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生きるということ⑥

>>>前章より続く

フロムは本書で、エックハルトの「人びとは何をなすべきかより、自分が何であるかを考えるべきである・・・。かくしてなすべきことの数や種類でなく、善くあることに重点をおくように心掛けよ。あなたの仕事のよって立つ基本を、むしろ重視せよ」ということばを引用しています。

たしかに、現代でもそんな姿勢の経営者が少なからずおられることは承知していますが、本書が指摘するところの ”ある” ことを真の意味で理解するのは容易ではないと思われます。

ここで、 ”ある” ことの核心的な一説をご紹介しておきましょうか。

あることのすべての現われにおいて、同じことが言える。愛することの、喜びの、真理を把握することの経験は、時の中で起こるのではなく、今ここで起こる。この”今ここは永遠である”。すなわち時を超越している。ただし、永遠とは一般に誤解されているような無限に引き伸ばされた時間ではない。(176P参照)

はあ~? ですかね^^;

まあでも、たぶんこれが核心に迫るポイントなんですよきっと。
たぶん・・・

もう少し続けましょう。

従来型?の ”持つ” ことの最高の価値は、

他人より強くなり、勝ち、他人を征服し、搾取することである。これらの価値は、<男らしさ>の理想と一致する。戦い征服することのできる者だけが、男である。力の行使において強くない者は、だれでも弱い、すなわち、<男らしくない>のである。(192P参照)

これはまあ理解できますよね。

ところが、フロムはキリスト教を崇める欧米社会に対し、その在り方を真っ向から否定したうえで、
そもそも論として、キリスト自身は、

愛の英雄であり、権力を持たず、力を用いず、支配することを望まず、何も持つことを望まない英雄であった。これらの資質は、自らの利己心のために窒息していたローマの金持ちの何人かと同様に、貧しい人びとの心にも強く訴えた。知的な観点からは、せいぜい単純と考えられる程度であったが、イエスは人びとの心に訴えた。この愛の英雄への信仰は、何十万という信者を獲得し、その多くの者は生活習慣を変え、あるいは自ら殉教者となった。(191P参照)

とし、

もしヨーロッパの歴史が十三世紀の精神で続いていたならば、それが科学的な知識と個人主義との精神を、ゆっくりと進化的に発達させていたならば、私たちは今では幸福な状態になっているかもしれない。しかし、理性は操作的な知性へと、そして個人主義は利己心へと、堕落し始めた。キリスト教化の短い期間は終わり、ヨーロッパは本来の異教へもどった。(191P参照)

というふうに断じています。

彼らが崇めるキリスト教は本来のそれではなく、”異教” だと言い切ってしまっているんですから、これもまたスゴイと思いませんか。

では、 ”持つ” ことのいったい何がそんなに問題だと言っているんでしょうか。

 市場的性格が目標とするのは、パーソナリティ市場のあらゆる条件のもとで望ましい人物になるための、完全な順応である。市場的性格のパーソナリティは、執着すべき自我、彼らのものであって変化しない自我を持つ(十九世紀の人びとが持っていたように)ことさえない。というのは、彼らはたえず自我を変化させるからであって、その基準となる原理はこうである。「私はあなたのお望みしだいです。」 
 市場的性格構造を持つ人びとは、動くこと、最大の効率をもって物事を行なうことのほかには、目的を持たない。なぜそんなに速く動かねばならないのか、なぜ物事は最大の効率をもって行わなければならないのか、と尋ねられたら、彼らはまともな答えを持たず、「より多くの製品を造るため」とか、「会社を大きくするため」などと、合理化をするだろう。彼らはなぜ人は生きているのか、なぜ人はあちらの方向ではなくこちらの方向へ行くのか、というような哲学的、あるいは宗教的な問いには(少なくとも意識的には)ほとんど関心を持たない。現代社会における<同一性の危機>を生み出したのは、実はその構成員が自己を持たない道具となり、彼らの同一性が会社(あるいはほかの巨大な官僚制組織)の一員となることにかかっている、という事実である。(199~200P 参照)

これもたしかに ”言い得て妙” だとは思えます、よね?

それで、要するにフロムは我々にどうしろと言っているのでしょうか。

目的はぜいたくでも富でもなく、また貧乏でもない。実際、ぜいたくも貧乏もともにマルクスによって悪徳と見なされている。絶対的な貧乏は、内的な富を生み出すための条件なのである。
 この生み出すという行為は何だろうか。それは私たちの能力を、それに対応する対象に向けて能動的に疎外されずに表現することである。マルクスはさらに続ける。「世界に対する彼の〔<人間>の〕すべての人間的な関係――見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること、考えること、観察すること、感じること、欲すること、行うこと、愛すること――要するに個人としての彼のすべての器官は・・・・その対象的行動〔対象に関する行動〕において、この対象をわがものにすることであり、人間的現実をわがものとすることである」。これはある形式においてわがものとする形態であって、持つ様式ではない。(211P参照)

ここでもフロムはマルクスのことばを引用して、歪められた彼の思想を正しく評する努力を行っています。

次章に続く>>>



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