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【小説】最後のステラ

最後のステラ

 星は、歌っているらしい。
 ただそれは、人間には聞こえないヘルツで発されている。音楽、と言う概念を商売にしている唯一の動物に聞こえないなんて、皮肉だな、と思う。犬や猫、人間以外には聞こえているのではないだろうか。そう疑う。
 星の歌はきっと、強くて、光のようにツンとして、それから柔らかくなって届く。そんな響きを持っている。もしも聞こえたのなら、彼女のような声だろう。
 ぼくたちは歌っていた。
 横に二列、ソプラノ、アルト、テノール、バス、それぞれに分かれて並び、わざとらしいほどの笑顔を見せる音楽教師が指揮をとる。クラスメイトは、先生の半分も口を開かずにだらだらと歌う。男子はもはや、欠伸でしか開かないものもいた。ピアノを習っているという女子の伴奏だけが、控えめに、けれど主張的に流れる。
 昼下がりの音楽の授業ほど、緩慢になるものはない。ぼくはうつむきがちに、口をぱくぱくと動かす。歌うのは嫌いじゃないが、うまいわけじゃないと思う。誰ともカラオケに行ったことがないから、わからない。少し目を上げて見る指揮棒に、困惑と諦めが見える。
 澱が水中でモヤモヤとうごめくような歌の中、彼女の声は、透き通っていた。
 背筋をぴんと伸ばし、さらりと内に巻くセミロングの髪が、呼吸に合わせて揺れる。横顔のツンとした鼻と、ふっくらとした唇、小さな顎のラインが、星をつないだように整っている。
 麻木さんの声は光っている。周りの声が下に落ちているから、だけではない。無理のない裏声や、安定した流れるような歌の粒。
「その歌詞に想いをこめて」という教師の言葉を忠実に守り、情感のある揺れが、彼女の声にはあった。
 音楽の時間は、ほとんど彼女の独唱だった。
 ぼくは、できるならもう歌うのをやめて、彼女の声には聞き惚れたかった。それくらい彼女は、うまいのだ。
 せせら笑う視線も、声も、少し聞こえる。言わないけど、女子同士、視線を合わせて肩をすくめるやつが、斜め前に見えた。
 歌わないお前らよりマシ。ずっとマシ。
 絶対言えないけど。
 ぼくは誰にも見られないように睨み、もっとうつむく。
 ぼくも、こいつらも同じ、まじめにやらない、掃き溜めの存在だから、そう思ったっていい。ぼくには思う権利がある。
 彼女は、こんなぼくらを見下しているのだろうか。
 頰が熱くなった。ぼくはぼくが恥ずかしい。
 星は空に浮いているものだから。ぼくたちは、その歌に混じれない。それだけなんだ。
 いっそ強く言ってくれればいいのに、音楽教師は曖昧に困ったように笑み、少しの間麻木さんを見つめて、またみんなをみて大げさな破顔をしてみせる。
「もっと、みんなバランスを大事にして歌おうか」
 ぼくは固く閉じた唇の内で、歯の隙間から舌を出した。

