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表現するということ、信頼するということ

久しぶりにnoteを書く。

私は自分を表現することが好きだ。
ただみんながみんなそうではない。

そのうちの1人、私の家族のことでも書いてみよう。

母は"自分"をしっかり持っている人だ。
意見があって、その根底にはブレない軸がある。
何を相談しても、なんだか
それだよね!っていう回答が返ってくる。

私は逆に人から言われるとなんとなく流されて
自分の意見を見失ってしまう。

母はたまに社会について
こうであったらいいのに、や、
政治や法律について
こうしたらうまく行くんじゃないの?、と
意見を言う時がある。

私はなるほどな、と思いながらも
なんだか到底自分では思い付かないような
大胆な意見だったりするので
面白いなと思いながら聞いていた。

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母は専業主婦で、
一昔前の日本の女性、って感じの境遇を生きてきたが
全然一昔前の日本の女性らしさは併せ持っていなかった。
一昔前の日本の女性らしさってなんだと言われたら
なかなか難しい質問だけれど、
夫をたてる、
慎ましい感じ、とでも言おうか。

母は私と2人で過ごす中で、
不思議なくらいいつも楽しそうだった。
それは私との毎日が、というよりは
1人で過ごす時間も含めて
なんとなく自由を満喫しているようだった。
ただ、買い物に行く以外はほとんど
社会との接点を持っていないようで、
そこが不思議だった。

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母の、社会や政治についての意見は
日本や世界の未来を見据えたものだったりするので
私は母にこんなことを提案してみた。

「ねさ、お母さん、noteやってみたら?」
意見を発信したり、社会とのつながりを持つ、
といったことを母にしてほしいと言う気持ちもあった。

母はある意味予想通り、乗り気でなかった。
話していく中で
母がいつも趣味でもなんでも
自分1人で完結してしまう理由がわかった。

つまりはこうだ。

母の意見は小さい頃から少数派だった。
意見を言えば敵を作ったし、
容姿や学力で人から妬まれたりすることも多く、
母の行動力は人に疎まれることもあった。

そこから色々な出来事を経て、
母は学習してしまったのだ。
自分は意見を言っても敵を作るだけで
陸なことが起きない。
言わずに自分で持っている方がよほど良い。

それは私からしたらとても悲しいことだった。
表現することを諦めた、とでも言おうか。

今はそんな時代じゃない。
出る杭は打たれる、なんてやってたら
多様性を尊重する社会に矛盾してると
逆に叩かれるような時代だ。
私はそう思うので、
母にも言ったけれど
響かなかったようで意見は変わらなかった。

私が少し世界を甘くみているのだろうか。

長い時間かけて学習された無力感、
長年染みついた感覚は簡単には消えないのも理解できた。

母の、
不思議なくらいに人に影響を与えようとしない姿勢の
裏にこんな発想があることを
今日話してみなければわからなかった。

表現することの裏には、
信頼と覚悟が要るのかもしれない。
私はそれを持ち合わせているだろうか?
それともまだ世間知らずの子どもなのだろうか。

不安にもなるけれど、
人がそれぞれの意見を持ち、表現することを
阻まれない、
外からの圧力だけでなく、内発的な面からも
妨げられない、
そんな社会であってほしい。

逆に言えば、
表現したくない、と言う意見ですらも尊重し、
各々の意見にはバックグラウンドが存在することを
お互いに想像し、簡単に否定されることのない
そんな社会であってほしいと私は思う。





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