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生きるということ④

>>>前章より続く

フロムによれば、 ”能動性” とは「社会的に認められた目的行動であって、その結果として、それに対応する社会的に有用な変化を生じるもの」と定義したうえで、「単なる忙しさの疎外された能動性は、実は生産性の意味においては、<受動性>である。一方、忙しくはないという意味での受動性は、疎外されない能動性であるかもしれない」としています。

今こうしてご紹介していても、つまみ食いのような形ではかえって理解し難いような気がしますが、とりあえず、先に行きましょう (;^_^A

もし私が親切であるように見えるが、私の親切が搾取性を隠す仮面にすぎないとすれば——もし私が勇気があるように見えるが、実は極端に虚栄心が強いか、ひょっとしたら自滅的な性格であるとすれば——もし私が祖国を愛するように見えるが、実は自分だけの利益を促進しているとすれば、外観、すなわち私の顕在的行動は、私を動機づける真の力と極端に矛盾することになる。私の行動は私の性格と異なっている。私の性格構造が行動の真の動機づけであって、それが私の現実のあり方を構成している。私の行動は、部分的には私のあり方を反映するかもしれないが、それはふつうは意識的でもなく、直接に観察できるものでもない。あることが<仮面を取ること>であるとする概念は、エックハルトが表明しているが、スピノザとマルクスの思想の中心であり、フロイトの基本的な発見である。(138P参照)

解り易い箇所を抜き出してはいるつもりなのでも、かえって話を難しくしてしまっているような・・・(;^_^A

ともあれ、目からウロコだったのが以下に続く文章でした。

マルクスの資本主義へのすべての批判と、彼の社会主義の理想が根ざしている概念は、人間の自発的能動性は資本主義体制においては麻痺するので、人生のあらゆる分野での能動性を回復することによって、十全な人間性を回復することを目的としなければならない、というものである。
 古典学派の経済学者たちから影響された種々の定型化はあるにせよ、マルクスが決定論者であって、人間を歴史の受動的な客体とし、能動性を奪ってしまったとする決まり文句は、彼の考え方の正反対なのであって、それは文脈からはずした幾つかの孤立した文章ではなしにマルクスを自分で読む人びとなら、容易に納得するだろう。(136~137P参照)

マルクスを自分で読む」機会を得ぬままに、はからずも政治にコミットしていたことが今更ながらに恥ずかしく、また空恐ろしくもあります。

とにかく、ここではとても説明しきれるものではありませんが、本書を理解するうえで、受動的<受動性>能動的<能動性>の定義付けがしっかりと為されていないと、その後に続く「破局を回避するために、 “持つ様式” から “ある様式” へとその価値観を転じるしかない」というフロムの話は腑に落ちないのではないかと思われるのです。

もう少し解説を試みたいと思います。

<能動性>と<受動性>とは、前産業社会の哲学的伝統においては、現在の意味では用いられてはいなかった。それも当然であって、仕事の疎外は現在のそれに匹敵するところまでは、至っていなかったからである。このため、アリストテレスのような哲学者は、<能動性>と単なる<忙しさ>との間の明確な区別さえ、していない。アテネでは、疎外された仕事は奴隷によってなされていた。肉体労働を含む仕事は、<実践>の概念から除外されていたようである。(131~132P参照)

フロムによれば、「スピノザは精神面の健康と病気が、それぞれ正しい生き方とまちがった生き方の結果であることを自明のこととした、最初の近代思想家」だということで、

欲求は能動的欲求と受動的欲求とに分けられる。前者は私たちの存在の条件(自然のままで、病的な歪曲ではない)に根ざし、後者はこれに根ざさないで、内部あるいは外部の歪曲的条件を原因としている。前者は私たちの自由の度合いに応じて存在し、後者は内部あるいは外部の力を原因としている。すべての<能動的情動>は、必然的に善である。<情熱>は善でも悪でもありうる。スピノザによれば、能動性、理性、自由、福利、喜び、自己完成は、互いに結びついていて切り離すことができない——受動性、非合理性、束縛、悲しみ、無力、そして人間性の要請に反する努力が、そうであるように。
 情熱と受動性に関するスピノザの観念を十全に理解することは、彼の考え方の最後の——そして最も現代的な——段階にまで進んで初めて可能である。すなわち、非合理的な情熱にかりたてられることは、精神的に病気であることだ、という考え方。最適度の成長を遂げるかぎり、それだけ私たちは(相対的に)自由で、強くて、合理的で、喜びにあふれるだけでなく、精神的にも健康である。この目標に到達できないかぎり、それだけ私たちは不自由で、弱く、合理性に欠け、抑鬱的である。(135P参照)

いかがでしょう。私にとっては難解な文章のオンパレードでしたが、解り難い部分を読み返しているうちに突如、「なるほど~」と、納得感が得られるような場面に何度も遭遇しました。

何れにせよ、まだまだ自身の備忘録としてこちらに認めておきたいフレーズが続きますので、もうしばらくお付き合いをいただければと思います。

次章に続く>>>

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