がくすんでいる、猫だ。
リリも奈帆の姿を見て、やや驚いたらしく、目を見開いて固まっていた。
「……猫、好きなの」
奈帆は、何か言わないわけにもいかず、そう声をかけた。
「好き」
リリはそう返した。「鈴木さん、猫飼わない?」
「うちは、ペット禁止。世話とか誰もできないよ」
白山さんは、と口にする前に、やめた。
リリは、ふーんとだけいい、また手へじゃれる猫へ視線を向けた。
「この子、野良だと思うから。早く誰か飼ってあげないと、保健所とか行っちゃうかも」
長いまつ毛を伏せたリリの艶々とした唇が小さくそう呟いた。
「誰かに飼われていいの?」
奈帆は、なんともないように声をかけた。声が少し裏返りそうで、小さく咳払いをする。「あなたが可愛がってるんでしょ」
「いいよ」
奈帆に視線を向けるリリの瞳は、果実の表皮のような艶があった。
「誰かが可愛がってくれるなら、私じゃなくてもいいの」
「ふうん」
今度は、奈帆が鼻で唸る番だった。奈帆はあたりをそわそわと見回す。同じ学校の人が近くを通らないか、気になってしまう。これ以上話も広がりそうもない。気まずさが重なり、奈帆の口は重くなった。
リリはしばらく沈黙した後立ち上がる。猫は、リリの足に擦り寄って、小さく鳴いていた。橋の上を車が通る音がして、風が吹き抜ける。リリの長い髪も、奈帆の伸びかけの黒髪も、揺れる。
「ねえ、鈴木さん。この子と会ったらごはんでもあげてよ」
そう告げて、リリは初めて小さく微笑んだ。
奈帆は、正直驚いた。リリが笑ったところなど、初めて見たのだ。
「……いいけど。何か持ってたらね」
別に、断る理由もない。猫は奈帆のもとへ足音もなく軽やかに忍び寄り、つま先に鼻を近づけ、ふんふんと動かしている。奈帆は立ちすくんだまま身動きが取れなかった。どう扱ったらいいのかわからないし、小さな猫と言っても、噛まれたり、引っ掻かれたらどうしよう、と困惑してしまった。
「ありがとう」
リリの声に、奈帆ははっと顔を上げる。リリは鞄を手に持ち、もう立ち去るところだ。
「一緒に行く?」
そう言われ、奈帆は逡巡する。
「……いい」
「そう。じゃあ」
リリはくるりと背を向けて、さっさと歩き出してしまった。日の光にあたり、彼女の髪が、絹のように輝いた。
奈帆はその後ろ姿を、日陰から見送る。いつの間にか猫が、足元からいなくなっていた。
2
教室から廊下へ出ると、密閉された空間よりは幾分か涼しい風が流れ込んだ。奈帆は額を指の背で擦り、小さくため息をついた。
進路相談室なんて名前ばかりの、互いに義務でしかないような対面がひどく煩わしい。
耳をつまみ、先程の担任の言葉を思い出す。
「鈴木の成績と部活の功績なら問題なく、推薦は通ると思うけれどなあ」
もう何人も面談をしているであろう彼は、年齢相応の疲れた掠れたため息を漏らしながら言う。
「三者面談の時にまた聞くけど、親御さんはOKしたのか?」
奈帆は唇を歪め、少し目を伏せて俯いた。担任はむっつり押し黙る奈帆に、困ったように眉根を寄せた。
「大事な娘さんを県外に一人で出すんだから、許可がないと……」
廊下を少し歩き、奈帆は窓を開けた。風に乗って、緑の葉の匂いがする。
奈帆は、進路相談のプリントを見つめる。推薦を志望する高校は、県外にある。寮があるため、一人暮らしをすると言っても、それほど不便はない。
だが、母親にも父親にも、まだ言っていない。言えば反対されることは目に見えている。どうせ金銭面を盾に、なんだかんだと言われてしまう。それに、対抗できるほど自分はそこまでバレーをやりたいわけではない。
ただ、町の外へ出たいのだ。
町の外へ出たい。それだけなのに、なぜ、理由をつけなければいけないのだろう。バレーの強豪校に行きたい。だから推薦が取りたい。卒業先の進路もいい大学や就職先が多いから。
そんなのは全部、嘘。みんな、きっと他に理由がある。
ぼんやりしていると、朋花が後ろから軽くぶつかるように、抱きついてきた。
「奈帆、進路面談どうだった?」
「別に、ふつうー」
「松セン、ほんとに歯切れわるー。全部親と話さないとーってばっか言うし。うちらの話はどうなんの? って感じじゃない?」
「それね」
朋花の話に合わせるように、奈帆は気のない返事をして笑った。朋花は私立狙いだし、親も寛容だ。少なくとも、彼女の進路は望み通りになるだろう。
少し遠くで、戸を開く音がした。視線を向けると、リリが、進路相談室から出てくる姿が見えた。
リリは、奈帆に気づいて視線を向けた。奈帆は口を開きかけたが、何も言うことはないと気づき、そのまま固まった。リリも何も言わず、すぐよそを向いて、奈帆たちの方とは逆に、歩き出した。
「わ、リリだ」朋花は奈帆に囁いた。好奇心で満ちた声をしていた。
「リリって、卒業したらどうすんのかな」
「さあね……」
奈帆は、曲がり角に消えるリリの姿を見届けた。なぜか、彼女が見えなくなっても、目を離す気になれなかった。
「あ、リリって、パパいるって本当かな」
朋花が奈帆の腕を引っ張り、視界には朋花の三日月に細められた笑顔が映った。
「パパって……だって、いるでしょ? 死んだの?」
「そうじゃないよ、パパ活の、パパ。お金くれる人。パトロンって言うんだって」
