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栗とモンブランと高杉晋作

まだ無名だった頃の高杉晋作

その一人旅をなぞったら 目頭が熱くなった

 茨城県 笠間市

 


笠間市

は「栗の生産日本一」だそうだ

年配者の自分には 少し信じがたい 昔は栗なんて 剥いてあれば食べるけど そうでなきゃ めんどくさくて食べなかった

たいした 食べ物ではなかったのだ いや ほんと 子どもは見向きもしなかったと言っていい(産地だったからなのか)

時代は変わるもの 今や「笠間の栗」「笠間のモンブラン」などは知名度が上がり 休日ともなれば 首都圏ナンバーの車も多く訪れる

確かに昔よりも甘く おいしくなった気はするが・・・
シーズン中の休日ともなれば 道の駅などには行列である 某テレビ番組の影響が大きいか?


そんな笠間を 今から 160年前 一人の若者が訪れている

その若者の名は 高杉晋作

にわかには信じがたいが まぎれもなく 長州藩士 高杉晋作である

高杉晋作

高杉晋作 満21歳 剣術と文学修行「試撃行しげきこう」の旅

 

高杉晋作21歳 前年に師吉田松陰を失った失意のなか(結婚もする)
幕府軍艦操練所での軍艦操練修行にも挫折
さまざまな思いを抱き 一人遊学の旅に出る

江戸を発った高杉は 新宿(東京葛飾区)  牛久(茨城県牛久市) 
府中(茨城県石岡市)を経て 笠間(茨城県笠間市)に至る

儒学者 加藤有隣ゆうりん桜老おうろう

加藤有隣は 笠間藩の高名な儒学者だった 藩政改革に取り組むが 重臣と対立 謹慎の身となり41歳で隠居 十三山書楼じゅうさんざんしょろうを建てここで訪れる多くの志士たちと国事などについて議論したという


十三山書楼があったとされる場所 「大和田の五差路」からすぐのところにある

笠間二日目 早朝に加藤有隣を訪ねる

当時 加藤有隣(桜老)は50歳 親子ほどに年齢の離れた二人だが

高杉が 即興で詩をつくって披露すると有隣は大いに喜んだという

時習館は 現在笠間市立笠間小学校になっている

加藤有隣は 若い高杉と意気投合 大いに語り合い 夕刻に高杉が辞すのを引き留め 夕飯ごちそうした 高杉は深夜になって宿に戻ることになる
そして 借りてきた有隣の詩文稿を徹夜で読む

加藤有隣は時習館の侍講を務めたこともあった

次の朝 顔を洗い 食事をとって お別れの挨拶に行く
そこでまた 楼に招き入れられ 今度は昼食までごちそうになるのだ
すさまじいまでのお気に入りっぷりで 出発は昼過ぎになったと思われる


高杉晋作が 笠間で目にしたもの


笠間入りした直後の高杉の日記を引用すると

「・・・木々の間から城の白壁が見えた」

真浄寺に移築された旧八幡台櫓(現在は観音堂として使われている)
まさに白壁

めずらしく 高杉が目にしたものが記されていてうれしい
この白壁の建物は 今は真浄寺しんじょうじというお寺の 観音堂となっている
解説文によると 山から解体せずに下したとされている
ちょっと信じがたい

笠間城の建物で現存しているのはこれだけだそうだ

おそらく高杉は 宍戸方面から 国道355号線沿いの旧道を歩いてきたと思われるので 見えたかもしれない 可能性はあるということで・・・

笠間稲荷神社

笠間稲荷神社の鳥居

笠間稲荷神社も有名だが 日記「試撃行」には参詣したことは記されていない

笠間稲荷神社本殿

拝殿の後ろには 荘厳な本殿がある (意外と知られていない)
この本殿は,上棟式が1860年(万延元年)9月18日とされており 高杉晋作は9月2~4日に滞在しているので 骨組みが出来上がった状態を見たかもしれない

かなり歴史を感じさせる建物だが それだけの時間が流れたのだと思わされてしまう

笠間入りした高杉晋作は 投宿すると宿に主人に剣術の試合についてたずねたが 時習館じしゅうかんの造営中で必ず断ることになっていることを知る

そして 自らも剣撃家を訪ねて断られている 
(ちなみにこの後も各地で断り続けられ 壬生まで試合は実現しない)

大イチョウ(笠間小学校)

笠間小学校の大イチョウ

樹齢350年といわれるイチョウ
このイチョウは 目に入ったことだろう アッパレです これからもお元気で 

高杉晋作が泊った宿

写真はイメージです
井筒屋旅館(現かさま歴史交流館井筒屋)

これは残念ながら日記には記されていない
ある小説では「宍戸屋」となっていたりする
残念 宿が現存でもしていたら「高杉も泊った宿」としては最高だったと思う

笠間稲荷近くにあるこの雰囲気のある建物はかつて有名な旅館だった 

夕刻になると 釣灯篭に灯りがともり まさに江戸時代の雰囲気
震災で被災して営業を終了し,リニューアルして現在の姿になっている
このあたりが大町地区で宿も多かったと思われる

写真の笠間小学校正門の北はクランクになっている 「枡形」という地名がある

「笠間の晋作ロード」


国道355号線 (時習館正門に面している)

笠間で高杉晋作が目にしたものは残念ながらほとんどない
時習館跡じしゅうかんあと(笠間小学校)の前の道路は 国道355号線であるが
高杉は府中(石岡)から来ているので 笠間入りでここを通り
宿から十三山書楼に行くときに通り
夜中に宿に帰るときに通り
次の朝 お別れの挨拶に行った時に通った

4回も通っているってすごくないですか? モンブランでもほおばりながらぜひ思いをはせてほしい

なので この通りは「笠間の晋作ロード」といえるだろう


石切山脈いしきりさんみゃくを通って 桜川市へ

モンブラン人気で石切山脈を訪れる人々は増えている


高杉晋作が歩いたと考えられる桜川市に通じる道路

最近 モンブランで評判の U-Aモンブランcafe の前の道路は石切山脈とよばれる

加藤有隣の元を辞した高杉は この道を通って桜川市の大泉に向かったと考えられる

車がすれ違うのも大変な道路だが 加藤有隣との面会で気分が爆上がりの高杉なので 意気揚々と次の目的地を目指したのではないか

モンブランをほおばりながら 160年前 まだ無名だった若者に思いをはせてみてはいかがでしょうか

すべては 『高杉晋作の「革命日記」』に教わった

       

『高杉晋作の「革命日記」』一坂太郎(朝日新書)

「幕末の風雲児」なのに 朝には顔を洗う
「幕末の風雲児」なのに お父さんと家の庭掃除をする
 

意外な人柄に 読後 あっけにとられた ギャップ萌えっていうのかな

日記の現代語訳がわかりやすい
この記事のネタ本です

日本人の高杉晋作像を変える まさに革命的な本


Youtube版もぜひご覧ください


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