見出し画像

空から死んだネズミが

それは

ええ、それは突然のことでした。
それは約一か月ぶりにジムで汗を流したその帰り道で起きたのです。
行きはランニングでジムに向かい、帰りは疲れたので歩いて帰りました。
フレンズを観ながら歩いて帰ろうかと横断歩道を渡って少し経ったところでした。

空から死んだネズミが

先ほど申し上げた通り私は音楽を聴いておりましたので、
そのネズミが落ちた時の音が「ベチャ」なのか「ボタッ」なのか分かりかねます。
ただ、突然足元というかその三歩先に突然死んだネズミが空から落ちてきたのです。
いえ、もともとそこに死んでいたわけではないのです。
そこには確かに何も無かった。
ただ、そこに突然空から死んだネズミが落ちてきたのです。
ええ、にわかには信じられないでしょう。
私もその出来事に出くわしたその後の数秒間、それを処理するのに少し時間が必要でした。
ネズミについて思い出せるのは、
そのネズミは、口から少し血が出ており、完全に目を閉じて仰向けに寝そべっていました。
口がぽかんと開いており、戯画などで死んだネズミが描かれるのを見たことはあるでしょう。その様子が再現された、そんな様子でした。
兎に角、空から死んだネズミが突然落ちてきたわけです。

笑顔でした

空を見上げると、一羽のカラスが歩道脇の木から飛び立つところでした。
なるほど、そのカラスの餌だったのか、あるいは餌にしようとしたところ人間である私に気づいて落としてしまったのか。
いずれにしても、その奇妙な事実が起きた原因を予想できる場面を目撃できたのは幸運でした。
数秒経って、私は笑っていました。笑顔でした。
ネズミが死んだのに、とお思いでしょうか。
人間は、あるいは私という個人は何とも不思議な生き物でしょう。
私の中で処理しきれない事実を目の当たりにした際、幾分恐怖も感じたはずです。
しかし、その数秒後には笑顔でした。
笑うしかない、そう思ったのです。

俗世とは

私は悟ったのです。
俗世とは、なんと奇々怪々な世界なのだろうと。
人は、その人知を超えた出来事と遭遇してしまうときがあるのです。
いきなり死んだネズミが落ちてきた
そんなことはもっと悲劇的で避けようのない出来事に遭遇した人びとを思えば些細なことなのです。
いきなり飛行機がビルに突っ込んだ
いきなりトラックが突っ込んだ
いきなり大きなものが落ちてきた

私は時に、安全に平和に健康に生きている、この大きなどうしようもない幸福を軽視してしまうのです。
それは無意識なのか意図的なのかわかりません。
でもこうして生きて、異国の地で生きて、自分から湧き出る生をひしひしと感じるこの人生、それを生かせるこの俗世に、たまに、とてつもない感謝を申し上げたい時があるのです。
それは、
空から死んだネズミが落ちてこないと気づけないくらい私は愚か者なのかもしれません。

死んだネズミは、そのネズミは。
そのネズミを見下ろし、たじろぎ、そのまま歩を進めた私の生をどれほど渇望したのか分かりません。

でしたらこの出来事、私に起きたこの出来事を私の中で消化して昇華しようではありませんか。

今日、一日の区切りで生きよ
デール・カーネギーの言葉を借りて、私は今日こうして筆を進めています。

あなたはいま元気ですか?健康ですか?
満足に食事できるお金は持っていますか?
十分に睡眠できる部屋を持っていますか?
もしそれらが揃っているとして、それ以上何を求めるのでしょう。

時代が、環境が我々の幸福水準を引き上げているのだとしたら。
その基準は自己の中にあることをどうかお忘れなきよう願うばかりです。

ではまたお会いできるのを楽しみにしております。


もしよろしければ、サポートをお願いします。こちらでの生活に役立てたいと思います。