両手で口元を覆い、朋花は弾んだ調子が隠れたくぐもった声で囁いた。
「ばからし」
奈帆は、くっついてくる朋花を払い、自分の教室の方へ歩き出した。朋花は慌てて後ろをついてくる。
「だってさあ、ありえない話じゃないじゃん。リリって、見た目だけはいいから。パパがいない方がおかしいっていうか。スーツの男の人と一緒にいるの、見た事ある子いるんだって。噂じゃスカウトにきた人なんじゃないかって」
後ろから、妙に上擦る声で延々と続く朋花の話に、奈帆はうんざりした。大股に進めていた足を止めて、振り返る。
「そんな話さあ、私たちに関係ある? 噂でしょ。朋花が実際に見たの。見てないのに、人のことそんな風に言ったらよくないんじゃないの」
急に立ち止まられ、朋花は小さく身を震わせ、目を見開いた。
そうだけどお、と肩を落とし、朋花は、口を尖らせ、毛先を指でいじる。少し声のトーンが下がった。
「奈帆ってたまに真面目すぎー。つまんない、さっすが、町長さんちの娘さんだわ」
そう言う朋花を一瞥し、奈帆はまた背を向けて歩き出した。ああいえば、奈帆が怒ることを朋花は知っている。だから、構うと余計に面倒だし、鬱陶しい。
意味わかんない。
奈帆は小さく口の中で反芻した。後ろで、朋花が呼びかける声がする。振り返らず、奈帆は早足で歩き続けた。廊下の角を曲がり、教室の前に着いたが、戸の向こうの、自習独特の気が抜けた雰囲気に開く手が止まった。朋花が追いつく気配がして、奈帆は教室に入るのをやめ、少し駆け足で図書室の方角へ向かった。
図書室は、自習中の三年生はよく使う。今日も同じクラスや他のクラスの進学校狙いの人間が、黙々と課題をこなしている。奈帆のように読書をしにきたり、時間を潰すために来ている者も少なくはない。
自分の時間のためにあるような、ひっそりとした穏やかな雰囲気に満ちている。沈殿する穏やかさを壊さないよう、奈帆は本棚と本棚の間を歩き、奥へと進む。一番奥は、この町の風土史や学校の歴史、辞典などの分厚い書籍が並ぶ。用がある人間は、学生にはあまりいない。だから、奈帆はそのスペースが好きだった。
近くに置いてあった丸椅子を引っ張り、奈帆は奥のスペースを覗き込む。普段見ないはずのしゃがんだ人影が見え、目を小さく開いた。
「……よく会うね」
亜麻色の髪に隠れた顔が、こちらを向いた。大きな丸い瞳が奈帆を捉える。リリは手元に分厚い、古い本を抱えていた。
「何、してんの」
奈帆はぎこちなく、椅子を壁際に置き、腰掛けた。
「本を読んでいたの。そういうところでしょ」
しゃがんだまま、リリは本を開く。文字が細かくて、奈帆の位置からは何が書かれているのかわからない。
「それ、何の本?」
「わかんない」
リリは本に目を落としたまま答えた。
「わかんないの?」
「風土史だけど、昔すぎるから読んでもふーんってしか、思えない」
そう答えるリリに、奈帆は眉をしかめ、大きく首を傾げた。
「何でそんなの読んでるわけ」
尋ねられ、リリはなんで、と小さく呟き、ちらと奈帆を見る。ほとんど無表情に見えるが、少し憂いを帯びていて、西洋の人形のようだった。
「なんか……読まないといけない気がしたの」
しばらく口を重くつぐんでいたが、やがてそう答えた。
「ずっと住んでいるけれど、町のこと、何も知らないから」
「ええ? どういうこと」
奈帆は失笑した。
リリは言葉を続ける。
「私の住んでるところは、いいところなのか、わるいところなのか、私じゃわからないから」
細い指がベージをめくり、舞った塵が日に照らされる。リリの言葉の意味は、奈帆にはよくわからなかった。でも、何も言えず、少しモヤモヤとした気持ちで開きかけた唇を閉じた。
「鈴木さんは、どう思う」
そう問いかけられ、奈帆ははっとしてリリを見た。リリの琥珀のような瞳が、奈帆の狼狽える表情を映す。
リリは、小さな桜色の唇を開き、静かに尋ねた。
「この町は、好き?」
綺麗なその目が、真っ直ぐ奈帆を見据える。朋花や他の、町の人ですら感じる濁りを、不思議なことに、リリには全く感じない。奈帆は視線を彷徨わせ、諦めたように肩を落とした。なぜだか、今まで身体は強張っていたらしかった。
「……あんまり」
あんまり、好きじゃない。
続けてそう答えた。
奈帆は窓に目を向ける。古い紙と、埃の乾いたにおいが鼻を掠めた。リリの返事はなく、静寂だけが満ちた。
窓から降り注ぐ白い光に、奈帆は目を細める。リリがまだ、奈帆の言葉を待っているような気がして、つい喉元に止まっていた言葉を溢してしまった。
「きらい」
一瞬、鼓動が切り取られたような沈黙。はっとして、リリの方へ振り向いた。誰にも言ったことがないのに。よりにもよって、リリに。
聞かれてしまった。
妙に鼓動が早まる。奈帆は、じっとリリを見つめた。リリは目を見開いていたが、それほど意外、という顔はしていなかった。共感、もしていない。
「そうなんだ」
リリは顔を背け、本にまた、目を落とした。
奈帆は、喉で声を押し殺す。全身が脈を打ち、落ち着かない。大会前の妙な不安と、少し似ていた。リリの小さな背を、息を詰めて見つめていた。
——リリは?
リリは、この町が好き?
