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生きるということ③

>>>前章より続く

さて、そもそもフロムは “持つ様式” のどこが問題だと指摘しているのでしょうか。

少し本文を引用してみます。

持つと様式は他人を排除する。それは私がさらに努力して自分の財産を守り、あるいはそれを生産的に活用することを求めはしない。仏陀はこの様式での行動を渇望と評し、ユダヤ教とキリスト教は強欲と評した。
それはすべての人とすべての物を或る死んだものに変貌させ、他人の力に従属させるのである。(112P参照)

難しいですね (;^_^A  もう少し続けましょうか。

 <私は何かを持つ>という文章は、主体の私(あるいは彼、私たち、あなた、彼ら)と客体のひとの間の関係を、表現している。そこには主体が永続的である、客体が永続的であるという含意がある。しかし主体には永続性があるのだろうか。あるいはまた客体にも。私は死ぬ身である。私は自分が何かを持つことを保証してくれる社会的地位を、失うかもしれない。客体も同じように、永続的ではない。それは破壊され、失われ、あるいはその価値を失うことがありうる。何かを永続的に持つという言い方は、永続的で破壊できない実体という幻想に基づいている。たとえ私がすべてを持っているように見えても、私は——実際には——何も持ってはいない。というのは、私が或る物を持ち、所有し、支配することは、生きる過程の中のつかの間のことにすぎないからである。(113P参照)

いかがでしょうか。まあ何となく、ぼや~っとしてはいますが、確かにそういうことではあります、よね…

では、フロムのいう “ある様式” とは?

この存在様式を象徴的に表すのは英雄である。英雄とは、自分の持っているもの——土地、家族、財産——を捨てる勇気を持ち、恐れをいだかないわけではないが、恐れに屈することなく進んでゆく人たちである。仏教の伝統の中では、仏陀が英雄であって、彼はすべての所有物、ヒンズー教神学に含まれるすべての確信——そして身分、家族——を捨て、執着を持たない生活へと進んでゆく。アブラハムとモーセは、ユダヤ教の伝統の中の英雄である。キリスト教の英雄はイエスであって、彼は何も持たず、そして——世間の目には——何者でもないが、彼の行為はすべての人間への十全なる愛に発している。(152P参照)

う~ん、、たしかに。

フロムは本書を認めた前提が、“持つ様式” は私たちを病人にするとしていましたが…

私は持っているものを失うことがありうるので、必然的に、持っているものを失うだろうと、たえず思いわずらう。私はどろぼうを、経済的変動を、革命を、病気を、死を恐れ、愛を、自由を、成長を、変化を、未知のものを恐れる。かくして私は慢性の憂鬱病にかかり、健康を失うことだけでなく、持っているほかのいかなるものをも失うことを恐れて、絶え間なく思いわずらう。防衛的になり、かたくなになり、疑い深くなり、孤独になり、よりよくわが身を守るためにより多くを持つ要求にかりたてられる。(153P参照)

まあ程度の差こそあれ、この指摘は誰にでも当てはまるのかもしれません。

私たちは肉体と母親の乳房(本来まだ区別されていない)のみを持つ。それから、世界に対して自分を方向づけることに取りかかり、世界の中に自分のための場所を作る過程を始める。私たちは持つことを望み始め、母親、父親、兄弟姉妹、おもちゃを持つ。のちに知識、職業、社会的地位、配偶者、子供を取得し、それから墓地を取得し、生命保険に入り、<遺言状>を作ることによって、すでに一種の来世をも持つのである。(152P参照)

たしかに…

しかし、たいていの人びとにとっては、持つ方向づけを捨てることはあまりにも困難である。そうしようとするいかなる試みも、強い不安を引き起こし、身の安全はすべて失われたような、泳ぎも知らないのに大洋に投げ出されたような、感じを覚えさせる。(128P参照)

そりゃあそうですよね^^;

ところで、フロムが指摘するこの2つの存在様式には大きな違いがあるとしています。すなわち、 ”持つ様式” は受動的な態度であり、 一方の”ある様式” の基本的特徴が能動的であるというのですが、ここはおさえておきたい大きなポイントのひとつかもしれません。

以下、次章へ続く>>>

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