 麻木さんは普段、友達がいないわけじゃない。けれど音楽の時間の後だけは、いつも一人で教室に戻る。
 陽だまりの満ちる黄身色の廊下を歩く、彼女の後ろを歩いていた。そうしようと思うわけではない。なのに、彼女の後ろにいることは、少し居心地が悪い。気づかれてはいけない、となぜか、思ってしまう。
 すっと伸びる背筋と、余裕のある足取り。こぢんまりとした背中なのに、弱そう、とは感じない。ぼくの背が彼女とそう変わらなくて、ぼくは、猫背だからだろう。
 音楽の時間だけでない。彼女はふとした瞬間、ぼくたちとは違う表情になる。
 わかりやすい、悩んでいるというものではない。どこも見ていない、ここではないどこかを見ているような気がする。
 小学生の時、縁側で叔父と花火を見た。打ち上げの数は多くないが、ちょうど家の影に被らないスポットだった。
 ぼくは花火に夢中だった。赤や青に輝く火の輝きが、ひとつにまとまった破裂音とともに空に散る。その一瞬が美しかった。
 けれど叔父は、花火を見てはいなかった。空は見上げているけれど、その目に花火は映っていない。その時なぜかぼくは、そう感じた。
 叔父はその時三十くらいだったと思う。その時見上げた横顔は、もっと若かったように記憶している。
「何見てるの、おじさん」
 ぼくは、いつもみたいに叔父さんは、「UFOだよ」とふざけるのだと思って聞いた。ぼくが喜ぶのを知っていたし、ぼくもそれを望んでいた。
 けれど叔父さんの答えは違った。
「星の影を見ている」
 花火が照す空の、煙と残光が漂うその奥。星は満天に光っている。
 星の影って、とぼくは尋ねた。けれど、叔父さんは小さく唸って、「うん」と言ってまた、轟音の響く空を見ていた。
 その数週間後、叔父さんは姿を消した。それから少しして、ビルの屋上から飛び降りたと聞いた。
 彼女の目は、花火の日の叔父さんの目とよく似ている。
 いま、麻木さんは、どんな顔をしているのだろう。
 ぼくは彼女に追いつかないよう、ゆっくり、ゆっくり後を歩く。
 星の影、という言葉。叔父さんの優しい笑顔。麻木さんの横顔。いろんなものが、ぼくの胸を狭くしていく。
 押し出されるように、無意識に開かれていたぼくの口から、言葉が漏れる。
「ねえ」
 麻木さんはキュ、と上履きを鳴らして振り返る。ぼくははっとして、少し姿勢を正した。
 ねえ、の後、ぼくは何を言いたかったのだろう。頭には何も浮かばない。星の影。星の影って、何。叔父さん。
 麻木さんは不思議そうな顔をして、少し釣り上がるアーモンド型の目をひらく。
 その瞳の色に、花火の閃光を見た気がした。
「何で歌うの?」
 ぼくは、聞いていた。それからまた頭は真っ白になり、心臓がうるさくなった。悔恨と羞恥で憤死しないよう、死にそうな音を立てて必死で血を送っている。
 麻木さんはしばらく押し黙っていた。その沈黙も似ていた。ぼくが好きなひとはどうしてこんなにも孤独のにおいがするのだろう。
「歌うのが好きだから」
 彼女は沈黙のあと、そう答えた。笑みを浮かべることもなく、その目は、ぼくを見ているようで見ていなかった。
 へえ、とぼくは返した気がする。気がついたら、彼女はもう前を向いて歩き出していた。

