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風雲篇(Ⅳ)

筆者‐大芝太郎(2006年-志信会公式サイト「大西信弥物語」に連載)】

>>>前号より続く

28.(続)渦の中で

 「医者から一日でも早い手術を勧められました。」
「今は手術どころじゃない。信弥が本気で小池さんを応援してるんだ。悠長にベッドに寝ているわけにはいかん。」

選挙活動の最中、大西は、父の癌の再発を医師から告知されました。
一度こうと決めたら決意を変えることのない父の性格を知り尽くしている大西は、不安を胸の中に押しとどめ、父の思いに感謝していました。
結局父は選挙後に手術を受けることになります。
大西の父は手術が必要な体を押して、選挙に協力します。
そして今度は、母が夜中に救急車で病院に搬送され、膜下出血の疑いがあるとのことで入院してしまいます。
両親の看病を続けながら大西は選挙戦を戦っていきます。

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-写真- 選挙カー壇上でマイクで演説(2000年・41歳)

 自公保の与党統一候補者として選挙戦を戦っていた時点では、小池陣営には楽勝ムードが漂っていました。選挙戦初陣の大西もまた、危機感を察知できるだけの思慮を持ち合わせていませんでした。

最初の開票速報に、小池陣営として集まった面々は呆然としてしまいます。結果は3位、その後も最後まで一進一退を繰り返します。

小池さんと二人、車中で、選挙事務所から数百メートルの路地で、とっくに出ているはずの当確マークを待ちつづけた時間は、大西の生涯で最も長い2時間でした。そして、ようやく万歳をしたのは午前0時をまわっていました。
結果的には、辛勝したものの、結果がすべてという政治の現実に直面し「このままでは次回の選挙では勝てない。」と一人焦燥感を募らせていきました。

 同じ日、「小沢は終わった」といわれた自由党の選挙は、比例区で約 660 万票を獲得していました。

大西は、『信念を貫き通すこと』や、『人を信じること』、そして『信念の広がり』を大西自身が陣営に入っていた小池さんの選挙戦、両親の思い、そして小沢党首の戦いを通して思い知らされました。

29.理想と現実と、せつなさと。

 「東京で勉強してみない?」大西は小池さんから声をかけられます。
大西はあらためて自分の使命を思い返していました。
政治を、そして選挙を、もっと知りたい!大西の願いは切実なものに変化していました。小池さんは、与党(保守党)に入党しても、それでも孤独な戦いを続けていかなければならないことにかわりなく、選挙戦を通じて心を許せる戦友となった大西を信頼し、大西に側についていてほしいと願っていました。

その年の秋から、時間が許す範囲でという約束で議員会館に出入りすることになります。大西は、この年の暮れ、小池さんに随行して7名の超党派の国会議員をフォローしながら台湾を訪問し、李登輝前総統の邸宅での晩餐会に招かれます。

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-写真- 小池さんに帯同してエジプトへ(2001年2月・41歳)

 翌年の春にはエジプトに飛んでワリ副首相以下、主要閣僚数人との面談や、小池さんが推進する「日本エジプト友好の森」植樹式にも参加していました。
一見華やかに見える小池さんの政治活動は、実は小池さんが独自の人脈を少しずつ育てて、作られてきたものなのです。小池さんの草の根活動は国民にも、ましてや選挙民にも全く知られていませんでした。大西は小池政治の真実の姿を知ってもらう方法を、寝ても覚めても熟考していました。

当時、小池さんは朝早くから登庁し、心身ともにクタクタになるまで働き、一日の終わりに高輪議員宿舎へ向かう帰り道に、コンビニ弁当を購入して宿舎に入る毎日を過ごしていました。
小池さんは周知の通り、政治の世界に飛び込む前はトップキャスターとしての地位を確立し、個人の夢ならば叶えられる立場にいました。
それでも、日本を変えたいという夢のためにすべてを捨てて政治の世界で闘うことを決意しました。
でもその闘いは理想と引き換えに本当に孤独で不安なものでした。
当時の彼女は、どこにいても冷ややかな視線や冷笑の中にいました。
大西は、そんな彼女が疲れきって体を引きずりながらも、コンビニの袋を手に顔だけは上を向いて宿舎に入っていくその後ろ姿を見送りながら
「国会議員って一体何なのだろう…」というせつなさに、胸を締め付けられ
涙を流したことが何度もありました。

「たった一人でこの世界に飛び込んだ頃も、そして多分、今も小池さんは全力で戦っている。」
大西がそれを一番よく知るひとりであるという思いは今も変わることはないだろうと思います。

30.まっすぐ

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-写真- 筆者(左)と出会う契機となった9.11(2001年・42歳)

 「ニューヨークのテロ事件を見て、もうこれは直接政治に携わらなければ間に合わないと思って応募してきました。」

「うちの事務所に興味を持った理由を教えてくれるかな?」

「私の父は防衛庁を定年退職した元自衛官です。私はこの父の職業を誇りに生きてきています。小池さんの国防のあり方は、私が望む国のあり方を的確に表現してくれています。」

「アメリカの大学院に行った後、そのまま現地で働いていたんだぁ?」

「私は、一年前まで、アメリカで日本人向けの雑誌の編集をしていました。
その後、一年間かけて世界中を旅していました。」

「どこが一番印象に残っている?」

「イスラム社会、特に中東に入ったときの緊張感は言葉になりません。
また、英語も通じないところで病気になったときには心細かったですね。
今では良い思い出ですけどね。」

当時、東京や地元事務所などに、秘書志望の若者や政治家志望の学生が
事務所にコンタクトしてきた場合、大西が応対していました。

2001年9月28日、議員会館の地下一階で出会った道下修というこの若者は、まるで若いころの大西自身を見るような、ひたむきさと純粋さ、それゆえの危うさを同居させていました。

『それにしても、テロを見て実際動き出すとは、たいしたものだ。』

インタビューを終えた後、彼の印象が脳裏を離れませんでした。彼には「周りの人間が彼を放っておかせない何か」を持っていました。
そして、大西は彼を小池さんの秘書として推挙し、年末には彼は秘書として採用されます。

この若者は今後、大西の志信会設立に大きな役割を果たすこととなります。

次号に続く>>>


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