好きなわけ、ないよね。
じゃあ、一緒、だよね。
瞬きのうちに、奈帆はそう、心で問いかけた。
「進路、ってどうする?」
奈帆は立ち上がり、リリの隣にしゃがみ、顔を覗き込む。リリは少し虚を突かれたように、唇を少しつんとすぼめていた。
「んー……」
リリは本に顔を伏せるように近づける。髪に隠れ、表情はよく見えない。あまりしたくない話、だと、雰囲気でわかる。それでも奈帆は、めげずに続けた。
「スカウトされたってほんと?」
リリは返事をしないが、本を開く手がぴくりと反応した。
やっぱりそうなんだ。
奈帆の鼓動は早まった。
「白山さん、東京とか行くの?」
自然と声が弾み、思わず声量が上がってしまう。少し周りをうかがって、奈帆はすぐ声をひそめた。
「私も将来は、東京行って、一人暮らししたいんだ。ていうか、今すぐしたいレベル」
奈帆は極めて親しい笑顔を見せる。胸ポケットを漁り、生徒手帳とボールペンを取り出して、ちまちまと字を書いた。不思議そうに見つめるリリに、完成したメモを渡す。
「私の連絡先。なんか困ったことがあったら、お互い協力しようよ」
奈帆の目は期待に満ちていた。リリは、友達がいないから。私が初めての友達になる。そうしたら、自分も連れて行ってもらえるかもしれない。
これからもっとリリに優しくしよう。奈帆は、極めて善良な笑顔をしていたと思う。
リリは呆気に取られ、無表情のまま、奈帆の差し出した紙切れを受け取った。
3
夕方の空は、青色も朱色も黄色も、いろんな色が混じっていて、偶然の美しさがある。奈帆はこの自然の景色だけは好きで、よく空を見上げている。
川の涼しい空気に撫でられ、奈帆は上機嫌に歩いていた。
リリは東京へ行く。多分、きっと、絶対そう。
奈帆は、彼女の反応を見る限り、「この町から出る」のを確信していた。徐々に歩く速度が速くなり、ステップを踏むように弾む。走り出す。
町を出たら、どうしようか!
一人暮らしのための、部屋を借りないといけない。そのために、バイトしようか。何のバイトをしよう。コンビニ? 居酒屋? 服屋なんかもいい。クレープ屋さんなんかどうだろう。リリみたいに芸能界にスカウトされたりして。
飛び跳ねる思考に胸が躍る。堤防の斜面に植えられた芝生を伝い、河川敷に滑り降りる。広い雄大な川。夕日を跳ね返し、黄金色に輝く水面に、奈帆はたまらず大声を投げかけた。
小さくこだまが返ってきて、奈帆は長い息を吐いた。ようやく少し落ち着き、ふと、我に返った。
リリは、自分を連れて行ってくれると約束したわけではない。勝手に、連れて行ってくれるのではないか、と期待しているだけだ。
奈帆は、河原の砂利を蹴り、川へ飛ばした。
いっそ頼んで見ようか? リリに? それはなんか、負けた気がする。
いつ東京へ行くのか、それだけ聞いてみよう。その時、一緒に荷物を持って、自分も一緒に行こう。それだ。それがいい。
口角が自然と上がっていることに気づき、奈帆は頬を両手で覆った。
ふと橋の下へ目を向けると、二つ、小さな横並びの光が見えた。少し目を凝らしてみると、リリに懐いていた野良猫だとわかった。
「よー。猫ちゃん」
奈帆はそろそろと近づいてみた。普段、あまり動物には興味はないが、今日ばかりは、何者でもいいのでこの高揚した気持ちを共有したかった。
猫は逃げず、奈帆が近づくのを目で追っていた。随分人馴れした野良だ。
「君の飼い主は、いなくなっちゃうよ。新しいご主人を探した方がいいよ」
奈帆はしゃがみ、話しかける。手を差し出してみると、猫は手のひらに額を押しつけた。にゃあ、と小さく鳴いて甘えるような仕草をされてみると、可愛いと思う。
「ご飯でも食べる?」
奈帆はリュックサックから、この後の塾のために買っておいたツナサンドのパックを取り出した。
「魚だから、好きでしょ。ツナマヨだよ」
包装パックを開き、奈帆はツナサンドを割って猫の鼻先に差し出した。
ふんふんと興味深げに見つめ、猫は奈帆の手のひらから、その食料を食んだ。ざらりとした、濡れた温かい感触が手のひらを撫でる。少しくすぐったい。奈帆は笑い、猫を撫でた。
「気に入った? もっと食べる? 二つあるから、一個あげるよ」
ファイルからいらないプリントを取り出し、地面に敷いてサンドイッチを置いた。そのまま残りの一つをかじり、奈帆はスカートをはたいて立ち上がった。
「じゃあね。リリによろしく」
ご飯を夢中で食む猫に手を振り、奈帆は堤防を登る。
あたりは少しずつ暗くなり、濃紺の空に、星が見えてきた。塾の時間が近づいている。奈帆はまた、歩幅を広く弾むように走り出した。
塾の受講の終わり際は、すっかり奈帆も緩やかな疲労で眠気に包まれていた。電灯の白く眩しい光が、目を疲れさせている。
瞼を擦って帰る準備をしていると、あまり聞き覚えのない男の声がした。
「あれ、奈帆ちゃんじゃん」
声の方に目をやると、首が少し痛むほど上を向かなければならなかった。少し細めるとぼやけたピントが徐々に合ってくる。
「さとく……先輩」
近所の一つ上の、聡がいた。背が伸び、声変わりをしたらしい。以前会った際は、まだ同じくらいの背丈で、声も高かった。今でもバレーを続けていると、親づてで聞いた。
「別に先輩とかいいよ。なんか塾で一緒になるの珍しー」
聡は歯を見せて笑った。
「ねー……私は通いづめだけど、さとくんは?」
「バイト始めたら成績下がったからって、成績持ち直すまで塾行けってさ。部活もあんのに、多忙だよマジで」
頭の後ろに手を組み、ため息を盛大につく。
「バイト、何してるの?」
「んー普通に……レンタルビデオの店員」
奈帆は動画配信サービスを使用しているため、あまりレンタルビデオというものを借りたことがなかった。聡のバイト先を聞いても、ぼんやりとしたイメージしか湧かない。
「へー……高校楽しい?」
「ぼちぼち。まあ、バイトと買い食いできんのが一番楽しい」
聡と奈帆は、並んで歩き出し、話しながら教室を出る。
「いいなあ、なんか自由そう」
「奈帆ちゃんももうすぐじゃん。なんかやりたいことあるの。やっぱりバレー?」
「うん、そう……」
