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映画<エドワード・ヤンの恋愛時代>~かき氷のような愛おしさ

私が初めて台湾かき氷を食べたのは、1991年に旅先の台北のショッピングモールのフードホールでだった。
当時、まだ日本で台湾かき氷はほぼ輸入前だったから、現れたかき氷に、おおっと思った。
日本のかき氷より小ぶりのサイズで、ポップでカラフル。
練乳がたっぷりかけられ、カラフルなフルーツや白玉や餅やタピオカや杏仁豆腐が入っていたりして、味も見た目も、なんだかかわいい宝石みたいだった。
ガールズ・スイーツという感じだった。
映画「エドワード・ヤンの恋愛時代」を観たあとに浮かんだのは、そんな台湾かき氷のイメージだ。
舞台は、1990年代前半の台北。二日半の物語。
登場人物10人ほどの男女には、それそれパートナー的な存在があるけれど、その関係は、危うくて、つかみどころのなさが漂う。
飛んでいる途中で、ふと止まり木に休むように、恋愛めいた関係性を渡っていく女優のフォンは、その危うい関係性のイメージを体現しているような存在。
誰にでも愛想が良くて可愛くて、本心がつかめないと友人モーリーから批判される女、チチは、優しくて曖昧な空気のように世界を満たしている存在だ。
エドワード・ヤンの前監督作「牯嶺街少年殺人事件」で。
世界を歩くのに、光(懐中電灯)を手にしていた主人公の少年の視界は、愛おしい存在(少女)との距離感覚もつかめぬほどに、狭く幼く近視眼的だった。
少年たちからモテモテの少女は、同様の存在だと思っていた大人の医者が、婚約したことを知って不機嫌。その少女に「恋愛はそういうものではないよ」と医者は穏やかに伝える。
「牯嶺街少年殺人事件」で「そういうものではないもの」がわからなかった少年少女は、「恋愛時代」で「そういうものではないもの」をつかむ。つかんだとたんに、それが「つかめないもの」であることを知る。
「牯嶺街」で一眼だった想いは、「恋愛時代」で多焦点の想いとなる。
恋愛感情を言語化せよ、と問われても、正解は作り出せない。触れれば溶けていく、かき氷のような愛おしさは、言語のように利口ではないから。
1960年代の台北が舞台の「牯嶺街少年殺人事件」には、かき氷を削るかき氷屋が登場するのだが…シンプルだったかき氷が、氷の儚さに華やかさと軽やかさがのせられた台湾かき氷に進化する時間は、そのまま都市にも人々にも染み込んでいったかのように思えた。

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