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書評:中上健次『地の果て 至上の時』

土着性の持つ遠景を巧みに活かした圧力ある作品

今回ご紹介するのは、日本文学より中上健次『地の果て 至上の時』。

※本作は『岬』『枯木灘』の続編という位置付けのため、是非両作を読まれたあとに読むことをオススメする。

本作については実は結構賛否両論があるらしいのであるが、私にとっては絶賛の域だった。

ただ、何がどう絶賛なのか、表現するのが非常に難しい。なので思いつくままに、自分の感覚を自分の素直な言葉で言語化してみたい。

本作を一言でいうと、「圧力のある作品」とでもなるだろうか。

舞台は南紀。

私の父が中上と同じく和歌山県新宮市出身なので(1945年生まれ)、私も少年期までよく訪れていたこともありその土地の風光を肌感覚で覚えている。海と山が極端に隣接した、独特の地形を持つ土地という印象がある。

また、海岸沿いの道路も曲線箇所が多く、一つカーブを曲がれば全く違った景色に見えるような不思議さがあった。

まずは、そんな空間的にぎゅっと圧縮されたような南紀が舞台であり、このことは作品を彩る背景として重要なイメージを提供しているように思われる。

その中に「路地跡」という、物語の中心となるエリアがある。この「路地跡」を重心とし、あらゆる空間が凝縮されているかのような世界観が描き出されている。

それから、血縁に基づく時間的な圧縮。

これまで離れていた主人公秋幸と実父浜村龍造が急速に接近するというプロットにより、血縁を軸に時間というものが凝縮されていく。

さらに、秋幸と浜村龍造とのやり取りをメインプロットとしつつ、「路地跡」を巡る物語や土着信仰のような怪事件など、さまざまなサブプロットがあり、それらが多層的に且つあたかももつれ絡まった糸くずが解きほぐせなくなってしまったかのような、様々なものが乱暴なまでに一つの固い結び目のように凝縮される。

以上のような作風から、読者はあたかも万力で上下左右から締め付けられるような感覚に襲われるのだ。

そして、最終的には。

その万力自身も自らが作り出す圧力に耐え切れず、万力ともども物語が崩壊するかのような終幕を向かえることになる。後に残るのは、敢えて言えば「虚無」とでも言えるだろうか。

終始読者を圧迫し、解放後には虚無感をもたらす。なかなかお目にかかれないタイプの作品だと思われる。

先程は土地柄への肌感覚について触れたが、南紀の人間模様や暮らしぶりにも他人の物語ではないような感覚を覚える。

また私の父の話となるが、父は作品のように異父兄弟を持っていた。10歳の時に父(私の祖父)を亡くし、非常に苦労して育ってきたことだろう。はっきり教えてはくれませんが、本作のような生活空間と大きな差はない暮らしであったことが容易に想像される。

私はこの作品を読んだ時、父を思い出さずにはいられなかった。

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以下は雑談(無駄話)。

上記で「虚無」という言葉を使った。この二文字で独立した意味を持つ言葉なので、以下に私が書くことは戯言なのだが。

私は本来この言葉があまり好みではない。他に適当な言葉が見つからなかったため、仕方なく使った次第だ。

「虚」と「無」は、数学的にも、存在論的にも全く別物なので、何だか違和感を覚えるのだ。

全く異なる概念を組み合わせた言葉自体は、例えば「高低」や「長短」など正反対の概念の組み合わせで見られるように全然おかしなことではないのだが、「虚無」はそのパターンでもなく、果たしてどんな状態を指す言葉なのかが語感からピンとこないのだ。

今度「虚無」の系譜でも調べてみようか・・。

読了難易度:★★★☆☆
物語の圧力度:★★★★★
地縁血縁のドンピシャ度:★★★★☆
トータルオススメ度:★★★★☆

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