奈帆は曖昧に頷いた。親の付き合いが深いと、どれだけ親しくても本心を明かせない。子供からの情報は、親同士に全て伝わってしまうからだ。聡のことは、兄のように慕っているが、結局は他人だし、聡も親に聞かれたら、奈帆の情報を答えるだろう。奈帆もそうだ。自分のことを話さないで済むのであれば、喜んで他人の子の情報を親に話す。
建物の外へ出ると、道路にはやけに停車した車が多かった。
「なんか、迎え呼んでる人多いね」
奈帆はあたりを見回す。リュックサックから端末を取り出し、画面を見ると母親から迎えに行くと連絡があった。
「あー、なんか不審者が出てるとか言ってたな」
聡も端末をいじりながら呟いた。「不審者っつーか、余所モンじゃねって思うけど」
「え?」
「町の人間だったら大体顔見知りじゃん。最近越してきた人とか、UターンとかIターンの人がウロウロしてんのを通報されたんじゃない。かわいそーにねえ……」
UターンとかIターンって何、と奈帆は聞けずに、へえと頷いた。
「じゃあ俺は、この後バイトだから」
聡は右手を冗談ぽく上げ、去ってしまった。
「がんばって」
後ろ姿に声をかけ、奈帆は振り損ねた右手を下ろす。
バイトか、と思いを馳せる。職業体験はあったものの、実際に働くとなると、どういう感じがするのだろう。
そういえばリリは、もう働いているのだった。朝刊を配る仕事をしている。そうぼんやり思いながら、壁に背をもたれ、母親が来るのを待つ。
端末のメッセージアプリを開き母親に返事をし、ふと夜の降りた町に目を向ける。スーツを着た大人も、私服を着た大人も無言で歩いていく。時々複数で歩く大人だっている。酔って大声で話す大人もいる。塾の向かいにある商店街の裏には飲み屋が複数あるのだ。
——こんなとこにいて、つまんなくないのかな。
大人になると、何もなくて、いいようになるのかな。
さとくんは、そんなことなさそうだった。大人になるのが楽しそうだった。
奈帆が瞬きをするたび、思考が増えた。
聡は中学校でも男子バレー部でエースだった。聡を見ていると、この先も楽しいことが待っている。そんな気がする。
どっちを信じればいいんだろう。
奈帆は目を伏せた。視線の先にロービームの光が広がる。顔を上げると、奈帆の母親の車が見えた。
車の後部座席に乗り込み、奈帆は窓に目を向ける。走り出した景色に、一瞬だけ、路地裏にリリの姿が見えた気がした。リリと——知らない、男の人。どきりとして、咄嗟に目を逸らした。
——それは誰なの?
その人は、リリの「パパ」なの?
見間違いではないかと思い、奈帆はもう一度通り過ぎた路地裏の方向を見やる。そのままずっと、視線を送り続けていた。街灯と店舗の明かりが光るばかりで、何の姿も見えはしなかった。
4
リリが、来なかった。
いつも通り新聞を郵便受けから引き抜き、玄関の扉を開いた。今日は挨拶をしてもいいかな、と奈帆は顔を出した。
そこで見た後ろ姿は、リリではなかった。妙齢の女性だ。たまに、朝練の時に見ていた朝刊配りの人だった。
奈帆は玄関の外へ飛び出して、思わず、彼女の後ろ姿に声をかけた。
「あの」
裏返りかけた奈帆の声に、女性は反応して振り向く。あらおはよう早いわね、と、驚きながらも笑顔で返してくれた。
「リリは」
「今日はお休みするって」
「風邪とかですか」
「さあ、そこまでは……」
女性は頬に手を当てて首を曖昧に傾げた。ごめんなさいね、と謝り、彼女は立ち去っていく。
奈帆は部屋に戻り、端末の画面を見た。連絡はなく、朋花やグループの連絡しか来ていない。グループを開き、参加者のアイコンを押してみるが、そこにリリはいない。そういえばリリはグループにすら参加していなかった。奈帆の連絡先を渡したが、リリの連絡先は知らない。
奈帆は、慌てて机の引き出しから、大昔のプリントを引っ張り出す。知っているのは連絡網に書かれた自宅の電話番号くらいだ。
慌てて制服に着替え、リュックサックを引っ掴み外へ出た。
もしかしたら、もう、リリは出発してしまったのかもしれない。昨日「パパ」と会っていたのは、もう外へ出る準備をしていたのではないか。そう思うと、気が気じゃない。
自宅——正直あの、リリの父親が出るかもと思うと、かけたくはなかったが、ここしか手段がない。走りながら、意を決してリリの自宅の番号を入力し、通話ボタンを押した。
無味な通話待機の音がする。奈帆は堤防を走る。どこへ向かうべきかわからないまま、電話がつながるのを待った。
このまま、駅の方に行くべきだと奈帆は思った。奈帆は、それしか、町の外へ出る方法が思いつかなかった。
電話は長い間、繋がらない。奈帆は、諦めて電話を切って立ち止まった。息切れをするほどではないが、部活を毎日していた頃に比べると、やはり体力は落ちた。
奈帆は少し歩みを進め、橋の上で立ち止まる。町が長く、広く、続いている。閑静な住宅街の屋根。見慣れたスーパーの看板。電飾に囲まれたパチンコの看板。いつの間にか、知らない建物がいくつかある。知らないマンション。知らない店。朝日に霞む景色は、見慣れているはずなのに、どうしてか、初めて見るものが多い。
額に浮いた汗を指の背で拭い、奈帆は長くため息をついた。橋の柵に手をかけ、河川敷に視線を落とす。風が汗に濡れた髪の根本を吹き抜けていく。車も通らないしん、とした空気の中に、砂利の擦れる音が、橋の下から聞こえた。
奈帆は、堤防に戻り、ゆっくりと河川敷へ降りる。橋の下へ顔を覗かせると、亜麻色の髪と、小さな背が見えた。
「リリ」
奈帆はホッとして声をかけ、近づいた。彼女は、振り返る。
——紫陽花。
奈帆は彼女の顔を見て、怯むと同時にそう思った。
リリの真っ白な肌に——桜色の唇の横に、赤い痣が出来ていた。それだけではない。制服からのぞく細い腕にも赤と青の混じる傷がある。
「何それ、どうしたの」
リリは答えず、視線を下へ落とした。つられて奈帆も目を向けると、いつもの甘える猫の姿ではなく、ぐったりと横たわる猫の鼻先が見えた。呼吸が浅いのが、遠目に見てもわかる。
「……猫が、具合悪くなっちゃったの」
リリはぽつりと、口にした。
「え……いつ」
「昨日、夜、見にきたら」
「ずっとここにいたの」
「そんなわけないよ」
リリは、少しだけ、無理をして明るい声を出した。
「動物病院に連れて行きたかったから。家に一度、連れて帰ったの。そしたらお父さんに、すごく怒られたの」
——それで、そんなことになったの?
