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自立篇(Ⅰ)

筆者‐大芝太郎(2006年-志信会公式サイト「大西信弥物語」に連載)】

>>>前号より続く

31.胎動

筆者‐大芝太郎(2006年-志信会公式サイト「大西信弥物語」に連載)】

>>>前号より続く

 2002 年 2 月、大西は名門宝塚ホテル内を駆け回っていました。80 年の歴史をもつこのホテルの敷地に一歩足を踏み入れると、そこは異空間。時代や場所を越えていくような不思議な感覚に包まれます。
時空を超えたようなホテルの雰囲気の中で、大西は焦燥感に襲われていました。小池さんを応援し始めて3度目の新年を迎え、集まるメンバーにとっては、小池百合子後援会青年部に参加している感覚はもはやなくなってしまい、『大西に声をかけられたので、仕方なく顔を出している』というものでした。
メンバーたちは冗談まじりに「あなたも大西さんの被害者ですか?」を会話の枕言葉に使っていました。この言葉を聞くたび大西は高笑いをしながら、
心の中で「ゆるしてください。」と謝っていました。

宝塚ホテルにメンバーの家族を招いて開催された小池百合子後援会青年部ミーティングは、『おつきあい』を少しでも楽しめるものにしようと大西が画策した『苦肉の策』でした。
それでも、『大西信弥とその被害者の会』の性格を変えることはできず、「このままでは、小池さんにも、会に集って何かを吸収しようとされたメンバーの方々にも申し訳ない。」 と改めて気づかされただけで、大西はいたたまれなくなっていました。

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-写真- 山口代議士を招いての研修会(2001年・42歳)

 打開策が全く見つからない状況の中で、大西は小池事務所から「政治家を育成する組織を作って」と再三に渡り要求されていました。
小池さんは、『百志塾』とその組織の名称も決めていました。 そもそも、百志塾創設の話が出てきたのは、 2001 年の夏ごろでしたので、(「そんなご無体なぁ…」と思いながらも)いつまでも保留にしておくこともできず、大西がこの組織を立ち上げるべきか結論を出さなくてはならない時期が近づいていました。百志塾の創設は、小池百合子後援会青年部を政治と経済に分断することを意味します。

『百志塾』は小池百合子後援会青年部とは異なり、「時間の許す範囲内で」できる支援ではなく、大西自身が主体となり政治家を育成する組織を創っていかなければなりません。
悩み抜いた末に大西は『百志塾』の設立を断行します。 大西がそこまでして、「百志塾」を始めたのは、自分自身の子供をつくることができない大西にとって、政治家を育成する百志塾は、生きた証を残す絶好の機会になるはずだと信じたからでした。

32.百志塾始動

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-写真- 政治団体・百志塾を設立(2002年・43歳)

【私の政治生活も十年を迎えました。初志として掲げた「改革」の御旗は色あせるどころか、私の初代秘書中田宏君 ( 現 : 横浜市長 ) をはじめ、「志」を共にする仲間達に広く深く受け継がれ、今、「百志塾」で花開こうとしています。
「政治を変える。日本を変える。」の理念の下、同志が集う道場が「百志塾」です。
強く改革の意思を持ち続け、挑戦を重ねることは容易ではありませんが、同じ「志」を有する100人の仲間あれば、世の中は動きます。動かせます。
逆に言えば、一人では何もできません。今、この国は、未来を設計し、責任を持てる、「心ある同志」の結集を必要としています。
「百志塾」を互いの自己啓発と日本改革の場として共に盛り上げて行きたいと思います。
今後とも変わりませず、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
2002年7月31日  百志塾 塾長 小池百合子】

 「理念によって集まる100人の仲間」が「未来を創り世界を変えていく」という小池さんのビジョンは大西に明確な目標を与え、突き動かします。
早速、百志塾創設パーティーを企画した大西は、メインスピーカーとして中田宏 横浜市長を招聘することを決めます。
この年( 2002 年)の春の横浜市長選挙、1990 年から 3 期市長を勤めてきた高秀秀信氏の再選は確実視されていたなか、中田氏は横浜市の逼迫した財政に注目をあて、改革を旗印に 横浜市長選“奇跡の勝利”を手に入れました。

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-写真- 中田横浜市長を招いての研修会(2002年・43歳)

 中田市長は、若い政治家志望者だけでなく、政治家を支援する若手経営者の両方が注目する数少ない政治家でした。中田市長の招聘に奔走していた大西は、中田市長擁立を陰で支えた陳氏と出会いました。百志塾の設立総会の事前打合せに現れた陳氏は、長身に立派な体格をもち、力強い眼が印象的な中国の名将のような風貌と礼節をわきまえた偉丈夫でした。

横浜で開催された総会の後、大西は陳氏と語り合い、「ここまで自分と共通する思いを持つ男がいるのか」という驚きと嬉しさで朝方まで飲み明かしました。
市長選への出馬に踏み切れない中田氏 ( 当時、衆議院議員 ) を、「ここで決断しなければ、おまえは政治家として終わりだ!」と叱咤したエピソードや、たった4人で400人の支援者がいると思わせた機略など、中田‐陳の力強い信頼関係は大西の心を大きく揺さぶります。

大西は小池さんとの関係を重ね合わせ、「まだまだ自分なんて大したことない」とつくづく思い知らされました。
そして大西はこの年の秋、25年間籍を置いていた父の会社を辞します。

次号に続く>>>

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