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自立篇(Ⅲ)

筆者‐大芝太郎(2006年-志信会公式サイト「大西信弥物語」に連載)】

>>>前号より続く

35.決別

 2002 年 12 月 25 日、小池さんが自由民主党に入党することを表明しました。
このニュースは大西の頭の中を何度も駆け巡ります。
あの小池さんが自民党に入党する・・・

小池さんはキャスターから政治家への華麗な転身をしました。
しかし、最初こそ、細川内閣の総務政務次官をつとめ、広告塔として活躍していましたが、支持基盤を持たない小池さんの選挙は薄氷を踏むような思いをしながらの、苦戦が続いていました。
そして、事務所の維持と政治活動で経済的にもいつもぎりぎりの状態でした。それでも、自分の信念のために愚痴一つ言わず、戦い続けてきた小池さんの生き方は本当に美しいと思っていました。
だからこそ、大西は数年間にわたって多くの方々に迷惑をかけながら、小池さんを全力でサポートし、動員に奔走していました。

「 そういうあなた方こそ何ができるのよ !! 」
この言葉を聞いてからの数年間を思い、
「今の小池さんに(俺は)何ができるのだろうか?」
とつぶやいていました。

 2003 年正月、自民党入党後はじめて行われた小池百合子主催の新年会は、今までにないほど多くの人々を集め大成功しました。
あれほど苦労していた動員も参加者があっという間に集まったと聞き、大西は、「これで私の役目は完全に終わった。」と、なぜかすがすがしい気持ちに満たされていました。
そして、 これが大西が本当に小池さんと政治活動の場で決別する結論を出した瞬間でした。この時、大西は3年前小池さんが 自由党を離脱した時の宣言を思い出していました。

『最後に、小沢党首の政治家としての爆発力、構想力、責任感、スピード感、ダイナミックさ…、私はあらゆる面で高く評価し、尊敬しています。
それは今後も変わらないでしょう。山の頂きを極める道程を異にするだけです。
この国が小沢一郎という稀有な人物を必要とする瞬間は必ず来ます。
ただ苦しい時も、一生懸命支え続けたはずの私にこのような結論を出させないでください。お願いします。』

 大西は、自分と小池さんの関係を小池さんと小沢代議士の関係にだぶらせていました。

その後の小池さんの活躍は、敢えて語らなくても、多くの方がご認識されている通りなのだと思います。

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-写真- 二人で恒例となった〆のダーッ

36.わがなすこと、我、知る

 大西が小池代議士と決別しても、なかなか処分できないものがありました。その一つが日産の最高級車シーマです。この車は大西が、「小池さんに恥をかかしてはならない。」と言って自腹で購入した車です。
小池さんを乗せて永田町から都内近郊を移動する際に使用しようとおもっていましたが、結局小池代議士を乗せる機会を持てないまま大西は小池さんと決別してしまいました。大西にとってこの車はやり残したことの象徴だったのかもしれません。

その後、久しぶりに小池代議士から「徳島県知事選挙の応援に入るのだけれど、車での往復をご一緒してもらえない?」と連絡が入りました。

シーマ

-写真- シーマで最後のご奉公へ

 大西はシーマとともに、小池代議士を乗せて6時間余りを走りました。
道中は思った以上に会話が弾み、大西の胸にも懐かしさが込み上げてきました。結局肝心な部分には、小池さんも大西も触れぬまま時は過ぎましたが、大西にとって自分の進むべき道に確信を持てた旅になりました。

「多分、私の思いを一番理解してくれているのはこの人に違いない…。」

小池さんと別れた後、大西は小池さんに心から感謝してうれし涙を流しました。たとえ認知はしてもらえなくとも、小池さんの政治理念の継承者として、残った人生を精一杯生きていくと改めて誓いました。

「わが為すこと、我、知る」               

志信会は、大西が理念のために生きることの喜びを知った時に始まりました。

だから大西はいつでも、どんなことが起こっても、本当に楽しそうに笑っているのかもしれません。

徳島から戻った大西は、シーマを処分しました。
小池代議士というフィールドでやり残したものと一緒に。

「生きろ!」~志信会創設の根底にあるもの~ 


続篇「わが為すこと、我、知る」>>>

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