奈帆は、声が出なかった。親に、殴られたの。どうして、親が、そんなことをするの。
黙っていると、リリは続けた。
「私、どうしてもこの子を助けたかったから」
「行こう、よ、病院」
どう、言ったらいいのか、わからない。奈帆は声を絞り出し、そう口にした。病院。猫を。リリを? わからない。けれどリリは、多分、病院には行っていない。そう思った。
「もう、行ったの」
リリは猫を抱えた。持ち上げられた猫は、ぐるぐると小さい唸り声を発した。
「なんか、食べちゃダメなもの、食べたんだって。マヨネーズとか、玉ねぎとか」
「野良だから、何でも食べちゃうし、しょうがないよね」
そう零すリリのそばに、奈帆はつい、近づいた。ふと、端に、くしゃくしゃに縮み、汚れた紙を見つけた。
——プリント。
そうだ。猫に、餌をあげた、あの時下に敷いていたプリントだ。
そのプリントの上には、乾いた吐瀉物がついている——ように、見えた。
「あ……」
マヨネーズ。玉ねぎ。
あの日、私は、何を、あげたっけ。
サンドイッチ。
ツナの。
いつも食べている。私が好きな。
足元がふらついた。奈帆は、急に頭から血が引いていくのを、感じていた。
リリがこちらを向いた。何かを言っている。何を言っているのか、遠くて、聞き取れない。
西洋人形のような瞳が、奈帆の青白い顔を捉える。猫が少し目を開いた。奈帆を見て、少しだけ小さく鳴いた。
気がつくと、奈帆は、また堤防を走っていた。ばくばくと鳴り響く鼓動。血の味がする乾いた口の中。ぐらぐらと揺れる視界。三半規管が抉れる。喉元に迫り上がる吐き気に、奈帆は立ち止まり、地面に手をついた。
乾いた喉に息を押しつけると、一気に嘔吐感が込み上げる。けれど、透明な涎だけが落ちる。ひどい吐き気は治らない。
耳鳴りがひどい。視界が歪んだ。目の下を、雫が伝い、地面にぱたぱたと落ちていく。
私だ。
私だ。私だ。私だ!
呼吸が荒くなる。奈帆は真っ白な頭に、先程のリリの言葉が聞こえる。
自分が、猫を、殺しかけた。
リリはそれを知っている。知っているから、私に話したんだ。怒っている。恨んでいる。さっきもきっと、私に対する罵倒を言ったに違いない。
細かい砂利が手のひらに、膝に突き刺さる。
もうリリとは、友達になれないのだ。
どう、歩いたのか思い出せない。それでも、奈帆は、帰路についていた。
家に帰ると、リビングから父親が顔を出した。いつもよりも、険しい顔をしている。
奈帆は顔を逸らし、急ぎ足で階段を登ろうとした。
「奈帆」
低い声色で、呼び止められた。奈帆は顔をしかめ、渋々向き直る。
「資料が、来ているぞ」
リビングへ視線が向けられ、奈帆はハッとする。急いでリビングに駆け込み、テーブルに置かれた、包装ビニールが破かれた冊子の表紙を見る。奈帆が第一志望としている、県外の高校だった。
「県外に行きたいのか」
後ろから、そう聞こえた。
奈帆は、答えないでいた。重い沈黙が、耳鳴りとなって広がる。
「わざわざ県外に出なくても、バレーは出来るだろう」
違う。
「それとも、本気でバレーの選手になりたいのか?」
違う。
違う、違う、違う。違う。
奈帆は唇をきつく噛んだ。
父親の、呆れたようなため息が聞こえる。奈帆はきつく、手のひらを握る。細かい、ひりついた痛みがした。
「何にしても、話してくれないとわからないぞ」
「話すことなんてない! どうせ、何言っても進学校に行けってしか、言わないんでしょ!」
振り向いた奈帆に、父親が眉をひそめる。口を開きかける父親をよそに、奈帆は資料を抱え、顔を伏せて、部屋を出る。
「絶対、この学校行くから。絶対口出しさせないから」
そう口にして、二階へと駆け上がった。
自室に戻ると、部屋には朝の日差しが満ちている。心の中は嵐が通った後のように、ぐちゃぐちゃのままなのに。
また涙が出そうになり、奈帆がベッドに資料を投げつけ、自分もベッドに突っ伏した。
知らない。
もう何も、知らない。
リリも、猫も、父親も。知らない。私は何も悪くない。
奈帆はうずくまり、喉の奥から勝手に絞り出る声を押し殺す。
悪い、のは、じゃあ、誰。何。
身体が重い。静寂に押し潰されそうになる。誰かが自分の首を、締めているように苦しかった。
「……ごめん」
奈帆は呟いた。目を閉じると、溢れる。熱を持った涙が頬を伝う。心の中で、繰り返す。
リリの制服姿の背中が浮かぶ。
その背中に、何度も、ごめん、と呼びかけた。
目が覚めたのは、夕方だった。
珍しく寝坊をしたと思い、起こしに来た母親には、具合が悪いと言い、奈帆はあれから部屋に籠った。
何度も何度も、目を閉じて呻いているうちに、本当に眠りに落ちていたらしかった。
気だるい身体を起こす。あれは全部、悪い夢だったのではないか。そう思いたかったが、床に落ちた資料が、現実なのだと理解させた。
リリに謝ろう。
——どう言うべきか、償うべきかもわからない。もう話も聞いてもらえないかもしれない。
それでも、謝ることしか、できない。
彼女の家に行こう。そう思い立ち、奈帆は端末を持って、階段を降りた。父親は仕事で出ているし、母親も、買い物に行っているらしく、台所にも居間にもいなかった。
家を抜け、奈帆は果樹農家のある方へ向かった。
リリの家は、一見ぼろぼろの小屋だ。いつも彼女の父親のいびきか、何らかの大声が聞こえている。小学生たちは魔物の家だと言って、肝試しのようにリリの家に近づいては逃げていた。
