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生きるということ⑤

>>>前章より続く

 フロムが能動的な意味での ”ある様式” への意識変革を求めるのは、以下のような前提に基づいているからなのですが…

政治的指導者たちが個人的利益を与えるらしいが、同時に共同体にとっては有害で危険な決定を下しても、もはやだれも驚かない。実際、利己心が現代の実際的倫理をささえる柱の一つなら、どうして彼らが違ったやり方をするはずがあろうか。彼らは、たとえ自分の生命や配偶者および子供たちの生命にかかわるような、現実の利害関係を追求する場合でも、貪欲は(屈服と同様に)人びとを愚かにすることを知らないように見える。同時に一般大衆も自分たちの私的なことがらに利己的に専念するあまり、個人的な領域を超えるすべてのことに対して、ほとんど注意を払わないのである。(27P参照)

そのうえでもう一度、フロムが解説するところのマルクスおよび社会主義についてご紹介しておきましょうか。

労働は彼にとっては人間の能動性を表わし、人間の能動性は生命である。一方、資本はマルクスにとって蓄積されたもの、過去、そして結局は死せるものを表わしている。資本家と労働者との争いがマルクスに対して持っていた感情的電荷を十全に理解するためには、それが彼にとっては生と死、現在対過去、人間対物、あること対持つことの戦いであったことを、考えなければならない。マスクスにとっての問いは、「だれがだれを支配すべきか」——生者が死者を支配すべきか、それとも死者が生者を支配すべきか——であった。社会主義は、彼にとっては生者が死者に勝った社会を表わしていた。  
 マルクスの資本主義へのすべての批判と、彼の社会主義の理想とが根ざしている概念は、人間の自発的能動性は資本主義体制においては麻痺するので、人生のあらゆる分野での能動性を回復することによって、十全な人間性を回復することを目的としなければならない、というものである。(136~137P参照)

なるほど。。

たしかに、チャップリンはかの名画「モダン・タイムス」で、すでにそのことを指摘していましたよね。

(Wikipediaより—資本主義社会や機械文明を題材に取った作品で、労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現している。)

1936年!にこの映画が出来ていたのかと思うと、そしてもう何度もこの映画に触れていたにもかかわらず、奥深いところでの理解が全く足りていなかったのかと思うと、なんともいえない気分になります^^;

実際に、私たちの生活(少なくとも私自身^^;)は、以下のような指摘に全く反論出来そうもありません。

産業社会では、時が至高の支配者となる。現在の生産様式が要請することは、すべての行為が正確に<時間どおり>であること、流れ作業のベルトコンベヤばかりでなく、そこまで露骨ではないにせよ、活動の大部分が時に支配されること、である。そのうえ、時は時であるばかりでなく、「時は金なり」である。機械は最大限に利用されなければならない。それゆえ、機械は自らのリズムを労働者に強要する。
 機械を通じて、時は私たちの支配者となった。自由時間にのみ、或る選択ができるように見える。しかし、私たちはたいてい、仕事を組織化するように、余暇をも組織化する。あるいは、完全になまけることによって、時の専制君主に反抗する。時の要請にそむく以外には何もしないことによって、私たちは自由であるという幻想をいだくが、実際には時の牢獄から仮釈放されているにすぎないのである。(177~178P参照)

フロムによれば、マルクスは

それはおそらく、彼が生きたのが百年早すぎたからだろう。彼もエンゲルスも、資本主義はすでにその可能性の限界に到達しているので、革命は間近に迫っていると考えた。しかし、エンゲルスがマルクスの死後に述べることになったように、彼らはまったくまちがっていた。彼らは資本主義の発達の絶頂において彼らの新しい教えを宣言したのであって、資本主義の衰退と究極的な危機が始まるためには、さらに百年を要することを予知しなかった。(212P参照)

面白いですね。たとえ少数ではあっても、もう半世紀近くも以前から、こんな見方をしていた方もいらしたんですね。ただただ浅学の身を恥じ入るばかりです・・

ところで、再読了後に気が付いたのですが、フロムはこの第四章で本書の結びともとれるような記述をしています。

持つ様式からある様式への変化に真剣に専念している若者(そして若干の年長者)の数は、あちこちに個別に散在する一握りの人間にはとどまらない。私は信じている。かなり多くの集団や個人が あることを目ざして進んでいることを、彼らは大多数の人びとの、持つ方向づけを超越した新しい傾向を代表していることを、そして彼らは歴史的な意義を持つ人びとであることを。少数者が歴史的発展の採る方向を示すのは、これが人類史上最初のことではないだろう。この少数者の存在は、持つことからあることへと、態度の一般的な変化が起こる希望を与えてくれる。(111~112P)

残念ながら、執筆時から半世紀近くも経た今、持つ様式からある様式への変化に真剣に専念している者のパイが大きくなったという実感はありませんが…

次章へ続く>>>

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