 叔父さんは、陽気な人だった。魚釣りや天体観測、映画や遊園地など、色んなところに連れていってくれた。ぼくの友達は叔父さんだった。
 ノイローゼ、だったらしい。そうじゃなければ、あんなことにはならなかった。
 みんなそういうけれど、ぼくは、叔父さんは川下りのテンションで飛び出したんじゃないかと思う。あのひとは空も飛べるくらい自由なのだと思っていた。
 いまも、思っている。
 そんなことは、ありえないと、わかっているのに。
 あの横顔の意味を、星の影を、ぼくはずっと考えている。
 音楽の時間は、一週間が巡るのであれば当たり前にまたやってくる。
 相変わらず溺れる蟻のようなぼくらの声を飛び越えて、星は歌っている。
 麻木さんは日に日に上手くなる。もはや彼女の声と、ピアノとあれば、先生は満足そうだった。
 そんな雰囲気を、クラスメイトたちは感じ取っているらしい。ぼくですらわかるのだから、やつらがわからないわけがない。
 だから余計、やる気をなくしている。徐々に、歌う声が減っていた。フレーズが進むごとに、声が単体で聞こえてくる。ぼくの声が目立ち始める。思わず声をひそめた。ぱくぱくと口を動かし、ほとんど呟くか呟かないか声を出し、素早く目を動かす。
 女子は、みんながやめていく気恥ずかしさから。男子は、ニヤニヤとしながら口をつぐんでいた。
 声が少なくなる。彼女の後ろで、雑音のように歌っていた声が取り除かれていく。
 ぼくは心臓が痛かった。手が冷たい。頭は脳味噌の代わりに、小石がたくさん詰められているかのように重い。声が、出ない。唇だけが震えて俯いた。
 だんだん、ピアノの音がおぼつかなくなった。彼女も不安らしく、口を閉ざし始めるクラスメイトを見ながら、演奏が止まった。
 ついに、麻木さんだけになった。
 先生もあぜんとし、指揮をとめていた。
 彼女の旋律は、それでも美しい。孤独で、どこまでも澄んでいる。湖面の上の一番星のようなのに、なぜか、ぼくの真っ白な頭には、色鮮やかな残光が蘇っていた。
 彼女の旋律は、少し揺れた。情感の揺れではない。いつもと少し違う、震えだった。
 ぼくは少し顔を上げ、彼女の横顔を見た。ぼくは目を見開いた。心臓がまた、大きく揺れた。
 髪の隙間から覗く、彼女の耳は真っ赤に染まっていた。
 小さな顎が震えていた。それでも彼女は、口を噤まない。歌い続ける。
 みんな息を飲んでいた。
 ぼくは、叔父さんが空を飛んだ瞬間を、思い描いていた。
 これは彼女の自殺なのだ。
 この歌を歌い終えたら、彼女は、ぼくたちとは違う世界へ行ってしまう。
 ぼくたちには聞こえない歌を、ぼくたちの声が聞こえないところに、心を置いてしまう。
 ぼくはそう思った。
 彼女の目は充血していた。
 線香花火のように、彼女の声は小さくなる。
 ねえ叔父さん。
 ぼくはあの時どうしたらよかったの。
 叔父さんは、ぼくが子供だから、なにも言わなかったのだと思う。ぼくたちは友達だったけれど、寄り添えても、わかりあえなかった。ぼくがまだわからなかった。
 ヒュ、と吸った息は塊になって、ぼくの肺に飛び込んだ。
 少しずつ、弱くなる麻木さんの旋律に被さり、裏返った、場違いに飛び出した歌声が、静まる教室に割って入った。
 ぼくの声。ぼくが歌っている。ぼくの頭蓋骨に響いている。生々しく、ベタッとした歌声で、彼女のように広がりはない。ぼくは思っていた以上に歌が下手だった。
 顔中が熱い。視界が滲んでいく。
 麻木さんははっとして、ぼくの顔を見ていた。
 少しの間、ぼくの声だけが、音楽室に漂う。
 歌うのが好きだから。
 彼女が言った言葉が、なんとなくわかる。
 大きく息を吸って、大きく口を動かす。ばからしい、と思う、くだらない、と思う。けれど、なんだか、ぼくがまかり通っている気がする。ぼくは強く目を瞑っていた。まぶたに緑の残光が走る。
 ぼくは、叔父さんの見る「星の影」を見ようと、必死に目を凝らしていた。花火の光で、目には余計な残光が写りわからなくなっていた。
「どこ? おじさん、どこなの?」
 小さなぼくを叔父さんは、大きな手で撫でた。
「わからなくっていいよ。いつか、わかるかもしれないし……まあ、わからなくていいものなんだ」
 そう言って笑っていた。
 叔父さんは、飛び降りたんじゃなくて、飛んだんだと思う。
 わからないけど。
 星の影を追って。
 星は歌う。
 光は美しい。
 美しくて、寂しい。
 閃光と、少し溢れる涙に目を開く。泣くな、と思うほど声が揺れてしまう。
 いつのまにか、旋律が増えていた。ソプラノの澄んだ声。
 ぼくは彼女の方を見た。
 彼女の瞳も、少しだけ濡れている。しばらく見つめあって、ぼくは姿勢を正し、前を向いた。世界がぼやけて見える。
 ぼくたちは同じ視界なのだろうか。そうならいいな、と思い、自然と笑みが浮かんだ。
 星は歌い終えるのだろうか。
 それともいつまでも、歌うのだろうか。
 滲む視界で、先生が指揮棒を振り出すような動きが見えた。ピアノの旋律が増えた気がする。まばらに声も、低く出てきたような気がする。でも、全てが遠く聞こえる。ぼくの耳には、彼女の星の声だけがはっきりと聞こえていた。
 音楽の時間が終わって、ぼくたちは別々に教室に戻った。彼女の背中は相変わらず、綺麗な姿勢を保っていた。少しだけ、後ろを歩くぼくに振り返り、何も言わずに顔を歪めた。嫌だったのか、とぼくが身構えると、すぐに破顔して、目の端を拭った。
 彼女は前を向いて、近くの友達に声をかけていた。
 ぼくは少しだけ姿勢を伸ばし、うっすらと誰にも聞こえないように、鼻歌で旋律を繰り返した。

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