木々と土のにおいがする。奈帆は、駆け足に果樹の木々が立ち並ぶ道を通り抜ける。山道になるにつれ狭くなる道の途中で、不似合いな、黒い車が停まっていた。足取りを緩め、奈帆は珍しげにその車を眺める。車の種類など全くわからないが、それでも、高そうな車だということだけは、見てとれた。
通り抜ける際、中に人が乗っているのが見えた。スーツを着ている男だ。奈帆は驚いて視線を外し、そそくさと車の横を通り抜けた。
上り坂を抜けた先に、リリの家を見つけた。入り口には空の缶や酒瓶やら、黒いポリ袋がいくつか並び、締められていない玄関の鍵は錆びていて外れそうだ。古い木のにおいとかびと、酒のにおいがする。父親が酒を飲んだ後と似た、むっとしたにおいだ。
奈帆は顔をしかめながら、胸を上下させ、息を整える。
煤けた戸の前に立ち、奈帆は、「すみません」と呼びかけた。
「ごめんください。リリさん、いますか」
返答はなかった。ごめんください、と繰り返すが、まるで人の気配がない。
戸を開くと、酒のにおいはさらに強まった。人が住んでいるにおい——というよりも、汗と、体育館のトイレを煮詰めたようなにおいがする。
リリはそんなにおいは全然しなかった。本当に、リリはこんなところに住んでいるのか、疑ってしまう。
「誰もいないよ」
遠くから、声をかけられた。男の声だった。
驚いて振り向くと、黒いスーツの男が立っていた。顔だちは少し眉の濃い優男だが、ぴっしりとしたオールバックが、都会の雰囲気を思わせる。
「そこには、誰もいないよ」
呆然としていると、スーツの男はもう一度そう言った。
「……でも、確かに、ここは」
奈帆は困惑し、交互に視線をリリの家と男の間に彷徨わせる。
「高校生?」
「いえ、中三……です」
そう答えてから、知らない人間にどこまで答えていいものか、と思い、言葉を濁した。
「ここの人、知り合い?」
「知り合いっていうか……」
「回覧板なら、もう、ここには回さなくていいよ」
「あの……えっと、あなたは、誰、なんですか」
奈帆は少し、弱い声で尋ねた。男は顎を撫で、一瞬、余所を見て、人の良さそうな作り笑顔をして見せた。
「ここの人の友達でね。ここに住んでたおじさんは、この町からいなくなるんだ。その引っ越しのお手伝いをしに来たんだよ」
「そう、なんですか」
リリは、家の戸を閉めた。男の視線は、家の奥に向いているように思えて、なんだか、閉めなければならないような気がした。
「あの、リリ……この家、女の子も、いるはずなんですけれど」
「お友達?」
「……あの、もしかして、リリをスカウトに来た人ですか」
「スカウト?」
スーツの男は、目を丸くした。ネクタイピンを指でいじり、小さく吹き出した。
「君、アイドル志望かい?」
「あ、いえ、別に……」
奈帆は急に顔が熱くなるのを感じ、顔を下げて肩を縮めた。笑われた、という恥ずかしさと、男が急に素を見せた気がして、ほっとした。調子の外れた軽口が飛び出してくる。
「リリ、東京に行くんですか。芸能界とか、デビューしたりして……」
奈帆の早口に、男はますます声をあげて笑った。奈帆はうなじに汗をかくほど、熱を持ってしまった。
しかし、彼は本当に、町の外から来たのだ。いざ目の前にすると、連れて行って、と喉まで詰まった言葉を、なかなか発することは出来ずまごついた。
意を決して高揚した顔をあげ、奈帆が口を開きかけると、男の言葉が遮った。
「東京に行ったことは、ある?」
「旅行で、何回か……」
家族旅行で行ったことは、数回ある。奈帆がそう答えると、男はそうかい、と頷いた。
「いつか自分で来てみるといい」
出鼻を挫かれた奈帆は、首を傾げた。
スーツの男は奈帆に近づきもせず、少しずつ背を向ける。
「誰かに連れ出してもらって見える景色は、そいつが見ている景色しかないんだ」
奈帆は、何も言えなかった。去っていく男に声をかけようとしたが、男は、すでに誰かと連絡を取っているらしく、端末を耳に当てて話しているようだった。
リリは、どこにいるのだろう。
下り坂を歩く。スーツの男の車は、あの後すぐに退いたのか、帰り道にはなかった。
家にもう帰らないのなら、リリは、すでに町にいないのだろうか。
すっかり、暗がりになった山道は、明かりがほとんどなく、暗い。商店街付近の、パチンコの電飾が遠くから強く光っている。少し曲がり道に入るとすぐ、頼りの灯りも消えてしまう。
端末のライトを点け、足元を照らした。しばらく歩いていると、その端末が震えた。長い震えだった。
驚いて取り落としそうになりながら、奈帆は画面を見た。見知らぬ番号からの電話が、かかっていた。
少し不安になったが、奈帆は、気がつくと通話ボタンを押していた。無言で耳に押し当てると、相手の方も、無言だった。
相手の息遣いが聞こえる。奈帆はゆっくり、歩みを進めた。
「……リリ」
相手は、答えなかった。それでも、奈帆は続けた。
「あのね、リリ。ごめんね。……猫のこと、本当にごめん。わざとじゃないの。何を、食べさせていいとか、知らなかったの」
奈帆は、言葉にしながら、視界が滲んでいくのがわかった。
「ごめんなさい」
それ以上に、どう言葉にしたらいいかわからなかった。電話越しに、人の喧騒が聞こえる。
「今、どこにいるの。家に、行ったんだけど、誰もいなくて」
返事はなかった。奈帆は少しずつ、足を速める。とにかく、賑やかな場所にいる。信号機のある場所まで出た。赤信号の光が身体を染め、青信号に変わるのを待つ。
「鈴木さんは、悪くないよ」
——声が返ってきた。
その声は、やはり、リリのものだ。
「猫って案外、強いみたい。もうケロッとしてきたよ」
少し明るい声で、リリはそう言った。奈帆は、とにかく商店街の方へ走った。店舗の明かりが眩しい。目を瞬かせると、閃光が瞼の裏に映る。ふと足を緩め、言葉を紡ぐ。
「ねえ、町を出るって、本当なの」
「……うん、出るよ」
リリは穏やかに、そう答えた。
「もう行っちゃうの」
「行くよ」
まだ夜の初めだというのに、人通りは少ない。酒屋の明かりが奈帆を照らす。商店街の賑わいが近づいてくると、人通りも増えた。帰り際の学生の姿が見え始める。リリの電話の向こうから、歩行信号の音が聞こえた。奈帆はあたりを見回す。
「今、どこなの」
奈帆は商店街の中へ入り、再び足を速める。
喧騒の向こうで、リリが息を吸い込む音が聞こえた。
「私、決めていたの。ううん、多分、全部、決まっていたの。選ぶことは、出来なかった」
「どういうこと?」
「私の、家ってさ、本当にひどいの。だから、よくない人に頼らないとさ、生きていけないんの」
よくない人って? 奈帆は自然と、あの黒い車の、スーツの男を思い浮かべていた。
信号のある歩道へ出て、視線でリリを探す。奈帆は少し、呆然とし始めていた。どうして自分に話すのか、それは聞いてもいい話なのか。……どうして、家には誰もいないのか。
お父さんと、一緒にいるの?
そう口にする前に、リリは明るい声で沈黙を破る。
「だから鈴木さんが、話しかけてくれた時、嬉しかった。びっくりしたの」
奈帆は立ち止まった。視界の端に映る、見覚えのある、精緻な陶器の人形のような、少女の姿。顔を上げると道路を挟んだ先に、小さな動物病院が構えられている。その蛍光灯に照らされたリリと、抱えられた猫の姿が目に映る。
その近くに、山道で見た、黒い車も停車していた。
奈帆は、声も出せずに、リリの姿を見つめた。まるでそこだけが夢のような、同い年の女の子が、奈帆を見つめている。
リリは、微笑んでいた。それは、皮肉でも、疑心でもなく。リリの表情は、誰も恨んではいなかった。
——違う。
視界が滲む。奈帆は、無意識に首を横に振る。
私は、そんな言葉を、もらう人間じゃない。
「あの時、話しかけてくれて、それだけで結構助かったんだ」
道路越しに立つ、リリの口元が動く。
どうしてか、涙が出てきた。
それほど親しかったわけではない。ほんの数日、話をしただけ。いつも遠巻きに、見つめていただけ。
あなたを救おうなんて、思っていなかった。
「奈帆ちゃん。クラス対抗で、バレー出てたでしょ。本当にかっこいいと思った。私はあんな風に、飛べないから」
「私は……」
奈帆は詰まる言葉を押し出す。瞼から涙が溢れる。逆光であまり表情が見えないが、リリはずっと優しい顔で微笑んでいる気がした。
「推薦で県外、行くんでしょ。全国とか、行ってね。新聞とかで見るかも。そしたら、奈帆ちゃんはヒーローだ」
「私は……!」
「友達になってくれて、ありがとう」
にゃあ、とリリが、抱えた猫が鳴いた声が、電話越しに届く。
道路を横切ろうとセーフフェンスを乗り越えようとすると、クラクションの音が聞こえる。すぐ側にトラックの姿が見えた。奈帆は身を引き、トラックが通り過ぎるのを、呆然と見た。ハッとして、少し先の横断歩道の方へ回り込む。ちょうど青信号に切り替わり、奈帆は急いで渡ろうとする。
リリは、道路脇に止まっていた車にちょうど乗り込むところだった。
「リリ」
奈帆は叫んだ。リリは振り向き、少し、目を丸くした。
何を言えばいいのか、わからなかった。奈帆は唇を薄く開き、肩で息を繰り返す。リリは、少し目尻を下げて、再び耳元に端末を当てた。つられるように、奈帆も端末を耳に当てた。
しょうがないの。
風の切る音に紛れ、そう、聞こえた。
ぷつり、と端末の音が切れた。リリを見ると、少しだけ、ほんの少しだけ、苦しそうに唇を開く。
ばいばい。
そう言って、笑った。電光に照らされた頬に一筋、濡れた跡が光っていた。
奈帆は、立ち尽くすことしかできなかった。クラクションが鳴り、自分が横断歩道の真ん中に立ち止まっていることに気がついた。それでも、動くことができない。
リリは車に姿を消してしまった。それから、すぐに車は発車した。
車を見送りながら、奈帆は、再び身体がぐらりと揺れた。頭が真っ白になっていく。
「奈帆ちゃん!」
遠くなる耳に、声が届いた。聡の声だ。
聡に肩を支えられ、奈帆は歩道に引き戻された。聡は、黒いポロシャツを着ており、スタッフと名前が書かれた名札をつけていた。
視界の黒い靄が消えてくると、聡の心配そうな顔と、レンタルビデオの建物が映る。どうやら、聡のバイト先がこのレンタルビデオ店だったようだ。
「何があったんだよ……」
聡は奈帆を、自販機近くの段差に座らせた。
「リリが」
言葉にしようとすると、また涙が溢れてくる。「いなくなっちゃった」
膝を抱え、奈帆は突っ伏した。ええ、とかすかに狼狽する、聡の声が聞こえる。
「リリ……ああ、白山さん、ね」
聡は少し、視線を彷徨わせる。
「あのさ、友達だったの」
尋ねられ、奈帆は少し顔を上げる。
わからない。私たちは、友達、だったのだろうか。
考え込んでいると、聡は顔をしかめて、ためらうように口を開いた。
「その、気を悪くしたら、あれなんだけど。忘れた方がいいと思う」
「……え?」
奈帆は聡の顔を見た。彼は複雑そうな顔で、バイトの先輩が、と口を濁した。
「俺もさ、噂半分だからわかんないけど。不審者情報って、あの黒い車の車種に当てはまるんだよ」
リリが去った方向を見やり、聡はやはり、歯切れが悪いままだった。奈帆が聡を見つめていると、聡は観念したように言葉を続ける。
「さっきちょっとだけ、中のやつ見えたけど」
俺も、知ってるわけじゃないけどさ、先輩がさ、とやはりまだ、歯切れが悪い。奈帆はじっと、言葉を待った。
歩道信号が信号の点滅を告げ、歩行者は急いで足を進めていた。
聡は、声をひそめた。
「あれはどう見ても、ヤクザだって」
リリは、町からいなくなった。
住宅街は、商店街とは一転して静かだった。時折家の中から、テレビの音が漏れていたり、子供達のはしゃぐ声が聞こえる。街灯には小さな蛾が一匹、近づいたり、離れたりを繰り返して、光の周りを待っていた。
聡は送ると行ったが、奈帆はそれを断り、一人で歩いていた。
もう一度、リリのかけてきた番号に折り返してみたが、何度かけても、繋がらない。長いコールが夜道に響くだけだ。
自分はどうすればよかったのだろう。
奈帆は立ち止まり、端末を耳から離す。風が頬を撫でる。とても、静かに吹き抜けていく。
——しょうがないの。
リリの言葉が、頭から離れない。
最初から、間違えていた。
リリとなんか、関わらなければよかった。リリは、町でいちばん嫌われている。
でも、私は。
嫌いなんかじゃなかった。
奈帆は顔を上げる。半月が透明な空気を纏い、輝いている。はずなのに、奈帆の視界には滲んだ姿しか映らない。
だって、みんな、嫌っていた。私が嫌わないと、おかしかった。
私は、町長の、娘だから?
目が熱くなる。腹の底から、むかついた。奈帆は気づいてしまった。あれほど、嫌だと思っていた立場に囚われているのは、自分自身じゃないか。
恥ずかしくて、悔しくて、たまらない。私は、結局町の一部だ。
ぐるぐると渦巻く感情に支配から逃れるように、奈帆は、うつむいたまま早足に道を抜けた。先なんて見なくても、自分の家路は嫌なほど身に染み付いていて、わかってしまう。
アスファルトが自宅の敷地に変わる。ほらね、と奈帆は、呆れて笑う。あとは扉を開ければ——そう思い、ふと、目を止めた。
見慣れない段ボールの箱が、扉の前に置かれている。
奈帆は屈み、訝しみながら、その箱をそっと開く。
にゃあ、と、猫が顔を出し、奈帆の手のひらに、額を押しつける。箱の中には、一緒に動物病院で出された薬が入っていた。薬の袋を見ると、数字が書かれている。羅列を見るに、電話番号だ。
リリだ。
リリの猫だ。
猫の柔らかな熱が、手のひらの中に収まる。涙が、また溢れ出す。
奈帆は両手を差し出し、リリがそうしていたように、猫を抱き上げた。
——最初から、間違えていた。
私が誰だとか、立場とか、関係ない。ただ。
「……わからなかったの」
どう、関わっていいか、わからなかっただけだ。
奈帆が涙を止められないまま立ち尽くした。
猫はぎこちない抱き方にも関わらず、決して嫌がらず、おとなしく奈帆の胸に収まった。まるで気を使うかのように、猫は小さく喉で鳴いた。
*
白山リリは、町からいなくなった。
父親と夜逃げをした、という噂が、いちばん有力らしい。リリの家は、もぬけの殻になっていた。一部では、リリが父親を殺して駆け落ちをしただの、学生たちの間では、そもそもリリはいなかった、など、妙にオカルトじみた話にまで発展している。
リリがいた席は、空席のままだ。奈帆は、その席をじっと見つめていた。悪趣味に置かれた花の生けられた花瓶を見て、わざとらしいドラマみたいだ、と少し笑い、手元の高校の資料に目を落とした。
「ねえ、奈帆。本当に県外行っちゃうの」
ソワソワとしていた朋花が、解いていた塾の課題から目を離して奈帆に尋ねた。
「うん、行くよー」
「奈帆んち、よく許可してくれたよね」
「粘り勝ちよ、こんなん」
奈帆は端末の画面を見る。ロック画面に設定した、猫と撮った写真が映る。
あれから、家に猫を連れ帰り、家族会議は連日開かれた。猫を飼う、飼わない。進路は県外の高校の推薦で行く、行かない。並行して行ううちに、母親は奈帆の味方をするようになり、父親は押し負けた。父親は、案外口論に弱いことがわかって得意になっていたが、母親に、父親がどういう仕事をしているのかを丁寧に説明され、あまり理解は出来なかったが、少し反省した。父親のことは、好きにはなれないが、知らなければならない。そう思った。
「いいなー、一人暮らし。私もそっちにしようかな」
朋花は頬をついて、ため息をついた。奈帆は小さく笑った。
「ほら、プリント進めなよ」
はあい、と朋花はプリントに目を向け、書き進める。奈帆は端末に視線を落とし、机の上に置く。
——困った時は、協力しよう。
奈帆は、図書室での会話を思い出す。リリは、驚いた顔をしていた。まだ、有効の約束だろうか。
小さな町の景色に目を向け、奈帆は思う。
将来は有名人になろう。テレビに出て、リリを探そう。そして、リリを助けるのだ。そんな空想をしては、恥ずかしくなる。
真っ白な昼の光が、奈帆の身体を包んでいく。うっすらと白い月が、青空に登っている。小さな骨のような月。リリは、同じ月を見ているだろうか。
大人になるのを待ち侘びる。
——私はこの町を出る。
そして、今度こそ。私はわかるのだろうか。
あなたに言いたいことの、すべてを。
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